浦見崎。列車は沿岸をなぞるように走っていて、ホームに降りるとここからも、今しがた乗り込んできた駅からの眺めと同じ海が見えていた。こんなにも移動したのに、海は少しも動かずにそこにいる。
 寒々しい空に、数羽の鳥の影が滑っていく。僕は目を背け、痺れるように冷たい潮風の気配を背に、階段を降りて地下改札へ向かう。
 階段は、降りるごとに暗くなっていく。
 随分と長いこと補修をしていなさそうな空間だった。普段、遅刻しそうで急いでいたり、違うことが気にかかっていたりするときは対して気にならないが時々こうして黙って歩いていると、いつも見ているはずの風景の細部が妙に目について、全く違うものに見えてくることがある。錆びかかった手すり、古い型の蛍光灯。雨の日でなくても水が流れている、苔で覆われて黒光りしている側溝。上下左右の壁面が迫り来るような、四角いトンネルじみた通路を抜け、改札のあるフロアに出る。
 リュックサックのサイドポケットに手を回し、取り出したパスケースを触れると、聞き慣れた処理音がやけに響いた。
 僕は辺りを見回した。ふと気がつけば、やけにがらんどうとしていて、煌々と灯る蛍光灯の光に自分の靴音が吸い込まれていく。
 背後の足音が止まり振り返る。二人もまた虚をつかれたような顔で周囲に目を配りながら立ち止まっている。それを見て、その異質は確信めいた。
 鳴海と目が合った。いつも薄ら笑いを浮かべている彼の表情は堅かった。
「今日、なんだっけ?」と和明は言った。
「何って?」と鳴海。
「こんなに人いないことある?」
 僕は改札の窓口に目をやる。いつもそこにいる眼鏡の職員、否、ただ眼鏡をかけているだけで実は違う人物かもしれなかったが、そんなことは問題ではない。とにかく、窓口の奥にも人の影は一つもなかった。
「祝日? じゃないよな」僕が言うと、
「間違えて来ちゃった?」と、悠長な声で、鳴海が言う。
 そんなはずはない。それに、もしそうだったとしても、それはこの違和感を納得させる理屈ではない。
 先ほど通ってきた改札の中のトンネルの方を見ると明滅が見える。通路は曲がり角の向こうでもう見えないが、ただあの冗談のように白い光が、ついたり、影になったりを繰り返している。蛍光灯が壊れているのだろう。もとより、管理が杜撰なのだ。と、僕は内心で悪態をつく。
 しかし僕たちはおのおの口をつぐみ、それ以上、この地下改札通路について、何か言うことはなかった。とにかく、偶然がいくつも重なったに過ぎないような瑣末な変異は、議論に値しないのだ。僕たちはそれぞれ踵を返し、いつも地上に出るために使っている階段を昇る。僕は心なしか、少し足早に上を目指した。蛍光灯の光が澱んでいるようなこの地下空間から、何かがぬめり出てリュックサックを掴んでくるのではないかという幻想を抱いた。
 上方、出口に切り取られた四角い白い空が見えた。
 その光を掴むように、からがら外へ出ると、通りは聞き慣れた朝の音が満ち、車が通り、人が行き交っている。
 立ち尽くす僕の脇を誰かがすり抜けていった。鳴海か和明のうちのどちらかかと思ったが、離れてゆくその背中は、見知らぬ背広だった。振り向けば、後から後から人が出てくる。まるで普段と変わらない。これまで数え切れないほど通ってきて一度も立ち止まったことのない、何の変哲もない地下への入り口に、僕が呆然と立ち尽くしていることだけが、いつもと違うたった一つの事象だった。
 彼らはどこにいたのか? あのがらんとした、虚ろな地下改札のどこに?
 たったいま出てきた階段を振り返ると、記憶よりも急勾配の階段が、崖のように遥か深くへ続いているように見える。元からそうだったのか、それとも何かがおかしいのか、分からない。近くでクラクションが鳴った。目をやれば、それは僕に向けられたものではなかったが、切り裂くような振動が僕を我に返らせた。トラックが走っている。タクシーが走っている。人々が、素知らぬ顔で通りを歩いている。僕はようやく、束の間の安堵を得る。
 鳴海たちが歩き出したのを見て、僕も我に返って追いかけようとした。学校へ続く路地の方を目を向けると、しかし、僕の呼吸は再び浅くなった。
 通りの向こう、学校へと続く商店街は、まるでそこだけ別世界であるかのように静まり返って、延々と伸びている。
 その商店街は、毎朝登校する際には、早々と人で賑わっていた。このように店々のシャッターが閉ざされ、静まり返っていることはない。
 僕は隣の鳴海を盗み見た。彼の視線が、同じようにその向こうの商店街の方に張り付いているのを見て確信した。
 鳴海も、この齟齬感に気づいている。
「智紀」
と、呼んだのは和明だった。
「どうした?」と言った彼の声もまた確信めいていて、確かめるために彼は問うたのだ、と僕は思った。
「見える?」
 僕が言うと和明は、
「うん」と答え、商店街の方を見る。「やっぱりなんか変。さっきのも、多分、気のせいってわけじゃない」
 鳴海は落ち着かない様子で周囲を睨みながら黙りこくっていた。
 彼は黙っていると、本人の気質以上に機嫌が悪く見える顔立ちをしていた。目が鋭くて、薄い唇は周りの人間全てを侮っているようにも見える。それで損をしている場面もしばしば目にしてきた。彼の冷ややかで鋭利な面持ちに付与されるその評価は誤りであって、あながち誤りでないように僕は思う。
 彼が本当は何を考えているのか、十何年付き合っているはずの僕でも、ほとんど分かったことはない。と、僕は思っている。
 不安げに親指の爪を噛む鳴海と目が合った。