結局その日、僕たちはいつも通りにその商店街を通ることはなく、少し遠回りをして学校へ向かった。普段はあまり通らないが、放課後に道沿いの豚骨ラーメンの店で食べて帰る時だけ通る裏道である。校則では、不要不急の寄り道は禁止とされているが、もちろん形骸化された規則であって、誰一人としてそれを遵守する者はいない。学校は制服を着た生徒たちが何か不祥事を起こし、校名を汚すことを恐れている。
学校に着くと、いつものように狭い下足室は所狭しと生徒で溢れている。冬は特に皆着膨れをしていて、いっそう窮屈である。夏ほど湿った不快な匂いが立ち込めているわけではないものの、その間を縫って靴を履き替えるのは億劫だ。
ともあれその日、僕は一日中また何か妙な感じがあるのではないかと、なんとなく落ち着かないような気がして注意を払っていたが、五時間目が終わるまでは特段つつがなく、普段と何も変わらないように見えた。
夕方、その日の最後のコマ、世界史の授業の前に、用を済まそうとした。一番近くの便所へ行くと、立ち入り禁止の張り紙があった。
「あ」
と、通りすがりの声の方を見ると、去年同じクラスだった、名前をあまり覚えていない元同級生が僕を見ていた。「そこ、入り口にゲロあるよ」と彼は親切に教えてくれた。どうやら誰かが盛大に嘔吐して清掃中ということだった。運が悪いと思いながら、この階の反対側の端にある便所へ向かう。
姿見の前で廊下は曲がっており、誰もいない空き教室の目の前に目的地がある。
空き教室の窓には暗幕が掛かっていて、中が見えないようになっている。突き当たりには非常階段に続くブリキのドアがある。どこかから灰色の寒空でも見えた方が少しは開放感があるのだが、と僕は少し息を詰まらせながら便所に入り、一番手前の便器で用を済ませた。ここはあまり人が使わないので、整備が後回しになっているのが窺える。
便所には小窓があった。僕はふとそちらの方を見た。ここからはなけなしの空が見えるはずだった。しかし、その汚れたアルミサッシの向こうには、まるで先ほどの暗幕が貼られた教室のように、ただ黒い穴が空いていた。
青錆のついた洗浄ボタンを押し、ジッパーを上げながら小窓の方に近づいてみる。何かで塞がれているのかと思った。少しだけ窓が空いていて、外が見えているはずだった。しかし目を凝らせど深い、あるいはかえってのっぺりとした固形の、暗闇だ。
夢中で覗き込んでいると、背後で何かが落ちる音がする。
振り返って床を見ると、確かに、先ほどは目に入らなかった物体がある。拾い上げてみると、湿ったゴム風船のような小袋が、口を縛られて、何か重い粘液で膨らんで弛んでいる。
「ウッ」
と、僕は思わず声を上げて投げつけるように床に落とした。
便所の中を見回した。歪んだ個室の扉。その隙間に震える影。汚れた鏡。蛇口、乾いて黒ずんだ石鹸。床のタイル。その整然と見えて不規則な交差を、じっと見つめていると、それらがゆっくりと左回転に渦巻き始める。ように見える。
僕はその錯覚に足を取られないように急いでそこを後にした。廊下のシンクで手を洗うと、水は針のように冷たかった。硬い石鹸を辛抱強く擦ってようやく泡を立て、先ほどあのぬらめいた不潔な物体を摘み上げてしまった指先を、入念に洗い流していると、右の方から誰かがこちらを見ている。
僕はズボンで手を拭いながら顔を上げてそちらを見る。曲がり角の鏡越しに、僕と目が合う。
なんだ、バカバカしい。
と、僕は一瞬思ったが、向こうの僕としばらく見つめあっているうちに、こいつはいったいいつから僕のことを見つめていたのだろうかと、なんだかよく分からなくなった。ふと、先ほどの黒い小窓のことを思い出し、背後を冷気がすり抜けた。鏡の前を走り抜けて角を曲がり、教室が連なる廊下へ出る。チャイムが鳴り、廊下に出ていた生徒たちが色めき立っておのおのの教室へ戻っていくのが見えて、僕は息を吐く。
廊下の北側の大きな窓の外は、早くも一日の終わりの気配を匂わせ始めてはいたものの、分厚い灰色の雲の向こうにはまだ、遠い太陽がうっすらと白んでいる。
