朝、鏡に映る歯磨き中の自分は、正直かなりひどい顔をしていた。
鏡の奥のお母さんも、どこか心配そうに見える。
理由はわかりきっていた。
咀嚼音が耳にこびりついて離れない。
目を閉じると、食べ終わったあとの笑顔が脳裏に浮かぶ。
おかげで、ほとんど眠れなかった。
インターホンが鳴る。
こんな時間に来客なんて珍しい、と思いながら、慌てて歯磨きを切り上げる。
口をゆすぎ、歯ブラシを戻した。
けれど、まるで急かすようにインターホンは鳴り続ける。
そのしつこさで、人のものじゃないとわかった。
リビングに向かい、時計を見る。
もう家を出る時間だった。
「どうしよう…」
まだインターホンが鳴っている。
いるのはわかっているぞ、と玄関の向こうから急かされているみたいだった。
ずっと聞いていると、頭がおかしくなりそうだった。
目を閉じ、耳を塞ぐ。
そうしていないと耐えられなくて、縋るように昨日のことを思い出した。
春日先輩のそばで見た静かな景色が、まるで夢みたいに思えた。
近づかない方がいいとわかっているのに、こんなことがあると頼ってしまいたくなる。
気づいたら、音は鳴りやんでいた。
それでも玄関から出る気にはなれなくて、ローファーを持って勝手口へ回る。
家の前を見ないようにして、そのまま学校まで走った。
◇
家では散々だったけれど、いつも通りの時間に学校へ着くことができた。
下駄箱の中に入っていたのが上履きだけでよかったと安堵しながら、教室へ向かう。
教室の前では、他クラスの生徒やクラスメイトが何人か立ち止まり、俺の教室を横目にひそひそと話していた。
あまりにも小さい声だから、幽霊の呻き声と重なってよく聞こえない。
教室で何かあったんだろう。
けれど、それが幽霊の仕業じゃないことだけはすぐにわかった。
幽霊が見えるのは、俺だけだから。
扉を開けて中を見渡す。
二週間ほど空いていた席に、誰かが座っていた。
けれど、その人は最後に見た時とは別人みたいにやつれていて、クラスメイトたちは誰も近づこうとしなかった。
「直人、久しぶり」
自分の席に鞄を置いたあと、努めていつも通りの態度で声をかける。
けれど、近くで見ると変わりようはもっとはっきりしていた。
痩せこけた頬、整えていない眉、寝癖のついたままのぼさぼさの髪。
直人は弱々しい笑顔を浮かべて、挨拶を返してくれた。
彼がこうなった理由は知っている。
二週間前に、彼女が亡くなったのだ。
彼女とは幼馴染で、中学の卒業を機に付き合うことになったと聞いていた。
毎日のように惚気るほど、大事にしていた相手だった。
こうなってしまうのも無理はない。
俺にできることは、今まで通り接することくらいだった。
予鈴のチャイムが鳴り、廊下にいたクラスメイトたちが教室へ入ってくる。
直人から距離を置いていた子たちも、俺が声をかけたおかげか、大人しく席に着いた。
担任が教室に入ってくる。
「おはよう」と教室を見渡した視線が、直人のところで止まった。
何か言いかけたように見えたけれど、今は触れるべきじゃないと判断したらしい。
いつも通り、ホームルームを始めた。
その時だった。
突然、メッセージの通知を知らせる音が鳴った。
この学校はスマートフォンの持ち込み自体は禁止されていないが、授業中は電源を切る決まりになっている。
誰かの切り忘れだろうと、最初は特に気にしなかった。
でも、二度、三度と続けて鳴る。
先生は気づいていないのか話し続けているし、クラスメイトたちも誰もそちらを見ない。
そこでようやく、心霊的なものだと気づいた。
着信音に変わった今でも、誰もそれに触れないのだから。
ああ、まただ。朝に続いてこれだ。
逃げ場なんてないのだと、思い知らされているみたいだ。
朝みたいに耳も目も塞ぎたかった。
けれど、そんなことをしたら変な目で見られるかもしれない。
気を紛らわせるように視線を泳がせた時、直人の異変に気づく。
耳を塞ぎ、体を縮こませて震えている。
それからも、ホームルームが終わるまで着信音は鳴り続けた。
◇
「直人、ちょっといいかな」
ホームルームの一件がどうしても気になって、放課後、帰る準備をしている直人に声をかける。
もしあれが心霊に関わることで、直人を苦しめているのなら、どうにかしてやりたかった。その怖さを、俺は知っているから。
教室にはまだクラスメイトが残っている。
人気のないところで話すべきだとは思う。けれど、怖い話は幽霊を引きつけると聞くし、そうなると行き先は一つしかなかった。
屋上前の踊り場。
春日人生相談所だ。
「ここじゃ話せないから」
そう言うと、直人は少し驚いたような顔をして、それでも小さく頷いてくれた。
何を聞かれるのか、ある程度察しているのかもしれない。直人は大人しく俺の後ろをついてくる。
廊下に浮かぶ人魂も、助けを求めるみたいな声も、屋上に近づくにつれて静まっていく。
その変化に、自然とあの先輩の顔が浮かんだ。
踊り場に座る春日先輩が見えた瞬間、昨日のことが脳裏によぎる。
本当は、もう近づかない方がいいと思った相手だ。
それでも、直人を助けたい気持ちの方が強かった。
「今いいですか、春日先輩」
声をかけると、先輩が顔を上げる。
俺と目が合ったその瞬間、春日先輩がほんのわずかに目を瞬かせた―気がした。
先輩は何も言わず、俺に手のひらを差し出す。
「昨日の相談料」
そういえば、お菓子を毎日持ってこいと言われていたのを思い出す。
あいにく今日は用意がない。というか、昨日の出来事が衝撃的すぎて忘れていた。
この言い訳は許されるだろうか。
「冗談だ。昨日はお前のおかげで腹が満たされた。今回はなしでいい」
先輩は手を下ろし、今度は俺の隣に立つ直人へ視線を向けた。
「それで、僕に相談したいことがあるんだろう」
「直人、今困ってること、先輩に話しても大丈夫?」
振り返って、後ろに立っている直人に念のため確認する。
彼はびくりと肩を揺らし、視線を泳がせた。
その様子を見てか、「なるほど」と先輩の小さな声が聞こえた。
「無理に話さなくてもいい。このまま立ち去ってくれても構わない」
その声に、俺は春日先輩の方へ向き直る。
「だが、困っているならそこに座れ。相談に乗ってやる」
先輩が自分の前の床を指さす。
直人は何も言わず、ふらりとよろめきながらも座った。
その隣に、俺も腰を下ろした。
「僕はここで相談所を開いている、春日だ」
「…中村直人。冬真の友達です」
直人は春日先輩に頭を下げた。
その仕草に、先輩は「ああ」と短く応える。
「まず、お前を困らせている原因を聞こうか」
少し間を置いて、直人はぽつりぽつりと話し始めた。
「…二週間前、彼女が、死んだんです」
バイト帰りに交通事故に遭ったのだと、直人は途切れ途切れに続けた。
葬儀に参列して、最後の挨拶も済ませた。それでも受け入れられなかったのだという。
本当はまだ生きているんじゃないかと思ってメッセージを送っても、返事はこない。
会いたくて仕方なくて、死んだ人に会う方法を調べたのだと話した。
人形の腹を裂いて、二人の思い出の品を詰めたことは覚えている。
それから、美咲と名前をつけたことも。
