春日人生相談所

物心ついた頃から、幽霊はいた。

家に入れてほしいと窓ガラスを叩く手。
廊下や天井を走り回る騒がしい足音。
怖がる俺を見て、面白がっていたんだと思う。

突然泣き出す俺に、両親はいつも寄り添ってくれた。
大丈夫だと抱きしめて、泣き止むまで頭を撫でてくれた。
けれど、中学生になった頃、母親が他界した。

それからしばらくして、鏡の中にだけ母親の姿が映るようになった。
振り返っても、そこには誰もいない。
それでも、鏡の奥で静かに笑う母親を見ると、なぜか少しだけ安心できた。

それ以降、理由はわからないまま、幽霊が近寄ることはなくなった。
見えること自体は変わらない。
それでも、今までみたいに幽霊から逃げるように下を向かなくていいだけで、世界はずいぶん違って見えた。

初めて、目が合っても追いかけてこない。
すれ違っても、何も起こらない。
それが嬉しかった。

自然と表情が明るくなって、友達もできた。
高校生になってからも、このままずっと平気なんだと思っていた。

それなのに、最近またおかしい。

目も合わせていないのに、すれ違っただけで何かがついてくる。
振り返ってしまうと一生ついてくる気がして、確かめたことはない。
けれど、何かを引きずるような音だけが、ずっと後ろから聞こえてくる。

やり場のない怒りを抱えたまま学校の玄関をくぐり、下駄箱の前で一度足を止める。
入学してから何度か、下駄箱の中に目玉が入っていたり、手首から下だけが転がっていたりして、情けない悲鳴を上げたことがある。
それ以来、下駄箱を開ける前には覚悟が必要になった。

扉に手をかけて、何度も深呼吸を繰り返す。
心の中で、絶対に叫ぶもんかと自分に言い聞かせる。
そして、意を決して開けようとした、その時だった。

「おはよう、冬真(とうま)
「うわああ!」

体が跳ねた勢いで、下駄箱の扉が開く。
そこには自分の上履きがあるだけだった。
叫んだのが恥ずかしくなって、思わず顔をしかめる。

「びびりすぎ」

声をかけた張本人の和也は、そう言って腹を抱えて笑っていた。
俺は何事もなかったように笑顔で「おはよう」と返した。
けれど、友達には引きつった笑いに見えたらしい。
教室に着くまで、和也は何度も思い出しては肩を揺らしていた。



朝のホームルームが終わり、担任が教室を出ていく。
少しして、一限目の数学担当の先生が入ってきた。
日直の号令に合わせて礼をし、席に着く。
先生は教科書のページを指定すると、そのまま説明しながら黒板に板書を始めた。

その音に混じって、ドンッ、ドンッ、と定期的な音が響く。
音の正体は、黒板にひたすら頭を打ちつけるスーツ姿の幽霊だ。

そいつは数学の授業になるとこうして現れ、終わりまでずっとその行為を続ける。
おかげで先生の声が聞き取りづらい。
迷惑だと思う反面、どうして数学の時間になると現れるのか、少しだけ気になってしまう。

その気配に反応したみたいに、頭だけがぐるりとこちらを向いた。
慌てて目を逸らし、ノートに書き写すふりをする。
しばらくすると、また黒板に頭を打ちつける音が鳴り始めた。

ほっと胸を撫で下ろしたところで、授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。
教科書を閉じた先生に合わせて、また礼をした。
数学の先生が出ていくのと同じように、その幽霊もふっと教室を後にした。

「移動教室行こうぜ~」

前の席の和也が振り返り、化学の教科書をひらひらと振る。
どうやら笑いは収まったらしい。

俺は頷き、教科書とノートを手に化学室へ向かった。

その道中でも、三階の窓から覗く幽霊や、天井の隅に首だけでぶら下がる幽霊が視界に映る。
そして、朝からずっとついてきている、何かを引きずる音。

弱っている素振りを見せれば、付け入る隙を与えてしまう。
友達との会話に意識を向けて、気づいていないふりをした。

いつまで、こんなことをしなければならないんだろう。

そう思った瞬間、ふっと空気が軽くなった。
さっきまで視界の端をうろついていた幽霊の姿が見えない。
朝からついてきていた引きずる音も、いつの間にか消えていた。

ずっと欲しかった景色だ。
幽霊の姿も、声も、何もない。
ただ、目の前の現実だけがそこにあった。

初めてのことで困惑していると、「げ、春日先輩」と隣を歩いていた和也が口にした。
その様子に、最初はただ友達の部活の先輩か何かだろうと思った。
しかし、その名前を聞いた途端、周囲の幽霊たちが怯える気配が伝わる。
今の状況は、その先輩によるものだと一瞬で理解した。
そうして理解した直後、通り過ぎた春日先輩は、確かに目を引く人だった。
近寄りがたい空気をまとっているのに、顔立ちは驚くほど綺麗で、思わず目で追ってしまう。

