それから僕たちは蛸の体内を抜け出して、公園から浦見崎の駅を目指して歩いたが、何度も通っているはずのその道は僕たちをいつの間にか迷路に閉じ込めた。
彼、和明は、確かに僕を監視していたのだ。しかしそれは僕を世界の歪みに引き込むためではなく、むしろそこから引き上げるためだったのだ。と、思う。和明は僕が鳴海に侵食される過程を観察し、そして鳴海が言ったように、僕と鳴海がこれ以上接近しないように、それどころか溶け合ってしまおうとする僕らを、そうならないように、僕たちを見ていた。鳴海の言うことは半分は正しく、半分は正しくなかったということだ。そしてそれは確信犯だっただろう。
どうやって鳴海の手中から逃れるか、その方法が問題だった。
「最悪、殺すしかないかも」と和明が言う。
「どうやって」
「首絞めるとか、刺すとかさ」
「本当に確かか? 鳴海が存在しないって話」
「俺よりお前の方が分かるだろ」
僕の中の鳴海の記憶は、僕の生まれて意思を獲得してからの半生の全てと共にある。と、思っていた。それを少しずつ、ナルミくんの記憶と選り分けようとしていけば、僕のマスターベーティブな稚拙さを直視せざるを得なくなってくる。思い起こされる数々の風景は、実際には存在しなかった虚妄の記憶かもしれないし、あるいは鳴海ではない誰かとの記憶を改変しているのかもしれない。
いずれにせよ、僕にとっても、少なからず和明にとってさえ、真実であったはずの鳴海という少年は、いったい何であるのか。彼の存在について、複数の仮説の中から判断を下すのは誰なのか。すなわち、彼をどんな手をもってしてでも消し去ろうとすることは、許されているのだろうか。
僕はしばらく考え込んでいたようだった。
「そうなったらさ、もしやらなきゃいけないってなったら、俺も一緒にやるから」
そう聞いて、僕の胸は苦々しく膨らんでいっぱいになった。咄嗟に返す言葉を持たなかったが、これまで友人だと思っていた彼と初めて、鳴海という存在を飛び越えて、直接に心を開いて向き合えたような気がしたのである。
ひたすらに歩いていると、行き着いたのは那岐浜の駅だった。点々と、人の往来がある。
「戻ったな」と、和明は言う。それはおそらく二重の意味を持っていて、つまり浦見崎のタコ公園を出たはずが元いた那岐浜に行き着いたということと、僕たちだけを抱いていた支離滅裂なレプリカの位相から、現実世界の端に帰ってきたということだ。
「今度こそ電話、かける?」
「いや」
と、和明の視線をたどれば、ちょうど向かいから歩いてくる人影がある。
「おはよう」
と、その影、鳴海は言った。
僕はポケットから携帯電話を取り出し、久方ぶりに時計を見る。時刻はすでに朝になっている。そうであれば、この薄暗さは、白夜を経てすでに暁ということだ。
「おはよう」と僕も返した。言葉が白い息となって漂った。まるでいつもと変わらない、冬の凍てついた朝のように。
「和明? なんで」
鳴海は和明がいるのを見て、訝しげな顔をした。和明は、
「よう」
と片手を挙げて挨拶をしただけで、弁明もしなかった。
無人の改札を通って、プラットフォームに降りる。眼前には日毎臨む白い海。ナルミくん、鳴海であって鳴海ではないあの少年はようやく、ここから帰って来たのだ。そう思うと智紀は、祝福するような心持ちにさえなった
「鳴海」
凪いだその海原を眺めながら、僕は大切なことを言おうとしていた。
「お前のこと好きだよ」
えっ、と、素っ頓狂な声を上げて、鳴海は勢いよく僕の方を振り向いた。
「どういうこと?」
僕は照れ隠しのように咳払いをする。
「お前のこと好きだった。っていうか、憧れてたんだと思う。なんでもできて、人気者でかっこいいなって」
「ちょっと待てよ」と鳴海は狼狽えながら、「それ全部、いま言うの? 和明いるよ」
彼の心底慌てたような、その少し血色付いた頬をぼんやりと見ていると、彼は間違いなく長い時をともにしてきた気の置けない友人と呼ぶほかにないように感じられてくるのだ。しかし、僕はすでに、彼に心臓がないことを確かめていた。彼と交わした抱擁が、幸福とともに、それを告げた。
「要するに、鳴海になりたかった。なれなくて悔しくて、せめて一番の友達になれたらって思ってたけど、なれなくて、それも悔しかった」
プラットフォームにゆっくりと、旧型の鈍い銀色の列車が入ってくる。ドアは開き、僕たちは他の乗客たちと共に乗り込む。