他にもいろいろ手順はあったはずなのに、その時は会いたい気持ちで必死で、正直あまり覚えていない。
ただ、死んだ人の魂がその人形に宿って、会いに来てくれると書いてあった。
藁にもすがる思いだったのだと、直人はうつむいた。
「使った人形は、家中探しても見つからなくて」
直人は震えを抑えるように、自分の腕を抱いた。
しばらくして落ち着いたのか、懐からスマートフォンを取り出す。
「普段から学校では電源を切ってるんですが…」
傾けても画面は真っ黒のままで、嘘をついているわけではないとすぐにわかった。
「あの人形は俺のことを探してる」
何も映らない画面をじっと見つめて、直人はぽつりと零す。
「ああやって、何度も何度も何度も…電源が入っていないのに!」
それは、悲鳴みたいな叫びだった。
それが合図になったみたいに、直人の手の中にあるスマートフォンから着信音が流れた。
けれど、画面は依然として真っ黒なままだ。
ただ、着信があることだけを知らせている。
短い悲鳴を上げた直人は、手からスマートフォンを落とし、後ずさる。
何も操作していないのに、「留守番メッセージを再生します」と機械的な音声が踊り場に響いた。
『なおと?わたし、みさき!いまどこにいるの?』
「美咲?」
直人にとって聞き慣れた声だったのだろう。
反射的に、床に落ちたスマートフォンへ手を伸ばす。
しかし、その手が触れることはなかった。
『わたし、みさきだよ!いまどこにいるの?』
録音音声みたいに、声の強弱も抑揚もすべて同じだった。
そして次の瞬間、女の声だったものに別の響きが混じる。
『わたし、みさき。みさき、みさき、みさき、き、き、き、きー』
女とも男ともつかない音が重なって、最後には名前だけが何人分もの口で繰り返されていた。
ぷつりと音が切れ、画面が暗くなる。
「…こんなの、美咲じゃない」
直人は頭を抱えた。
こぼれた涙が、指の隙間から落ちる。
俺は思わず、自分の目元に触れた。
死んだ人に、もう一度会いたい。その気持ちはわかる。
鏡越しじゃなく、本当に母さんに会えたらと思うことがある。
視えないまま縋るしかなかった直人なら、なおさらだった。
「これは僕が預かろう」
春日先輩が床に落ちたままのスマートフォンを拾い、懐にしまう。
持ち主が持つべきではないと、さっき証明されたばかりだからだ。
隣で小刻みに震える直人を、一人にしておけないと思った。
「俺の家に泊まる?」
「ダメだ」
その提案を、先輩は即座に却下した。
反論しようとすると、冷たい目で睨みつけられる。
「友達思いなのはいいことだが、共倒れになるつもりか?」
ただ視えるだけのお前にできることはない、と言われた気がした。
その通りだとしても、はいそうですかと諦めることはできない。
「なら、直人の家に泊まろう」
再び否定の言葉が返ってくる前に、俺は言った。
「春日先輩も一緒に」
先輩は信じられないといったような表情をした。
無理もない。昨日今日知り合ったばかりの人間と同じ屋根の下で過ごすなんて、そうそうあることじゃない。
先輩は考えるように視線を落としたあと、鞄を持って立ち上がった。
「いいだろう」
そうして、階段を下りていった。
◇
家の鍵を開けた直人が、「どうぞ」と中へ促す。
俺と春日先輩は「お邪魔します」と言いながら、玄関に入った。
先に靴を脱いで上がった春日先輩は、きっちりと靴を揃える。
その仕草がやけに綺麗で、こういうところに家柄が出るんだなと思った。
そういえば、あの時勢いで直人の家に泊まるなんて言ってしまったけれど、大丈夫なんだろうか。
そう思っていると、春日先輩が先に口を開いた。
「親御さんは?」
「二人とも海外出張でいないんです」
直人の後に続いて、リビングへ続く扉をくぐると、あらゆるものが床に散乱していた。
人形を探し回った跡だろうかと考えていると、直人がこちらを振り返って頭を下げた。
「冬真、先輩もありがとうございます。一人じゃどうすればいいかわからなかったので」
俺は慌てて、その動きを止める。
「困ってる時はお互い様だから」
直人の重荷にならないよう、本心を口にした。
「感謝の言葉は解決してからにしろ」
一方で、春日先輩は感謝の言葉を受け取ろうともせず、冷たく言い放った。
その言い方に、思わず絶句する。
直人にだけ聞こえるくらいの小さな声で、気にしないようにと伝える。
直人は「大丈夫」と微笑んだ。
「他の部屋も散らかっているのか?」
散乱している物を見ていた春日先輩が顔を上げて尋ねると、直人は頷く。
「散らかしたのは?」
次の質問には首を横に振った。
なら、人形の仕業だということになる。
「死者に会う方法の中に、隠れるって書いてあって、その通りにしました」
直人は自室の扉を指さし、「物置に隠れてました」と続けた。
その時のことを思い出すように、顎に手を添える。
「部屋の扉を開けた音は聞こえました。でも、すぐに出ていきました」
自分の部屋から出た時はかなり驚いたと、直人は苦笑いを浮かべた。
なんせ、他の部屋は物置の扉も開け放たれて、中身も全部引っ張り出されていたのだから。
「気づかれなかったのかもしれない」
直人と顔を見合わせて首を傾げる。
案内してもらった隠れ場所に春日先輩が体を滑り込ませた。
「何してるんですか?」
先輩のしていることが気になって覗き込むと、物置の扉の裏を指先でなぞったあと、今度は天井に目を向ける。
「結界の役割を果たしているものがないかと思ってな」
物置の中をひと通り見終えたのか、先輩が出てきた。
先輩の言う通り、この物置だけ明確に避けられている。
まるで、この物置だけ見えていなかったんじゃないかと思うくらいだ。
他の部屋の散らかり具合を見て納得し、その理由を本人に聞こうと目を向けた先で、不思議な気配に気づく。
俺の視線に気が付いた直人が、首元の鎖に指をかけて持ち上げた。
「これは美咲の遺骨で作ったものだ」
きらりと光るネックレスを見て、これだとすぐにわかった。
「春日先輩、このネックレスが守ってくれたみたいです」
そう言いながら、直人の胸元を指さす。
「…だから、スマートフォンを使って探していた」
納得したように、ネックレスを見て先輩は小さく頷いた。
「これがあるなら、大丈夫ですよね?」
「モノには限界がある」
春日先輩は首を振って、ネックレスから視線を外す。
「だから…」
その先を、春日先輩は言わなかった。
けれど、何を言いたいのかはわかった。
食べる必要がある、ということだ。
ふと、直人のスマートフォンを思い出して先輩に尋ねた。
幽霊が怯える春日先輩がいても構わず着信音が鳴っていたし、人形がこの場所を知っているなら、そのスマートフォンがここにあればすぐ見つかってしまいそうで不安になった。
「安心しろ、この場にはない」
顔に出ていたのだろうか。
不安に寄り添うような言葉をかける春日先輩に、少しくすぐったくなる。
「今日はひとまず中村を休ませることを優先した。気が弱っていると魔が寄りついてくる。一旦忘れて、食べて風呂に入って寝ろ」
そんな簡単に忘れられたら苦労しないだろう、と思いながら直人に視線をやる。
