世界が綻びはじめたのは、彼が何度目かの抑鬱の波の中にいるように見え始めた折だった。その友人は元来少なからず静かな気質で、時々塞ぎ込むようなところがあり、親しく関わるようになってからしばしば、意識がその身体の中に十分に据わっていないと感じさせるような節があった。
だから彼ともう一人の友人とともにあの無人駅に降り立った時、いよいよ訪れた、と思った。いよいよその曖昧な危うさが、外部的な現象として明確に立ち現れてしまった、と思ったのだ。
鳴海という人物がいつから当たり前のようにそこにいたのかは知らなかった。その男は、まるでずっと前からそこにいたかのように彼の隣にいたのだったが、彼らは容貌ではなくその仕草や語り口がとてもよく似ていると思うことがあり、そのうち、そこにある不均衡が見えるようになった。つまり、AがBを一方向的に侵食していっているのを悟ったのだ。自分の視界にとっては、それはその頃突如世界に現れた、対処すべき異変のうちの一つであり、対処のすべを探さなければならなかった。
友人に、チョコレートを食わそうとした。彼はある頃から昼休みに集まった時も、何かを食っているようなそぶりを見せなくなった。日に日に白くなっていくように見える彼の頰に、血の色を探さずにはいられなくなった。
ほとんど使われていない西の便所で、侵されて喘ぐ彼を見た。帰路に着く生徒らの流れに逆らってひっそりと、昇降口とは反対側へ向かう彼らを見て、何か良くないことが起きる予感がして、尾行して様子を窺ったのだった。タイル張りの部屋の中で、ほとんど口付けるような距離にいた彼らに目を凝らしていると、突然彼が苦しみ出して手洗い場にしがみついた。肩で息をして悶える彼の口に鳴海が指を入れ、しばらくしてズルリと何かが抜き取られたのが見えた。彼の唇の際を伝って一瞬目に映ったその黒々としたものは、彼の生命そのもののようにも感じられて、代わりの何かでもいい、とにかく、失われた何かをその空洞に戻さなければならないと思ったのだ。チョコレートはその苦肉の策で、その上、失敗に終わった。もしも鳴海によってその身体が作り替えられてしまっていたのだとしたら、そう考えると、何かナーバスで青臭い怒りのようなものが体内を渦巻いた。
結局、鳴海を見たのは、白い水仙畑の駅を乗り過ごしたあの日が最後になった。彼と別れた後、あれが本当にあの不実な世界の出口だったのか、本当に彼を振り切ることができたのかは、しばらくはわからなかった。振り切ったと思っていたら、またふとどこかから現れるかもしれないし、しばらくは街の中に、学校に、異変、すなわちこの世界の綻びがまだ残っていて、それらはいつでも再び顔を出すのではないかと怯えていた。
およそ一月が経った今に至るまでその気配はない。だから、俺たちはあの世界を脱出したのだ。差し当たり、そう結論づけた。
彼、その親友は、己の心身を繋ぎ止めるために賢明な選択をしたのだったが、俺は実質的に、もう一つの賭けをしていたと言っても過言ではない。すなわち、どちらが彼を手に入れられるか、あの魅惑的な怪異から彼を取り返すことができるか、ということだった。そして、俺はあの朝、賭けに勝ったのだ、と思った。列車のドアが閉まって、鳴海と海と白い花畑と、こちらとの空間が隔てられた瞬間、その実感は、身体の底から沸々と、高揚感をもたらした。
けれども彼が時折唇に指先を運び、粒の揃った歯が丁寧にその爪の縁を蝕んでいくのを見るたびに、果たして本当に自分はそれに勝利することができたのだろうかと、胸がざわつくのだ。
今もまたそうやって所在なげに自らを蝕む彼のその手首を掴んで降ろしながら、
「悪くなるよ」
そう言って瞳の奥を探ると、
「ごめん」
と彼はハッとして、それから気まずそうにはにかむ。
今、彼の中にいるのは、彼自身か、あるいはもしかすると、鳴海なのか。俺は完全にあの幻を、引きずり出すことはできたのだろうか。
