帰宅して居間へ入ると母が夕食を用意していた。
「ただいま」
と台所の方へ声をかけるが、油の弾ける音でかき消されたようで、返事はなかった。もう一度声を張って呼びかけると母はようやくこちらを一瞥し、
「おかえり」と言ってまた手元に目を落とす。
火の音が収束する間にカウンターに並べられていく二人分の茶碗や皿をテーブルに運ぶ。母が手を拭きながらテーブルにつく頃には、浮き足立っていた居間は静かになる。
父と兄の帰宅は遅いのが常である。いつものように二人で向かい合って手を合わせ、食事が始まると、母が言った。
「海で人が見つかった話聞いた?」
僕は食べていたものを飲み込んで、「いや、いつ?」
海で人が見つかった。抽象的な物言いは、僕の理解を阻んだ。
「今日の朝。性別も何も、分からないみたいだけど。テトラポットに引っかかってて、サーフィンに来た人が見つけたんだって。でも、前にほら。同級生の子のことがあったじゃん」
そこで僕はようやく、その見つかった人物というのが、すでに死体であるという事実に気がついた。「同級生の子のこと」も、数年前に河で流されたあの二人の少年のことであるというのも分かっていたが、僕はあまりその話をしたくなくて曖昧に首を傾げた。口にすると、押し込めている記憶を鮮明に思い出してしまう気がしたのだ。しかし母は黙っている僕の様子を気に留めることもなく話し続ける。
「消防車も来て大変だったんだって。その子かどうかはね、もちろん分かんないんだけど、そうじゃないかって話よね。もしそうだったら、帰ってきてくれてよかったよね。違ったらじゃあ誰なのってことになるし、きっとそうだよ。うん。でもさ、やっぱり思い出しちゃうけど、本当によくなかった。智紀も、お通夜に行ったよね。お母さんがげっそりして。弟さんがいたけど、中学受験して東京の私立に行ったよね。お兄ちゃんがここの中学だったったんだからもともと受験なんてするつもりなかったと思うけど、あの後に突然、こっそり塾行き出したらしくて。やっぱりあんなことがあっていづらいと思ったのかもね。でも、大雨の日に川なんか行かせたらいけないよね。私だったら行かせない。しかもお友達連れてなんか恐ろしくて、責任取られないよね」
その母親のとりとめのない言い分を聞くにつれ、僕の中には、言いようのない恐ろしさがしんしんとうち広がっていった。それに、そもそもその死体が数年前に消えた彼であるなどという推定は、どこから広がってここまで及んでいるのか。浜の近くの家に心当たりがあって、それは中学校の時の同級生の家だった。およそそこが最初に騒ぎを聞きつけて噂して回っているのが発信源なのだろうが、僕はなんだか、僕の周りにもそこかしこに見張りの目が網のように張り巡らされているような感じがして、少し冷えた背骨がひとりでに伸びる。背後の扉からさえ、誰かが僕を見ているような気がして、腹の底が震えてくる。
味のない豆腐の溶けるような感触を舌の上で割りながら、智紀は自分の手元に目を落とした。すると、並んでいる食材の全てが白いことに気づいた。
はじめから、こうだっただろうか?
顔を上げて再びまじまじと見た母の頬も、まるでこうした真っ白の食べ物をだけを永らく摂っていた人間のように、妙に青白く感じたのである。流されて帰ってきたあの友人の通夜で見た、彼の母親のやつれた顔が思い浮かんで重なった。
思えばずっと前から、この街では、誰かが僕を見ている。僕を見張って、一挙手一投足を品定めしている。正しいか、正しくないか。他の子供と比べて、優れているか、劣っているか。何か、異質な行動をしていないか、どうか。