ずっと気を張っていたのだろう。思い詰めた表情をしていた直人は、ほんの少し和らいでいた。
そのあとは、先輩に言われた通りに過ごした。
近くのスーパーで買った惣菜を机に並べ、三人で食べながら直人がいなかった二週間の話をした。
もちろん、春日先輩は話には加わらず、聞いているだけだった。
そのあと、風呂に入ることになった。順番は、直人、俺、春日先輩。
直人は一番風呂を譲ろうとしたけれど、家主だし疲れているだろうからと、二人して首を横に振った。
俺も春日先輩に譲ろうとしたけれど、理由は言わずに断られてしまった。
無理に聞くほどでもないし、言うつもりもないのだろうと思って、この順番になった。
直人が風呂に入っている間に、ゴミの片付けと洗い物を二人で分担する。
「お前、お皿割りそうだな」
そんな偏見で、俺はゴミの片付けを担当することになった。
けれど、俺にとっても洗い物と春日先輩の組み合わせはしっくりこない。
手が荒れるとか、そういう理由で断りそうなものなのに。
ゴミの片付けが終わったあと、先輩が洗った食器を拭く役に回った。
昨日出会ったばかりなのに、こうして同じ家に泊まっていること自体が不思議だった。
直人の依頼とはいえ、幽霊を食べる春日先輩だって、同じくらい怖いはずなのに。
だから、きっとこの環境のせいだ。
春日先輩のことを、もう少し知ってみたいと思ったのは。
「…幽霊を食べないと、どうなるんですか」
先輩を横目で盗み見る。
表情が変わった様子はなく、俺の質問をどう思っているのかはまったくわからない。
ただ、先輩は淡々と答えた。
「腹が減る」
意外だった。
お前には関係ないと突き放しそうなのに。
「いつから幽霊を食べるようになったんですか?」
「お前と同じだ」
短すぎる返答に、それ以上踏み込む言葉が喉に引っかかった。
俺は小さい頃、物心ついた時にはもう幽霊が視えていた。
その時は怖くて泣いていたけれど、先輩にも似たようなことがあったのだろうか。
けれど、それを聞く勇気はなかった。
「幽霊以外も食べられるんですか?」
「さっき、お前たちと食べていただろ」
さっき一緒に食べたことを思い出して、顔が熱くなる。
自分の忘れっぽさが恥ずかしくなった。
先輩もさぞ滑稽だと思っているんだろう、なんて考えながらまた横目で見る。
けれど、やっぱり表情は変わっていなかった。
「…お前たちと変わらない」
最後の皿を洗い流して、水切り籠に乗せる。
先輩は手を拭って、こちらに向き直った。
じっと見つめる視線に、俺は目をそらしてしまう。
「食べないと死ぬ」
厄介な体質だと思ってはいるのだろう。
けれど、嫌だとか辛いとか、そういう言葉にするつもりはないらしかった。
「満足したか?」
ふっと、先輩が柔らかい笑みを浮かべた。
その理由はわからない。ただ、そんなふうに笑うのは珍しいと思った。
「…まだです」
一番聞きたかったことが、聞けていない。
これを知らないと、俺はこの先もこの人を怖いまま見てしまう気がした。
「もし、直人を狙ってる幽霊が美咲さん本人だったら、食べますか?」
「そうだな、食べる」
即答だった。
「どんな理由でも、人を傷つけていい理由にはならない。少なくとも、僕が食べるのはそういうものだけだ」
その言葉に、少しだけ安堵した。
少なくとも、何でも食べるわけじゃないらしい。
昨日見たものの恐ろしさが消えるわけじゃない。
けれど、春日先輩の中に自分なりの線引きがあるのだと知って、ほんの少しだけ見え方が変わった。
「…なんでも食べると思ってました」
「昨日は空腹だったんだ、そこまで気を回す余裕はなかった」
言い訳のつもりではないのだろう。
ただ事実をそのまま口にしただけみたいな声音だった。
「すみません、長風呂してました」
タオルで髪を拭きながら、直人が脱衣所から出てくる。
入れ、ということなのだろう。俺を見た春日先輩が、顎で脱衣所の扉を示した。
大人しく脱衣所へ向かう。
正直、風呂は苦手だ。
湯船に浸かっていたのは親と一緒に入る時だけで、それも小学校低学年までだった。
初めて一人で入った時、蛇口から長い髪の毛が出たり、湯船に浸かっていると女性の頭が浮かび上がったことがあったのだ。
それ以来、シャワーで済ませていた。
春日先輩がいるし、今日は湯船に浸かっても大丈夫な気がする。
体を洗ったあと、湯船に身を沈めた。
息を吐きながら、さっきの先輩とのやりとりを思い返した。
まだ怖いと思う気持ちは残っている。
けれど、知らないまま遠ざけているだけなのも違う気がした。
もう少し知ってみたい。そんな気持ちが、確かに芽生えていた。
お風呂から上がって春日先輩に入るよう勧めたあと、直人の部屋でとりとめのない話を交わす。
けれど、もし何かあったらどうしようという不安が湧いてきて、先輩が出てくるまで脱衣所の前で直人と並んで座っていた。
風呂から上がった春日先輩は、その姿を見るなり一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、どこか気まずそうに視線を逸らす。
その後は、直人の部屋に二人分の布団を敷き、豆電球にして寝転がった。
直人はすでに寝息を立てて眠っている。
その姿に安心した途端、俺の瞼も重くなった。
早く直人が、こんなふうに怯えずに眠れる日常に戻れたらいい。
そんなことを思いながら、瞼を閉じた。
◇
けたたましい音で飛び起きる。
何が起きたのかと辺りを見渡して、ここがいつもと違う場所だと気づいた。
春日先輩と一緒に、直人の家に泊まったんだった。
「驚かせてごめん」
さっきの音は、直人の枕元に置いてあった目覚まし時計らしい。
時計を手に持ち、眉を下げた直人が片手で謝るような仕草をする。
昨日より隈のないすっきりした顔を見て、ほっとした。
直人は布団を踏まないよう避けながら、扉の前へ移動する。
「じゃあパンでも用意しとくから、春日先輩のことよろしくな」
春日先輩用に用意した布団へ目を向けたあと、俺に先輩を任せて部屋を出ていった。
その春日先輩は、頭まで毛布をかぶって丸まっている。
もぞもぞと動いているから起きてはいるんだろうけれど、とても機嫌がいいとは思えない。
「あの、春日先輩」
とりあえず、体を揺するような真似はやめておこうと、声をかけるだけにする。
けれど、反応はない。
「学校、遅刻しちゃいますよ」
親みたいなことを言っているなと自覚して少し恥ずかしくなる。
それでも、直人に任されてしまったし、ここはその直人の家だ。
「ここ、春日先輩の家じゃないですよ」
その言葉でようやく、春日先輩は毛布から這い出てきた。
よかった、一応そういう常識はあるらしい。
ただ、眉間に皺が寄っていて、機嫌が悪いことだけはすぐにわかった。
なるべく怒らせない方がいいと思って、二人分の布団を片づけてからリビングへ向かった。
「おはようございます、春日先輩」
直人の挨拶に頷いたあと、掠れた、いつもより低い声で「おはよう」と返す。
どうやら春日先輩は本当に朝が弱いらしい。
怖いだけじゃない部分を、少しずつ知っていくような感覚だった。