春日先輩の姿が見えなくなっても、周りはしんと静まり返ったままだった。

「部活の先輩?」
「ちげぇよ。二年の春日先輩」
和也は苦笑しながら首を振る。

「あの顔で有名なんだよ。たまにすげぇ不機嫌で怖いから、近寄るなって言われてるけど」

「けど?」

和也は少しだけ迷うような素振りを見せてから、声をひそめた。

「学校で人生相談所を開いてるらしい。屋上前の踊り場で」

「…なんでそんな狭いところで」

そんな話をしていると、また後ろから何かを引きずる音が聞こえてきた。
そこへ授業の始まりを告げるチャイムが重なる。

背後の気配を振り切るように、俺たちは目的の教室へ駆け出した。



放課後、和也を部活に送り出したあと、俺は屋上前の踊り場へ向かうことにした。

屋上へ続く階段を見上げる。
本当に、あんな狭いところで人生相談なんてやっているのだろうか。

たとえやっていたとしても、素直に話していいのかわからない。
「幽霊が見える」なんて言ったところで、鼻で笑われるだけかもしれない。

あのあと授業中も、行くべきかどうか散々悩んだ。
トイレで鏡の奥にいる母親に相談までした。もちろん、母親は笑顔を浮かべるだけで、言葉を交わすことはできなかったけれど。

それでも、今日のあの出来事は偶然ではないと信じたかった。
そして何より、助けてほしかった。

意を決して、踊り場へ続く階段を上る。
けれど、そこには誰の姿もなかった。

「相談に来たのか」

不意に後ろから声をかけられて、思わず叫び声を上げてしまう。
朝からずっと何かが後ろにいたせいで、気が張っていたのだ。
恐る恐る振り向くと、そこにいたのは噂の春日先輩だった。

そこでようやく気づいた。
この場所だけ、幽霊の気配が薄い。
今来た春日先輩のおかげなのか、相談所という先輩の居場所だからなのか、その理由はわからない。
それでも、さっきよりずっと息がしやすかった。

黙ったままの俺を不思議に思ったのか、春日先輩が小さく首を傾げる。
俺は慌てて頷き、「そうです」と答えた。

「そこに座れ」

そう言って、春日先輩は踊り場の奥まで歩いて腰を下ろす。
俺は大人しく、春日先輩が指さした向かい側に座った。

緊張も不安もあった。
それでも、今まで抱えてきたものが少しでも楽になるなら、という縋るような気持ちが自然と口を開かせた。

「俺、小さい頃から幽霊が視えていて…」

反応が怖くて、一度視線を落とす。
それでも気になって、恐る恐る先輩の表情を盗み見た。

先輩は鼻で笑うこともせず、ただ黙って俺の言葉を聞いていた。

「視えるだけじゃなくて、嫌なこともたくさんあって。けど、ある時を境に、近寄ってこなくなったんです」

鏡の中で笑う母親の姿が脳裏に浮かぶ。

「でも、高校に入ってから、また前みたいに付きまとわれることが増えて…」

そこで一度、喉が詰まる。

「…こんな目、いらないんです」

胡坐の上に置いた拳に力が入る。

「俺は、普通になりたい」

最後の方は、ほとんど消え入りそうな声になっていた。

「残念だが、それはできない」

その言葉に、うつむいていた顔を上げる。
冗談であってほしいと思った。
けれど、春日先輩の表情はまるで揺れない。

そりゃそうだ、と納得する気持ちと、最初から期待するべきじゃなかったと呆れる気持ちが混ざり合う。
それでも、それを悟らせないように笑って立ち上がった。

「そうですよね、こんなこと言われても困りますよね!
幽霊を信じてるなんて馬鹿みたいですよね。ありがとうございました!」

これ以上何か言われる前に、一息で言い切って立ち去ろうとする。

「名前は」

背後から飛んできたのは、予想していた拒絶の言葉ではなかった。
焦った様子もなく、ただ淡々と春日先輩は聞いてくる。
だから、思わず足を止めて振り返った。

「ああ、相手に名前を聞く時は自分から名乗るんだったな。二年の春日(はるひ)小夜(さよ)だ」

「…朝倉(あさくら)冬真(とうま)です。一年の」

一拍置いてから、先輩は口を開いた。
胡坐の足を組み直し、少しだけ視線を落とす。

「朝倉。相談は、聞いて終わりじゃない」

それから、先輩は静かに言った。

「幽霊はいる」

その一言で、ほんの少しだけ救われた気がした。
ずっと信じて欲しかった。
嘘じゃない、確かに見えているのだと。
子どもの頃、何度訴えても、誰もそう言ってはくれなかったから。

