翌日、和明からメールが入っていた。部活の朝練で早くに学校へ行ってしまったということで、鳴海と二人で登校することになった。和明は剣道部に入っていて、最近は三月の大会に向けて少し忙しくしている。
 例のごとく、ホームで待ち合わせをして、電車に乗る。並んだ座席が空いていなかったので奥のドアの前に立った。窓越しにいつもの静かな海が広がっている。僕は昨日の母の話を思い出す。変わらないように見えるこの波打際の端で、昨日はひっそりと、ただならぬことが起きていたのだ。するとこの灰色の全てがなんだか濁り腐っているように見えて胸がざわめいた。
「昨日の、海岸の話聞いた?」
 声の方を見ると、鳴海のまっすぐな視線とぶつかった。波立っていた胸の内を覗き込まれていたような感覚があって、前にもこんなことがあったような気がする、と思いながら、
「死体の話?」
と、僕は声を落として返す。鳴海は頷く。無機質な列車の振動音が、僕たちの後ろめたい会話をかき消してくれる。
「誰なんだろうね」と鳴海は言った。しかし、「さあ」と言ったきり口をつぐんでしまった僕を見て、彼はそれ以上のことを言わなかった。彼もあの事件のことは知っているはずだった。同じ街にずっと一緒に住んでいて、同じ学校に通っていたのだから。けれどもそれ以上その話を彼が続けなかったのは、僕に気を遣ったのか、あるいは彼自身もそうしたかったのかもしれない。
 あの一件があった頃、鳴海はどんな様子だっただろうか、と僕は思い出そうとする。しかし当時は僕も動揺していて、人のことを気にしている余裕もなかったのだろう。なんの変哲もない日常生活を営みながらもどこか塞ぎ込んでいて、その静かな憔悴から抜け出す——少なくとも、そう言えるような状態に回復する——までの数ヶ月間は、鳴海の様子はおろか、そのほかの出来事さえも、ただうっすらとした記憶の外側に沈んでいる。
 浦見崎駅で降車し、俯きながら改札を出て、階段を上がり地上へ出る。
 再びあの商店街に目をやると、僕は愕然とした。今度も、まるで当たり前のように、昨日の朝に見たあの人ひとり通らない静寂の姿で、それは通りの向こうまで果てし無く続いていた。それに、入口のゲートのあたりが何か薄ぼんやりとしているような気がして、よく目を凝らすと、両脇に二つの細い影が立っている。
「鳴海」僕は思わず隣の友人の名前を呼んだ。
「見える?」と、彼は言う。
 鳴海と目が合う。瞳孔が開いている。その底暗い瞳を見つめながら、僕は頷く。
 影が見えているのは僕だけではなかった。鳴海もそれを視認している。
「行ってみよう」と鳴海が言った。
 僕は昨日と同じように、商店街を避け、あのラーメン屋のある脇道を行くつもりだった。けれども鳴海は僕の肩に手を掛けてそう言った。
「なんで?」
 僕はあの商店街を通りたくなかった。しかし、「どうなってるのか確かめないと」と鳴海が答える。
「そんなことしなくていい」
「だったらこれはいつまで続くんだ?」
 僕は、昨日二人に言わなかったことを思い出した。それから、昨夜のテーブルの食事のこと。異変は突如訪れた。それは僕を直接蝕むようなものではないように見えたが、しかし、今日もまたそれは現れ、その上、わずかに変容している。この歪みから抜け出さなければいけないのは確かである。それが、この何が脅威なのかも分からない、しかし確かに増幅する脅威である非日常を離脱するということだからだ。そして、僕たちにはその手立てがなかった。それを探さなければならない。
 それに今は鳴海が隣にいる。ひとりではない。
「じゃあ行こう」と僕は、それで少しだけ尊大な気分になり、抵抗を手放した。
 横断歩道を渡り、商店街のゲートを抜ける。ゲートにまとわりつく影の目が、僕たちを追っていた。正確には、影に目のようなものがあるのかも、僕は知らなかった。直視できなかったからだ。しかし、確かに見つめられている。まるで一帯に静電気が充満しているかのように、全身が総毛立つ。
 僕たちはいつの間にかお互いの手を握り合っていた。鳴海の冷たい指が硬く僕の肌に食い込んだ。
 商店街の中は、やはり道沿いの全ての店のシャッターが降りていて、通行人の影はなく、静まりかえっている。僕は目に入った看板の文字を読んでいく。どれもおかしなところはなかった。ただ薄暗いアーケードの中のその空間が、忘れ去られた遺跡のように、音一つなく佇んでいた。否、僕と鳴海の足音だけが、遥か天蓋まで反響していた。
 足早にここをやり過ごしたい思いとは裏腹に、僕は気圧されていて、足首は水をかくように重い。鳴海が引く手さえ力なく、彼も僕と同じなのだろう。後ろに影はまだいるのだろうか。影はまだ僕たちを見ているだろうか。しかし、延々と続いているように見えた通りは、案外すぐに終端にたどり着いた。
 角を曲がり、足を止めてようやく振り返る。鳴海の足音も止まる。
 影は追ってこない。
「なんだった、あれ?」僕は誰を気にするともなく、しかし声を潜める。
 鳴海は「ううん」と上の空に唸り、僕の言葉にとりあえず反応はしてみても、耳に届いていないようだった。彼は元きた道を睨みながら眉をしかめ、また爪を噛む。
 右手の爪を噛むこと、これは彼の虫のいどころが悪かったり、不安を覚えたりした時の、昔からの癖だったと思う。完全無欠に見える彼の身体の中で、少し崩れた薄い右手の爪はたった一つの欠落だ。それゆえに、僕はその凹凸に後ろ暗い喜びを感じていた。乳白色につやめく鳴海の歯の先が、彼自身の指先の硬化した皮膚片をチリチリと削る。上下の歯列の隙間が空いて、中の舌が見える。押し当てられた親指の第一関節が唇を歪める。目が合うと鳴海は気まずそうにそっぽを向いて指を唇から話し、スラックスに爪を擦り付けて唾液を拭った。彼自身もその癖を恥ずべきものだと思っているようだった。僕はそれでまた静かな興奮を覚える。そんなもので彼と対等になれるわけではない。僕は本当は、しかし、そのことを分かっている。
「行こう」
と我に返ったように鳴海が促し、校門へ続く石段を上る。