三人で直人が用意してくれたパンを頬張って、それぞれ学校へ向かう準備をする。
春日先輩が寄るところがあると言うので、いつもより早い時間に外へ出た。
学校の最寄り駅に着くと、春日先輩は人通りの少ない通路の先へ進んでいく。
その先で足を止めたのは、端の方に並んだ貸しロッカーの前だった。
いくつもあるロッカーのうち、一つだけが使用中になっている。
手順通りにロッカーの鍵を開けた途端、どこからか着信音が鳴り響く。
音は、今まさに春日先輩が開けたロッカーの中から聞こえていた。
「…あ」
隣に立っていた直人が、その音から逃げるみたいに耳を塞ぐ。
「中村、あれはお前の彼女だと思うか?」
先輩の問いに、直人は首を横に振った。
「それを、はっきりと言ってやれ」
「朝倉、視えたら教えてくれ」
ロッカーの前に立つ春日先輩の背中を見ていて、ふと違和感を覚えた。
ここで震えているだけじゃ、何も変わらない。
直人を連れてきたのは俺だ。
なら、怖くても見届けなきゃいけない。
そう思って、震える足に喝を入れ、春日先輩と肩を並べる。
その時、先輩がふっと笑った気がした。
けれど確かめる前に、ロッカーの扉が開いた。
ロッカーの中は、びっしりと赤い文字で直人の名前と「どこ?」が刻まれていた。
扉の裏にも、余すことなく。
一度切れたはずの着信が、また鳴り出す。
誰もスマートフォンに触れていないのに、勝手に応答へ切り替わった。
ざあっとノイズが走ったあと、
「…もしもし、直人?美咲だよ」
流暢で綺麗な声が響く。
今までのことがなければ、本人だと信じてしまいそうだった。
「…君が会いたいって言ったのに、どうして会ってくれないの?恥ずかしがりやさんなのかな」
「…写真、大事にしてくれたんだね」
「これ、観覧車の写真だ。高いところ、こわかった?直人、へんな顔。この時、落ちたらよかったのに。そしたら今も二人で一緒にいれたのにね。直人だけ残っちゃったんだ」
「これは海の写真だね。どうしてこんなに浅いところにいるの?もっと深いところまでいけばよかったのに。二人ともぶよぶよになったのかなあ」
「…やめろ」
「美咲はそんなこと言わない!」
「やっと、見つけたァ!」
ぶつりと着信が切れると同時に、ロッカーの奥に、さっきまでなかった人形が現れた。
「春日先輩…!」
俺の声に反応したように、人形の目が一回転してからぎょろりとこちらを睨みつける。
手にしている鋏を振り上げ、こちらへ飛びかかってきた。
横から殴られたような衝撃を受けて、地面に倒れ込む。
痛みに耐えながら顔を上げると、頬に切り傷を受けた春日先輩が覆いかぶさっていた。
「血が…」
「かすり傷だ。僕の心配より、やることがあるだろ」
先輩に引っ張り上げられ、すぐに体勢を立て直す。
「どこ?どこ?なおと、どこ?」
まだ遺骨のネックレスが守ってくれているのだろう。
目の前に直人がいるのに、人形は気づいていない。
一歩、また一歩、人形に近づいて手を伸ばす。
首を掴み、手にしていた鋏を叩き落とした。
「やっと会えたね、なおと」
「お前は美咲じゃない」
直人の一言に、人形の輪郭がぶれた。
人形を媒介に、幽霊が張りついているのだと気づく。
「ひどいなぁ、呼んだのは直人じゃん」
「うるさい…!」
直人は人形を地面へ向かって投げつけた。
そのまま踏みつけようと足を上げる。
けれど、その足が人形の上に落ちることはなかった。
人形は不気味に笑って、「やさしいなあ直人は」なんて、誰のものでもない声を上げる。
「人形に、幽霊がぴったり張り付いてるみたい」
「わかった」
狙いを定めた春日先輩が、人形へ近づく。
人形はぎぎぎと首を先輩の方へ向けた。
逃げ惑うみたいに目玉がぎょろぎょろと回転している。
輪郭が震え、だんだんずれが大きくなっていった。
春日先輩は人形へ手を伸ばし、ずれた輪郭の方を掴む。
影を剥がすのと同時に、人形に縫い込まれていた赤い糸が、ぶち、ぶち、と千切れていった。
大きく口を開け、掴んだ幽霊を口元へ近づける。
一方で直人は、人形から零れ落ちた写真を拾い集めていた。
ぐちゃりと食いちぎれる音と、幽霊の金切り声がその場に響く。
ぎゅっと目を閉じて、耳を塞ぐ。
それでも完全には防げず、咀嚼音と悲鳴が耳の奥で響いた。
ごくんと飲み込む音が聞こえ、そのあとに続く音はない。
終わったのだと理解する。
そっと目を開けると、写真を抱きしめて謝罪を繰り返す直人と、人形を拾い上げる先輩が見えた。
直人に駆け寄って背中に手を添え、何度も優しく撫でる。
「人形とスマートフォンはこちらで処分する。それと…」
先輩は、直人が抱きしめている写真へ指を向けた。
けれど、諦めたような表情を浮かべて口をつぐむ。
代わりに手首の時計を見て、ぼそりと呟いた。
「…遅刻だな」
「先輩って遅刻とか気にするタイプなんですね」
俺の言葉に、直人が鼻を啜る音に混じって笑い声をこぼす。
それがつぼに入ったのか、笑いはしばらく収まらなかった。
ようやく落ち着いた頃には、直人の表情も少しやわらいでいた。
今度こそ、三人で学校へ向かう。
校門をくぐったところで、春日先輩は足を止めた。
「ここまででいいだろ」
そう言ってから、春日先輩は直人の方を一度だけ見た。
何か言うわけではなかった。
ただ、その視線が直人の顔に少しだけ留まる。
大丈夫か、と確かめているようにも見えた。
次の瞬間にはもう、春日先輩は何事もなかったみたいに背を向けていた。
俺たちの返事も待たずに、校舎の奥へ向かっていく。
その背中を見送ってから、俺と直人は一年の教室へ向かった。
けれど、普段通りに振る舞うには、少し無理があった。
俺も直人も、多少なりとも服は乱れていたし、直人の顔にはまだ疲れが残っている。
教室に入ると、担任にどうしたんだと怪訝そうな顔をされたけれど、直人が「ちょっと色々あって」と曖昧に笑ってごまかした。
それでも、昨日までの張りつめた様子を思えば、今こうして学校に来られているだけで十分だった。
ボロボロになりながらも、春日先輩はちゃんと直人をここまで連れてきてくれたのだ。
そのことが、思っていたよりずっと胸に残っていた。
◇
数日後、お礼のお菓子を持って屋上前の踊り場へ向かった。
直人のことが落ち着いて、改めてちゃんと礼を言いたいと思ったのだ。
「先輩、この前はありがとうございました」
春日先輩はいつものようにお菓子を受け取るだけだった。
礼だけ言って終わりにする気にはなれなかった。
直人がああして学校に来られるようになったのは、春日先輩が解決してくれたからだ。
怖いと思った気持ちが消えたわけじゃない。
けれど、それだけで終わらせたくもなかった。
「また誰かが困っていたら、今度は俺も一緒に解決したいです」
先輩は本から目だけをこちらに向けた。
「できることがあるなら、手伝わせてください」
先輩は少しだけ目を細めたあと、興味なさそうに本へ視線を落とす。
「勝手にしろ」
突き放すような言い方なのに、不思議と拒まれた気はしなかった。
春日先輩が本を閉じるのを待って、俺たちは一緒に帰った。
