兄は、今夜も遅くに帰宅した。兄とは元々淡白な関係だったが、大学生になった彼の生活習慣を推測することはいっそう難儀になって、何をしているのか毎晩のように深い時間まで家にいなかったり、両親には隠れて吸い始めたらしい煙草にどこかのコミュニティの影が透けていたりして、これまで以上に得体の知れない存在に見えた。
 〇時を過ぎる頃、兄の部屋のドアをノックすると、中から気怠げな返事が聞こえる。
 ドアを開けると、兄はベッドに仰臥し薄目を開いている。
「兄ちゃん、パソコン貸して」
 兄は身体を起こし、苦々しい顔をした。
「いいけど」
「持ってっていい?」
 兄はいっそう嫌そうに顔を歪めて、「何に使うの?」
「印刷したいものがある」
「じゃあプリンターがいるだろ。ここでやれよ」
 僕は頷いた。兄の言う通りだし、何より、地図を印刷するだけだ。どこでやってもよかった。
 兄はベッドを降りて、デスクの上で書類の山を被っていたノートパソコンを引き抜いた。デバイスを起動すると、僕の方から背を向けて何やら少し操作した後、乱雑にそれを寄越してくる。
「ありがとう」と僕は開いたそれを受け取って、デスクの上に置いた。
「別の場所は絶対にいじるなよ」
 返事が面倒で、無視をした。
 がらんとした「プライベートウィンドウ」が画面いっぱいに表示されている。その黒い検索窓にカーソルを合わせ、「浦見崎郡 地図」と入力した。
 画像欄にさまざまな仕様の地図が表示される。その中から一番勝手のよさそうな白地図を選び、ダウンロードする。学校のある浦見崎町と、僕の住む那岐浜町は、同じ浦見崎郡の中に位置するので、これはだけあれば僕の行動範囲は事足りるのだ。そのあまりの小ささに、なぜだか僕は気が滅入る。僕はこんな小さな空間を毎日往来しているのだ。
 デスクの横のプリンターを立ち上げ、HDMIケーブルでパソコンと接続する。ダウンロードしたファイルを開き、画面上で「印刷」を選択し、モノクロA4サイズに設定して、「開始」を押す。程なくしてプリンターが唸り出し、トレイの紙が吸い込まれて行く。
 プリンターが遅々と振動している間、兄は寝そべって本を読みながらも、神経はこちらを窺っているのが感じ取れた。いったい何が気になっているのか、しかし兄はもとより、僕の一挙一動が気に入らないようだったし、自分のコンピューターを持たない僕が時々兄のものを借りにくるのにウンザリしているのである。しかし、特権を与えられているのは彼の方であるから、仕方がないのだ。
 やがて吐き出されて地面に落ちた紙を拾って、僕は再びパソコンに向き直り、用が済んだウィンドウを閉じる。
 ウィンドウの向こうに、黒い画面が、こちらを見ていた。より正確に言うならば、その黒い画面に埋め込まれている文字が僕を見ていた。
「あっ」と僕は思わず声を上げる。
 その事実が先にあって、文字を文字の作用として、つまり伝達される意味として、僕の認知がそれを受け入れたのは、一拍を置いてからだった。
〈夢次元から来た人に注意せよ〉
 パソコンの蓋が勢いよく閉められ、僕は反射的に手を引っ込める。
「何見たんだよ」兄がすこぶる不機嫌な顔で僕を見下ろしている。
「何も」
「他んとこいじるなって言っただろ」
「いじってない、画面閉じただけ」
「閉じるなって言っただろ」
「言ってない」
 兄は僕の手からパソコンを取り上げて、雑誌のように本棚の中に立てかけた。
「用は済んだよな?」
「うん」僕はプリンターの電源を落として地図を掴み、部屋を後にした。扉が閉まる間際、兄は何かをブツブツと言っていたような気がしたが、耳に届かなかった。届いていたとしても、おおかた僕に対しての悪態に違いないので、そのまま足早に自室に戻った。