薄い座席に腰を降ろし、まるで口枷を嵌められたように、誰も言葉を発しなかった。
明け方の寒々しい海が窓外を流れていく。
和明が乗ってくるはずの駅に停車し、空気の抜ける音がして、車両の反対側の端のドアが開く。何人かの乗降を見送り、それから僕は鳴海の方を見る。項垂れた彼の横顔に疑問を呈する色はない。
列車は発車し、加速した。
「俺はお前の一番の友達じゃないの?」
と、鳴海は言う。
それは誘惑的なミスリードで、いつもの飄々とした口調の奥底に滲む不安が、鳴海が僕を必死に繋ぎ止めようとしているのだということを知らせる。僕がその謀略に絡め取られてしまわないように、和明が見つめている。
「違う」
と、僕は答える。
再び、車体を取り巻く音が変わった。慣性力が重く身体にのしかかり、景色の流れが緩やかになっていく。鳴海が気怠げに車内の電光表示を一瞥し、床に放り出していたリュックサックを引き上げながら席を立った。その緩慢とした一挙手一投足を、僕は目で追った。
電光表示に目を凝らす。何かが表示されていて、確かに知っている文字だという感覚はあったのだが、認識はできなかった。まるで網膜に確かに感受された光が、ニューロンの不具合によって、識字から妨げられているかのように。
やがて海を遮るように一面の白い帯が線路に沿って伸びていき、ゆっくりと現れたいつもの駅に、列車が停車する。
白は、いつか見た花の色だった。
身体の中心から、全身が熱く脈打ち始める。それは単に緊張だったかもしれないし、選ぶべき分岐点を示す本能的暗示だったのかもしれない。
座席に座ったままの二人を振り返って鳴海は、
「降りないの?」
と首を傾げた。
「降りない」喉からこぼれ出しそうな心臓を飲み込んで抑え込みながら、僕は応える。
隣の和明の手が、僕の手を強く握っている。彼もまた不安なのだろう。僕が鳴海と一緒に行ってしまうのではないかと、彼は思っている。けれども僕と彼との肌の間でのたうつ、確かな脈動が、僕をそこへ結びつける。
「そう」と、つまらなそうに、鳴海は言った。「じゃあね」
「うん」
ボタンを押し、彼は呆気なく降りていった。音を立ててドアが閉まる。汚れた窓の向こうで、鳴海が手を振っている。列車が動き始めると、背後の白い花畑とともに、その姿が流れていく。
浦見崎の海岸に咲く、水仙である。
鳴海が見えなくなって、僕は息をついた。握っていた和明の手の力が緩み、バツが悪そうに、自然と離れていく。
「また会えんのかな」
「鳴海に?」
「うん」
「会えないよ」と和明は言った。
僕は分かっていてそう尋ねたのだった。しかし、和明は、僕がいまだ心の底ではほんの少しその事実に抵抗したがっていることを知っていて、その上に無理やり蓋を閉めるように念を押す。
「鳴海は、もう居ないから」
視線を感じて隣を見た。和明が、心配そうにこちらを見ていた。彼は今にも泣き出しそうな顔で、
「鳴海が居なくても俺が居るよ」
僕は彼に報いなければと思った。しかし、今はただ微笑を搾り出して返して見せることしかできなかった。
「ありがとう」
なぜ彼が泣きそうな顔をするのだろう。悲しいのは僕なのだ。けれども、彼の方がよほど哀れに見えた。それがかえって僕の悲しみを緩和したような気がする。
遠く、くぐもった声の車内アナウンスが先ほど鳴海が降りていったはずの駅の名を告げる。それは、あの水仙畑の駅が僕の降りるべき場所ではなかったということ、つまり僕は、ずっと間違った場所を右往左往していたということを意味していたようだ。
僕は目を伏せて、脳裏の鳴海の姿を反芻する。自分が彼の何をそれほどまでに欲していたのかも、もはや朧げだ。鳴海はもういない、と、隣の親友は言った。そして僕も分かっている。鳴海は、初めからいなかった。彼は僕の自罰的な悔恨で、ついぞ果たされなかった恋だった。
しかし網膜に焼き付く鮮烈な真紅色は、僕が彼の手を取ってその指先にそれを施した時の、彼の指の冷たさ、ツンと鼻を刺す揮発油の匂い、甘美なる永遠への独りよがりな切望を、愛おしく思い起こさせる。
軋む身体を、彼が夜のプール室で抱きしめてくれたこと。
たとえそれが幻だったとしても、あるいは一人芝居の茶番だったとしても、あの瞬間、僕が孤独でなかったことは確かなのだ。
鳴海はいる。鳴海はいる。