「僕はお前のように視ることはできないが、気配くらいはわかる」

喉の奥が熱くなって、立ったままではいられなくなった。
誤魔化すように、踊り場の最後の段へ腰を下ろす。

「視えなくすること以外で、力を貸そう」

移動教室の時、先輩が現れてから静まり返った景色を思い出す。
あの時、俺は初めて、普通に近づけた気がした。

だから―

目元をこすって、上半身だけを先輩の方へ向ける。
そして、その目を見てはっきりと言った。

「あなたのそばには幽霊が近寄らないから…近くにいることを許してほしい、です」

先輩は驚いたように目を瞬かせる。
けれど、すぐにいつもの無表情へ戻った。

「お菓子」

ぽつりと先輩が言う。
「え?」と聞き返すと、今度はさっきより少し大きな声で言ってくれた。

「菓子を毎日用意しろ。相談料としてもらっている」

春日先輩は立ち上がり、自分の鞄を肩にかけると、俺の横を通り過ぎて階段を下りていく。
どうやら帰るらしい。
どうしたらいいかわからず戸惑っていると、三階で立ち止まり、俺を見上げた。

「放課後、用事がない時はここに来い。その後、お前の家まで送ってやる」

その言葉で、許されたのだとわかって、ほっと息をつく。
先輩は俺に構わずまた歩き出したので、慌ててその後を追った。

先輩の後を追って歩く景色は、不思議なくらい穏やかだった。
生徒たちの笑い声が響く階段も、靴しか入っていない下駄箱も、人の声が混じる通学路も、どれも初めて見るみたいだった。

俺の家が視界に入る。
これくらいの距離なら、走ればすぐだ。

これ以上時間を割いてもらうのは悪い気がした。

「ここまでで大丈夫です!もうすぐそこなので」

春日先輩はぴたりと足を止め、頷く。
礼を言って別れようとした、その時だった。

ずる、と何かを引きずる音が後ろから聞こえた。

春日先輩のそばにいれば平気だと、勝手に思い込んでいた。
けれど、背後の音はそんな期待をあっさり踏み潰した。
このまま家に駆け込めばなんとかなるだろうか。
たとえ今日をやり過ごせても、明日の朝にはまたついてくるかもしれない。

「どこにいる」

下を向いて震えていた俺は、春日先輩の言葉の意味がわからず聞き返す。

「お前が震えている原因はどこにいる」

視えないのに、どうしてそんなことを知りたがるんだろう。
それに、言ったところで、その存在を認めることになる。
今日や明日だけじゃない。
この先、死ぬまでずっとついてくるようになるかもしれないのに。

「気にならないか?なぜ幽霊が僕に近寄らないのか」

正直、そんなことはどうでもよかった。
俺はただ、この状況をどうにかしてほしかった。

「その理由を教えてやる」

それでも、先輩があまりにも自信たっぷりに言うものだから。
この人なら、何とかしてくれるんじゃないかと思ってしまった。

「お、俺の後ろ」

認めた瞬間、引きずっていた音が嘘みたいに変わる。
ずる、ずる、という遅い音ではなく、ばたばたばたばた、と一気にこちらへ迫ってくる足音になった。

―やっぱり視えてた

嬉しそうに、同じ言葉を何度も何度も繰り返す。
その度に、男とも女ともつかない声がぐちゃぐちゃに混ざって聞こえた。

片腕が地面につくほど、ひしゃげた形のまま伸びている。
朝から聞こえていた、あの引きずる音の正体がこれだったのかと、その時ようやく気づいた。
その腕を俺に伸ばして掴もうとする手を春日先輩が止めた。

「感謝する、朝倉。おかげでどこにいるかわかった」

幽霊はもがく。
けれど、春日先輩の手はびくともしない。

信じられなかった。
俺にとって幽霊は、怖くて、どうすることもできない存在だった。
それなのに、その常識が目の前であっさり覆される。

もしかしたら、本当にどうにかなるのかもしれない。
そう思ったのは、ほんの一瞬だった。

「…ちょうど、空腹だった」

そう言って、春日先輩は「いただきます」と口を開け、幽霊の手に噛みつく。
両手で手繰り寄せながら、咀嚼し、飲み込んだ。

理解が追いつかないまま、背筋がぞわりと粟立つ。
助けてもらえると思ったはずなのに、目の前で起きていることは、それとはあまりにも違っていた。

見たくないと反射的に思って目を逸らす。
けれど、泣き叫ぶような悲鳴までは遮れなかった。

化け物だ、と思った。
本当に恐れるべきなのは幽霊ではなく、春日先輩の方なのかもしれない。
だから幽霊が近づかなかったのだと、その時ようやく理解した。

やがて悲鳴が止み、恐る恐る春日先輩の方を見る。

先輩は、満ち足りたみたいに笑っていた。
さっきまでの無表情とはまるで違う、ぞっとするほど柔らかい笑みだった。
口元をぺろりと舐めてから、次の瞬間にはもういつもの顔に戻っている。

「これがその理由だ」

そう言い残して、春日先輩は背を向けた。
去っていく背中越しに、「気をつけて帰れ」とだけ言われる。

俺がどう思ったかなんて、どうでもいいのだろう。
春日先輩は振り返りもせず、そのまま歩いていく。

俺はただ、その得体の知れない背中を見つめていた。
助けられたはずなのに、もう二度と近づかない方がいいと、強く思った。