昨日までみたいな遠さは、少しだけ薄れたような気がした。
鏡の奥のお母さんも、どこか心配そうに見える。
理由はわかりきっていた。
咀嚼音が耳にこびりついて離れない。
目を閉じると、食べ終わったあとの笑顔が脳裏に浮かぶ。
おかげで、ほとんど眠れなかった。
インターホンが鳴る。
こんな時間に来客なんて珍しい、と思いながら、慌てて歯磨きを切り上げる。
口をゆすぎ、歯ブラシを戻した。
けれど、まるで急かすようにインターホンは鳴り続ける。
そのしつこさで、人のものじゃないとわかった。
リビングに向かい、時計を見る。
もう家を出る時間だった。
「どうしよう…」
まだインターホンが鳴っている。
いるのはわかっているぞ、と玄関の向こうから急かされているみたいだった。
ずっと聞いていると、頭がおかしくなりそうだった。
目を閉じ、耳を塞ぐ。
そうしていないと耐えられなくて、縋るように昨日のことを思い出した。
春日先輩のそばで見た静かな景色が、まるで夢みたいに思えた。
近づかない方がいいとわかっているのに、こんなことがあると頼ってしまいたくなる。
気づいたら、音は鳴りやんでいた。
それでも玄関から出る気にはなれなくて、ローファーを持って勝手口へ回る。
家の前を見ないようにして、そのまま学校まで走った。
◇
家では散々だったけれど、いつも通りの時間に学校へ着くことができた。
下駄箱の中に入っていたのが上履きだけでよかったと安堵しながら、教室へ向かう。
教室の前では、他クラスの生徒やクラスメイトが何人か立ち止まり、俺の教室を横目にひそひそと話していた。
あまりにも小さい声だから、幽霊の呻き声と重なってよく聞こえない。
教室で何かあったんだろう。
けれど、それが幽霊の仕業じゃないことだけはすぐにわかった。
幽霊が見えるのは、俺だけだから。
扉を開けて中を見渡す。
二週間ほど空いていた席に、誰かが座っていた。
けれど、その人は最後に見た時とは別人みたいにやつれていて、クラスメイトたちは誰も近づこうとしなかった。
「直人、久しぶり」
自分の席に鞄を置いたあと、努めていつも通りの態度で声をかける。
けれど、近くで見ると変わりようはもっとはっきりしていた。
痩せこけた頬、整えていない眉、寝癖のついたままのぼさぼさの髪。
直人は弱々しい笑顔を浮かべて、挨拶を返してくれた。
彼がこうなった理由は知っている。
二週間前に、彼女が亡くなったのだ。
彼女とは幼馴染で、中学の卒業を機に付き合うことになったと聞いていた。
毎日のように惚気るほど、大事にしていた相手だった。
こうなってしまうのも無理はない。
俺にできることは、今まで通り接することくらいだった。
予鈴のチャイムが鳴り、廊下にいたクラスメイトたちが教室へ入ってくる。
直人から距離を置いていた子たちも、俺が声をかけたおかげか、大人しく席に着いた。
担任が教室に入ってくる。
「おはよう」と教室を見渡した視線が、直人のところで止まった。
何か言いかけたように見えたけれど、今は触れるべきじゃないと判断したらしい。
いつも通り、ホームルームを始めた。
その時だった。
突然、メッセージの通知を知らせる音が鳴った。
この学校はスマートフォンの持ち込み自体は禁止されていないが、授業中は電源を切る決まりになっている。
誰かの切り忘れだろうと、最初は特に気にしなかった。
でも、二度、三度と続けて鳴る。
先生は気づいていないのか話し続けているし、クラスメイトたちも誰もそちらを見ない。
そこでようやく、心霊的なものだと気づいた。
着信音に変わった今でも、誰もそれに触れないのだから。
ああ、まただ。朝に続いてこれだ。
逃げ場なんてないのだと、思い知らされているみたいだ。
朝みたいに耳も目も塞ぎたかった。
けれど、そんなことをしたら変な目で見られるかもしれない。
気を紛らわせるように視線を泳がせた時、直人の異変に気づく。
耳を塞ぎ、体を縮こませて震えている。
それからも、ホームルームが終わるまで着信音は鳴り続けた。
◇
「直人、ちょっといいかな」
ホームルームの一件がどうしても気になって、放課後、帰る準備をしている直人に声をかける。
もしあれが心霊に関わることで、直人を苦しめているのなら、どうにかしてやりたかった。その怖さを、俺は知っているから。
教室にはまだクラスメイトが残っている。
人気のないところで話すべきだとは思う。けれど、怖い話は幽霊を引きつけると聞くし、そうなると行き先は一つしかなかった。
屋上前の踊り場。
春日人生相談所だ。
「ここじゃ話せないから」
そう言うと、直人は少し驚いたような顔をして、それでも小さく頷いてくれた。
何を聞かれるのか、ある程度察しているのかもしれない。直人は大人しく俺の後ろをついてくる。
廊下に浮かぶ人魂も、助けを求めるみたいな声も、屋上に近づくにつれて静まっていく。
その変化に、自然とあの先輩の顔が浮かんだ。
踊り場に座る春日先輩が見えた瞬間、昨日のことが脳裏によぎる。
本当は、もう近づかない方がいいと思った相手だ。
それでも、直人を助けたい気持ちの方が強かった。
「今いいですか、春日先輩」
声をかけると、先輩が顔を上げる。
俺と目が合ったその瞬間、春日先輩がほんのわずかに目を瞬かせた―気がした。
先輩は何も言わず、俺に手のひらを差し出す。
「昨日の相談料」
そういえば、お菓子を毎日持ってこいと言われていたのを思い出す。
あいにく今日は用意がない。というか、昨日の出来事が衝撃的すぎて忘れていた。
この言い訳は許されるだろうか。
「冗談だ。昨日はお前のおかげで腹が満たされた。今回はなしでいい」
先輩は手を下ろし、今度は俺の隣に立つ直人へ視線を向けた。
「それで、僕に相談したいことがあるんだろう」
「直人、今困ってること、先輩に話しても大丈夫?」
振り返って、後ろに立っている直人に念のため確認する。
彼はびくりと肩を揺らし、視線を泳がせた。
その様子を見てか、「なるほど」と先輩の小さな声が聞こえた。
「無理に話さなくてもいい。このまま立ち去ってくれても構わない」
その声に、俺は春日先輩の方へ向き直る。
「だが、困っているならそこに座れ。相談に乗ってやる」
先輩が自分の前の床を指さす。
直人は何も言わず、ふらりとよろめきながらも座った。
その隣に、俺も腰を下ろした。
「僕はここで相談所を開いている、春日だ」
「…中村直人。冬真の友達です」
直人は春日先輩に頭を下げた。
その仕草に、先輩は「ああ」と短く応える。
「まず、お前を困らせている原因を聞こうか」
少し間を置いて、直人はぽつりぽつりと話し始めた。
「…二週間前、彼女が、死んだんです」
バイト帰りに交通事故に遭ったのだと、直人は途切れ途切れに続けた。
葬儀に参列して、最後の挨拶も済ませた。それでも受け入れられなかったのだという。
本当はまだ生きているんじゃないかと思ってメッセージを送っても、返事はこない。
会いたくて仕方なくて、死んだ人に会う方法を調べたのだと話した。
人形の腹を裂いて、二人の思い出の品を詰めたことは覚えている。
それから、美咲と名前をつけたことも。