生ぬるい風が白い花弁とともに吹き荒れる、春が始まろうとしている。
(了)
だから彼ともう一人の友人とともにあの無人駅に降り立った時、いよいよ訪れた、と思った。いよいよその曖昧な危うさが、外部的な現象として明確に立ち現れてしまった、と思ったのだ。
鳴海という人物がいつから当たり前のようにそこにいたのかは知らなかった。その男は、まるでずっと前からそこにいたかのように彼の隣にいたのだったが、彼らは容貌ではなくその仕草や語り口がとてもよく似ていると思うことがあり、そのうち、そこにある不均衡が見えるようになった。つまり、AがBを一方向的に侵食していっているのを悟ったのだ。自分の視界にとっては、それはその頃突如世界に現れた、対処すべき異変のうちの一つであり、対処のすべを探さなければならなかった。
友人に、チョコレートを食わそうとした。彼はある頃から昼休みに集まった時も、何かを食っているようなそぶりを見せなくなった。日に日に白くなっていくように見える彼の頰に、血の色を探さずにはいられなくなった。
ほとんど使われていない西の便所で、侵されて喘ぐ彼を見た。帰路に着く生徒らの流れに逆らってひっそりと、昇降口とは反対側へ向かう彼らを見て、何か良くないことが起きる予感がして、尾行して様子を窺ったのだった。タイル張りの部屋の中で、ほとんど口付けるような距離にいた彼らに目を凝らしていると、突然彼が苦しみ出して手洗い場にしがみついた。肩で息をして悶える彼の口に鳴海が指を入れ、しばらくしてズルリと何かが抜き取られたのが見えた。彼の唇の際を伝って一瞬目に映ったその黒々としたものは、彼の生命そのもののようにも感じられて、代わりの何かでもいい、とにかく、失われた何かをその空洞に戻さなければならないと思ったのだ。チョコレートはその苦肉の策で、その上、失敗に終わった。もしも鳴海によってその身体が作り替えられてしまっていたのだとしたら、そう考えると、何かナーバスで青臭い怒りのようなものが体内を渦巻いた。
結局、鳴海を見たのは、白い水仙畑の駅を乗り過ごしたあの日が最後になった。彼と別れた後、あれが本当にあの不実な世界の出口だったのか、本当に彼を振り切ることができたのかは、しばらくはわからなかった。振り切ったと思っていたら、またふとどこかから現れるかもしれないし、しばらくは街の中に、学校に、異変、すなわちこの世界の綻びがまだ残っていて、それらはいつでも再び顔を出すのではないかと怯えていた。
およそ一月が経った今に至るまでその気配はない。だから、俺たちはあの世界を脱出したのだ。差し当たり、そう結論づけた。
彼、その親友は、己の心身を繋ぎ止めるために賢明な選択をしたのだったが、俺は実質的に、もう一つの賭けをしていたと言っても過言ではない。すなわち、どちらが彼を手に入れられるか、あの魅惑的な怪異から彼を取り返すことができるか、ということだった。そして、俺はあの朝、賭けに勝ったのだ、と思った。列車のドアが閉まって、鳴海と海と白い花畑と、こちらとの空間が隔てられた瞬間、その実感は、身体の底から沸々と、高揚感をもたらした。
けれども彼が時折唇に指先を運び、粒の揃った歯が丁寧にその爪の縁を蝕んでいくのを見るたびに、果たして本当に自分はそれに勝利することができたのだろうかと、胸がざわつくのだ。
今もまたそうやって所在なげに自らを蝕む彼のその手首を掴んで降ろしながら、
「悪くなるよ」
そう言って瞳の奥を探ると、
「ごめん」
と彼はハッとして、それから気まずそうにはにかむ。
今、彼の中にいるのは、彼自身か、あるいはもしかすると、鳴海なのか。俺は完全にあの幻を、引きずり出すことはできたのだろうか。
生ぬるい風が白い花弁とともに吹き荒れる、春が始まろうとしている。
(了)