他にもいろいろ手順はあったはずなのに、その時は会いたい気持ちで必死で、正直あまり覚えていない。
ただ、死んだ人の魂がその人形に宿って、会いに来てくれると書いてあった。
藁にもすがる思いだったのだと、直人はうつむいた。
「使った人形は、家中探しても見つからなくて」
直人は震えを抑えるように、自分の腕を抱いた。
しばらくして落ち着いたのか、懐からスマートフォンを取り出す。
「普段から学校では電源を切ってるんですが…」
傾けても画面は真っ黒のままで、嘘をついているわけではないとすぐにわかった。
「あの人形は俺のことを探してる」
何も映らない画面をじっと見つめて、直人はぽつりと零す。
「ああやって、何度も何度も何度も…電源が入っていないのに!」
それは、悲鳴みたいな叫びだった。
それが合図になったみたいに、直人の手の中にあるスマートフォンから着信音が流れた。
けれど、画面は依然として真っ黒なままだ。
ただ、着信があることだけを知らせている。
短い悲鳴を上げた直人は、手からスマートフォンを落とし、後ずさる。
何も操作していないのに、「留守番メッセージを再生します」と機械的な音声が踊り場に響いた。
『なおと?わたし、みさき!いまどこにいるの?』
「美咲?」
直人にとって聞き慣れた声だったのだろう。
反射的に、床に落ちたスマートフォンへ手を伸ばす。
しかし、その手が触れることはなかった。
『わたし、みさきだよ!いまどこにいるの?』
録音音声みたいに、声の強弱も抑揚もすべて同じだった。
そして次の瞬間、女の声だったものに別の響きが混じる。
『わたし、みさき。みさき、みさき、みさき、き、き、き、きー』
女とも男ともつかない音が重なって、最後には名前だけが何人分もの口で繰り返されていた。
ぷつりと音が切れ、画面が暗くなる。
「…こんなの、美咲じゃない」
直人は頭を抱えた。
こぼれた涙が、指の隙間から落ちる。
俺は思わず、自分の目元に触れた。
死んだ人に、もう一度会いたい。その気持ちはわかる。
鏡越しじゃなく、本当に母さんに会えたらと思うことがある。
視えないまま縋るしかなかった直人なら、なおさらだった。
「これは僕が預かろう」
春日先輩が床に落ちたままのスマートフォンを拾い、懐にしまう。
持ち主が持つべきではないと、さっき証明されたばかりだからだ。
隣で小刻みに震える直人を、一人にしておけないと思った。
「俺の家に泊まる?」
「ダメだ」
その提案を、先輩は即座に却下した。
反論しようとすると、冷たい目で睨みつけられる。
「友達思いなのはいいことだが、共倒れになるつもりか?」
ただ視えるだけのお前にできることはない、と言われた気がした。
その通りだとしても、はいそうですかと諦めることはできない。
「なら、直人の家に泊まろう」
再び否定の言葉が返ってくる前に、俺は言った。
「春日先輩も一緒に」
先輩は信じられないといったような表情をした。
無理もない。昨日今日知り合ったばかりの人間と同じ屋根の下で過ごすなんて、そうそうあることじゃない。
先輩は考えるように視線を落としたあと、鞄を持って立ち上がった。
「いいだろう」
そうして、階段を下りていった。
◇
家の鍵を開けた直人が、「どうぞ」と中へ促す。
俺と春日先輩は「お邪魔します」と言いながら、玄関に入った。
先に靴を脱いで上がった春日先輩は、きっちりと靴を揃える。
その仕草がやけに綺麗で、こういうところに家柄が出るんだなと思った。
そういえば、あの時勢いで直人の家に泊まるなんて言ってしまったけれど、大丈夫なんだろうか。
そう思っていると、春日先輩が先に口を開いた。
「親御さんは?」
「二人とも海外出張でいないんです」
直人の後に続いて、リビングへ続く扉をくぐると、あらゆるものが床に散乱していた。
人形を探し回った跡だろうかと考えていると、直人がこちらを振り返って頭を下げた。
「冬真、先輩もありがとうございます。一人じゃどうすればいいかわからなかったので」
俺は慌てて、その動きを止める。
「困ってる時はお互い様だから」
直人の重荷にならないよう、本心を口にした。
「感謝の言葉は解決してからにしろ」
一方で、春日先輩は感謝の言葉を受け取ろうともせず、冷たく言い放った。
その言い方に、思わず絶句する。
直人にだけ聞こえるくらいの小さな声で、気にしないようにと伝える。
直人は「大丈夫」と微笑んだ。
「他の部屋も散らかっているのか?」
散乱している物を見ていた春日先輩が顔を上げて尋ねると、直人は頷く。
「散らかしたのは?」
次の質問には首を横に振った。
なら、人形の仕業だということになる。
「死者に会う方法の中に、隠れるって書いてあって、その通りにしました」
直人は自室の扉を指さし、「物置に隠れてました」と続けた。
その時のことを思い出すように、顎に手を添える。
「部屋の扉を開けた音は聞こえました。でも、すぐに出ていきました」
自分の部屋から出た時はかなり驚いたと、直人は苦笑いを浮かべた。
なんせ、他の部屋は物置の扉も開け放たれて、中身も全部引っ張り出されていたのだから。
「気づかれなかったのかもしれない」
直人と顔を見合わせて首を傾げる。
案内してもらった隠れ場所に春日先輩が体を滑り込ませた。
「何してるんですか?」
先輩のしていることが気になって覗き込むと、物置の扉の裏を指先でなぞったあと、今度は天井に目を向ける。
「結界の役割を果たしているものがないかと思ってな」
物置の中をひと通り見終えたのか、先輩が出てきた。
先輩の言う通り、この物置だけ明確に避けられている。
まるで、この物置だけ見えていなかったんじゃないかと思うくらいだ。
他の部屋の散らかり具合を見て納得し、その理由を本人に聞こうと目を向けた先で、不思議な気配に気づく。
俺の視線に気が付いた直人が、首元の鎖に指をかけて持ち上げた。
「これは美咲の遺骨で作ったものだ」
きらりと光るネックレスを見て、これだとすぐにわかった。
「春日先輩、このネックレスが守ってくれたみたいです」
そう言いながら、直人の胸元を指さす。
「…だから、スマートフォンを使って探していた」
納得したように、ネックレスを見て先輩は小さく頷いた。
「これがあるなら、大丈夫ですよね?」
「モノには限界がある」
春日先輩は首を振って、ネックレスから視線を外す。
「だから…」
その先を、春日先輩は言わなかった。
けれど、何を言いたいのかはわかった。
食べる必要がある、ということだ。
ふと、直人のスマートフォンを思い出して先輩に尋ねた。
幽霊が怯える春日先輩がいても構わず着信音が鳴っていたし、人形がこの場所を知っているなら、そのスマートフォンがここにあればすぐ見つかってしまいそうで不安になった。
「安心しろ、この場にはない」
顔に出ていたのだろうか。
不安に寄り添うような言葉をかける春日先輩に、少しくすぐったくなる。
「今日はひとまず中村を休ませることを優先した。気が弱っていると魔が寄りついてくる。一旦忘れて、食べて風呂に入って寝ろ」
そんな簡単に忘れられたら苦労しないだろう、と思いながら直人に視線をやる。
ずっと気を張っていたのだろう。思い詰めた表情をしていた直人は、ほんの少し和らいでいた。
そのあとは、先輩に言われた通りに過ごした。
近くのスーパーで買った惣菜を机に並べ、三人で食べながら直人がいなかった二週間の話をした。
もちろん、春日先輩は話には加わらず、聞いているだけだった。
そのあと、風呂に入ることになった。順番は、直人、俺、春日先輩。
直人は一番風呂を譲ろうとしたけれど、家主だし疲れているだろうからと、二人して首を横に振った。
俺も春日先輩に譲ろうとしたけれど、理由は言わずに断られてしまった。
無理に聞くほどでもないし、言うつもりもないのだろうと思って、この順番になった。
直人が風呂に入っている間に、ゴミの片付けと洗い物を二人で分担する。
「お前、お皿割りそうだな」
そんな偏見で、俺はゴミの片付けを担当することになった。
けれど、俺にとっても洗い物と春日先輩の組み合わせはしっくりこない。
手が荒れるとか、そういう理由で断りそうなものなのに。
ゴミの片付けが終わったあと、先輩が洗った食器を拭く役に回った。
昨日出会ったばかりなのに、こうして同じ家に泊まっていること自体が不思議だった。
直人の依頼とはいえ、幽霊を食べる春日先輩だって、同じくらい怖いはずなのに。
だから、きっとこの環境のせいだ。
春日先輩のことを、もう少し知ってみたいと思ったのは。
「…幽霊を食べないと、どうなるんですか」
先輩を横目で盗み見る。
表情が変わった様子はなく、俺の質問をどう思っているのかはまったくわからない。
ただ、先輩は淡々と答えた。
「腹が減る」
意外だった。
お前には関係ないと突き放しそうなのに。
「いつから幽霊を食べるようになったんですか?」
「お前と同じだ」
短すぎる返答に、それ以上踏み込む言葉が喉に引っかかった。
俺は小さい頃、物心ついた時にはもう幽霊が視えていた。
その時は怖くて泣いていたけれど、先輩にも似たようなことがあったのだろうか。
けれど、それを聞く勇気はなかった。
「幽霊以外も食べられるんですか?」
「さっき、お前たちと食べていただろ」
さっき一緒に食べたことを思い出して、顔が熱くなる。
自分の忘れっぽさが恥ずかしくなった。
先輩もさぞ滑稽だと思っているんだろう、なんて考えながらまた横目で見る。
けれど、やっぱり表情は変わっていなかった。
「…お前たちと変わらない」
最後の皿を洗い流して、水切り籠に乗せる。
先輩は手を拭って、こちらに向き直った。
じっと見つめる視線に、俺は目をそらしてしまう。
「食べないと死ぬ」
厄介な体質だと思ってはいるのだろう。
けれど、嫌だとか辛いとか、そういう言葉にするつもりはないらしかった。
「満足したか?」
ふっと、先輩が柔らかい笑みを浮かべた。
その理由はわからない。ただ、そんなふうに笑うのは珍しいと思った。
「…まだです」
一番聞きたかったことが、聞けていない。
これを知らないと、俺はこの先もこの人を怖いまま見てしまう気がした。
「もし、直人を狙ってる幽霊が美咲さん本人だったら、食べますか?」
「そうだな、食べる」
即答だった。
「どんな理由でも、人を傷つけていい理由にはならない。少なくとも、僕が食べるのはそういうものだけだ」
その言葉に、少しだけ安堵した。
少なくとも、何でも食べるわけじゃないらしい。
昨日見たものの恐ろしさが消えるわけじゃない。
けれど、春日先輩の中に自分なりの線引きがあるのだと知って、ほんの少しだけ見え方が変わった。
「…なんでも食べると思ってました」
「昨日は空腹だったんだ、そこまで気を回す余裕はなかった」
言い訳のつもりではないのだろう。
ただ事実をそのまま口にしただけみたいな声音だった。
「すみません、長風呂してました」
タオルで髪を拭きながら、直人が脱衣所から出てくる。
入れ、ということなのだろう。俺を見た春日先輩が、顎で脱衣所の扉を示した。
大人しく脱衣所へ向かう。
正直、風呂は苦手だ。
湯船に浸かっていたのは親と一緒に入る時だけで、それも小学校低学年までだった。
初めて一人で入った時、蛇口から長い髪の毛が出たり、湯船に浸かっていると女性の頭が浮かび上がったことがあったのだ。
それ以来、シャワーで済ませていた。
春日先輩がいるし、今日は湯船に浸かっても大丈夫な気がする。
体を洗ったあと、湯船に身を沈めた。
息を吐きながら、さっきの先輩とのやりとりを思い返した。
まだ怖いと思う気持ちは残っている。
けれど、知らないまま遠ざけているだけなのも違う気がした。
もう少し知ってみたい。そんな気持ちが、確かに芽生えていた。
お風呂から上がって春日先輩に入るよう勧めたあと、直人の部屋でとりとめのない話を交わす。
けれど、もし何かあったらどうしようという不安が湧いてきて、先輩が出てくるまで脱衣所の前で直人と並んで座っていた。
風呂から上がった春日先輩は、その姿を見るなり一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、どこか気まずそうに視線を逸らす。
その後は、直人の部屋に二人分の布団を敷き、豆電球にして寝転がった。
直人はすでに寝息を立てて眠っている。
その姿に安心した途端、俺の瞼も重くなった。
早く直人が、こんなふうに怯えずに眠れる日常に戻れたらいい。
そんなことを思いながら、瞼を閉じた。
◇
けたたましい音で飛び起きる。
何が起きたのかと辺りを見渡して、ここがいつもと違う場所だと気づいた。
春日先輩と一緒に、直人の家に泊まったんだった。
「驚かせてごめん」
さっきの音は、直人の枕元に置いてあった目覚まし時計らしい。
時計を手に持ち、眉を下げた直人が片手で謝るような仕草をする。
昨日より隈のないすっきりした顔を見て、ほっとした。
直人は布団を踏まないよう避けながら、扉の前へ移動する。
「じゃあパンでも用意しとくから、春日先輩のことよろしくな」
春日先輩用に用意した布団へ目を向けたあと、俺に先輩を任せて部屋を出ていった。
その春日先輩は、頭まで毛布をかぶって丸まっている。
もぞもぞと動いているから起きてはいるんだろうけれど、とても機嫌がいいとは思えない。
「あの、春日先輩」
とりあえず、体を揺するような真似はやめておこうと、声をかけるだけにする。
けれど、反応はない。
「学校、遅刻しちゃいますよ」
親みたいなことを言っているなと自覚して少し恥ずかしくなる。
それでも、直人に任されてしまったし、ここはその直人の家だ。
「ここ、春日先輩の家じゃないですよ」
その言葉でようやく、春日先輩は毛布から這い出てきた。
よかった、一応そういう常識はあるらしい。
ただ、眉間に皺が寄っていて、機嫌が悪いことだけはすぐにわかった。
なるべく怒らせない方がいいと思って、二人分の布団を片づけてからリビングへ向かった。
「おはようございます、春日先輩」
直人の挨拶に頷いたあと、掠れた、いつもより低い声で「おはよう」と返す。
どうやら春日先輩は本当に朝が弱いらしい。
怖いだけじゃない部分を、少しずつ知っていくような感覚だった。
三人で直人が用意してくれたパンを頬張って、それぞれ学校へ向かう準備をする。
春日先輩が寄るところがあると言うので、いつもより早い時間に外へ出た。
学校の最寄り駅に着くと、春日先輩は人通りの少ない通路の先へ進んでいく。
その先で足を止めたのは、端の方に並んだ貸しロッカーの前だった。
いくつもあるロッカーのうち、一つだけが使用中になっている。
手順通りにロッカーの鍵を開けた途端、どこからか着信音が鳴り響く。
音は、今まさに春日先輩が開けたロッカーの中から聞こえていた。
「…あ」
隣に立っていた直人が、その音から逃げるみたいに耳を塞ぐ。
「中村、あれはお前の彼女だと思うか?」
先輩の問いに、直人は首を横に振った。
「それを、はっきりと言ってやれ」
「朝倉、視えたら教えてくれ」
ロッカーの前に立つ春日先輩の背中を見ていて、ふと違和感を覚えた。
ここで震えているだけじゃ、何も変わらない。
直人を連れてきたのは俺だ。
なら、怖くても見届けなきゃいけない。
そう思って、震える足に喝を入れ、春日先輩と肩を並べる。
その時、先輩がふっと笑った気がした。
けれど確かめる前に、ロッカーの扉が開いた。
ロッカーの中は、びっしりと赤い文字で直人の名前と「どこ?」が刻まれていた。
扉の裏にも、余すことなく。
一度切れたはずの着信が、また鳴り出す。
誰もスマートフォンに触れていないのに、勝手に応答へ切り替わった。
ざあっとノイズが走ったあと、
「…もしもし、直人?美咲だよ」
流暢で綺麗な声が響く。
今までのことがなければ、本人だと信じてしまいそうだった。
「…君が会いたいって言ったのに、どうして会ってくれないの?恥ずかしがりやさんなのかな」
「…写真、大事にしてくれたんだね」
「これ、観覧車の写真だ。高いところ、こわかった?直人、へんな顔。この時、落ちたらよかったのに。そしたら今も二人で一緒にいれたのにね。直人だけ残っちゃったんだ」
「これは海の写真だね。どうしてこんなに浅いところにいるの?もっと深いところまでいけばよかったのに。二人ともぶよぶよになったのかなあ」
「…やめろ」
「美咲はそんなこと言わない!」
「やっと、見つけたァ!」
ぶつりと着信が切れると同時に、ロッカーの奥に、さっきまでなかった人形が現れた。
「春日先輩…!」
俺の声に反応したように、人形の目が一回転してからぎょろりとこちらを睨みつける。
手にしている鋏を振り上げ、こちらへ飛びかかってきた。
横から殴られたような衝撃を受けて、地面に倒れ込む。
痛みに耐えながら顔を上げると、頬に切り傷を受けた春日先輩が覆いかぶさっていた。
「血が…」
「かすり傷だ。僕の心配より、やることがあるだろ」
先輩に引っ張り上げられ、すぐに体勢を立て直す。
「どこ?どこ?なおと、どこ?」
まだ遺骨のネックレスが守ってくれているのだろう。
目の前に直人がいるのに、人形は気づいていない。
一歩、また一歩、人形に近づいて手を伸ばす。
首を掴み、手にしていた鋏を叩き落とした。
「やっと会えたね、なおと」
「お前は美咲じゃない」
直人の一言に、人形の輪郭がぶれた。
人形を媒介に、幽霊が張りついているのだと気づく。
「ひどいなぁ、呼んだのは直人じゃん」
「うるさい…!」
直人は人形を地面へ向かって投げつけた。
そのまま踏みつけようと足を上げる。
けれど、その足が人形の上に落ちることはなかった。
人形は不気味に笑って、「やさしいなあ直人は」なんて、誰のものでもない声を上げる。
「人形に、幽霊がぴったり張り付いてるみたい」
「わかった」
狙いを定めた春日先輩が、人形へ近づく。
人形はぎぎぎと首を先輩の方へ向けた。
逃げ惑うみたいに目玉がぎょろぎょろと回転している。
輪郭が震え、だんだんずれが大きくなっていった。
春日先輩は人形へ手を伸ばし、ずれた輪郭の方を掴む。
影を剥がすのと同時に、人形に縫い込まれていた赤い糸が、ぶち、ぶち、と千切れていった。
大きく口を開け、掴んだ幽霊を口元へ近づける。
一方で直人は、人形から零れ落ちた写真を拾い集めていた。
ぐちゃりと食いちぎれる音と、幽霊の金切り声がその場に響く。
ぎゅっと目を閉じて、耳を塞ぐ。
それでも完全には防げず、咀嚼音と悲鳴が耳の奥で響いた。
ごくんと飲み込む音が聞こえ、そのあとに続く音はない。
終わったのだと理解する。
そっと目を開けると、写真を抱きしめて謝罪を繰り返す直人と、人形を拾い上げる先輩が見えた。
直人に駆け寄って背中に手を添え、何度も優しく撫でる。
「人形とスマートフォンはこちらで処分する。それと…」
先輩は、直人が抱きしめている写真へ指を向けた。
けれど、諦めたような表情を浮かべて口をつぐむ。
代わりに手首の時計を見て、ぼそりと呟いた。
「…遅刻だな」
「先輩って遅刻とか気にするタイプなんですね」
俺の言葉に、直人が鼻を啜る音に混じって笑い声をこぼす。
それがつぼに入ったのか、笑いはしばらく収まらなかった。
ようやく落ち着いた頃には、直人の表情も少しやわらいでいた。
今度こそ、三人で学校へ向かう。
校門をくぐったところで、春日先輩は足を止めた。
「ここまででいいだろ」
そう言ってから、春日先輩は直人の方を一度だけ見た。
何か言うわけではなかった。
ただ、その視線が直人の顔に少しだけ留まる。
大丈夫か、と確かめているようにも見えた。
次の瞬間にはもう、春日先輩は何事もなかったみたいに背を向けていた。
俺たちの返事も待たずに、校舎の奥へ向かっていく。
その背中を見送ってから、俺と直人は一年の教室へ向かった。
けれど、普段通りに振る舞うには、少し無理があった。
俺も直人も、多少なりとも服は乱れていたし、直人の顔にはまだ疲れが残っている。
教室に入ると、担任にどうしたんだと怪訝そうな顔をされたけれど、直人が「ちょっと色々あって」と曖昧に笑ってごまかした。
それでも、昨日までの張りつめた様子を思えば、今こうして学校に来られているだけで十分だった。
ボロボロになりながらも、春日先輩はちゃんと直人をここまで連れてきてくれたのだ。
そのことが、思っていたよりずっと胸に残っていた。
◇
数日後、お礼のお菓子を持って屋上前の踊り場へ向かった。
直人のことが落ち着いて、改めてちゃんと礼を言いたいと思ったのだ。
「先輩、この前はありがとうございました」
春日先輩はいつものようにお菓子を受け取るだけだった。
礼だけ言って終わりにする気にはなれなかった。
直人がああして学校に来られるようになったのは、春日先輩が解決してくれたからだ。
怖いと思った気持ちが消えたわけじゃない。
けれど、それだけで終わらせたくもなかった。
「また誰かが困っていたら、今度は俺も一緒に解決したいです」
先輩は本から目だけをこちらに向けた。
「できることがあるなら、手伝わせてください」
先輩は少しだけ目を細めたあと、興味なさそうに本へ視線を落とす。
「勝手にしろ」
突き放すような言い方なのに、不思議と拒まれた気はしなかった。
春日先輩が本を閉じるのを待って、俺たちは一緒に帰った。
昨日までみたいな遠さは、少しだけ薄れたような気がした。
