畦道をまっすぐに進んでいるうちに、隘路に入る。管理者を失った土地が植生に任せた遷移を経て、小さな森林を形成し、舗装された道にさえ溢れ出し侵食しているのだった。幾分か葉は落ちているものの視界は悪い。そこを潜り抜けてるとやがて、よく見知った色褪せたシンボルが現れ、僕は思わず息を詰める。
 僕たちは、あの巨大な軟体生物の遊具が司る公園にたどり着いたのだった。
「那岐浜にいたのに」
と、和明。
「こんなこともある」僕は妙に冷静だった。
 褪せた、曲線的な肉の隅々は息づき、巨大生物の眠ったような呼吸音が、かすかに轟いでいる。
「これが突破口ってやつ?」と、誰から隠れるともなく、しかし僕は声を顰めた。「鳴海に電話する?」
「ちょっと待てって。作戦会議って言ったじゃんか」
 そのうち、風が強くなり始めた。露出した頰を乾いた空気が刺し、角膜を攫っていく。瞬きをしながら、僕たちは仕方なく巨大生物の体内に逃げ込んだ。
 僕たちは、樹脂製の壁を透過した薄紅色の夕陽の混迷の中をしばらく彷徨った。そのぬくもった体内は進めども進めども終わりを知らぬほどに広大だったが、もう子供ではない僕たちの身体にはいささか窮屈で、腰を屈めて進む僕たちの息を浅くする。風は、遮蔽された外を駆け抜けながら鋭く鳴いていた。やがて薄暗く土っぽい小さな安寧に腰を降ろし、僕と和明は、膝を突き合わせて向き合った。
 彼は本題に入る前に、身体を捻りながらうやむやに上着のポケットを探ると、
「食えよ」
と、何かを僕の鼻先に突き出してきた。
 僕ははじめ、それが何なのか分からなかった。首を仰け反らせて焦点を結ぶと、それは食べさしの菓子のようだった。
 彼が萎びた金色の包み紙を開くと、チョコレートの欠片が顔を出す。
「食いかけで悪いけど」と彼はそれを僕の唇に押し付ける。
 思えば、色のついた食物を随分と久しぶりに見たような気がした。
 僕がしばらく和明の顔とその食べ物とを見比べていると、和明は自らその硬い板の端を齧って飲み込んで見せ、その新しい歯形を僕の方に差し出す。
 僕はそれを一口齧って、飲み込もうとしたが、暴力的な甘さを臓器の壁という壁が拒絶して、酸い唾液と共に吐き出してしまった。地面に濡れた染みができる。横隔膜が、たったいま経口した全ての成分をなおも絞り出そうと、胃を迫り上げる。道連れにされた肺の伸縮とともに、僕はまだ自分の身体が不随意に生きていることに、安堵さえ覚える。
 和明が腕を伸ばして僕の背をさすった。彼の萎縮した胸の中で、呼吸を整え、顔を上げると、まるで親に置き去りにされた子供のような和明の顔が、すぐに滲んでぼやけていった。涙は、嘔吐の副産物に過ぎなかったかもしれないが、感情的な根拠もあった。いずれにせよ、先に泣いたのは自分だったのだ。
「お前が変になってるの俺わかってるよ」
と和明は言った。
「どこがどうなってるのかはわからないけどさ、だから全部教えてよ」
「なんで」
「なんでって?」
「なんでお前に言わないといけないわけ」
「俺がどうにかしたいから」
 彼はすでに憤っていた。否、憤るというより、彼も大きな悲しみの中にあって、僕が泣いているからかろうじて涙を流すまいとしているだけだ。そのように見えた。彼は自らチョコレートを毒味して見せて、僕に食べさせようとしてくれる人間だ、という事実が、どうしようもなく僕を絆した。
 僕は和明に、数年ぶりに那岐浜に打ち上げられた亡骸の話、その少年に対する僕の記憶を、一つ一つ打ち明ける。ナルミくんというクラスメイトと、手に入れ損ねた友情のこと。彼が他の魂を連れて、那岐浜の海に消えてしまったこと。
「でもさ、僕の記憶のナルミくんと鳴海って、全然違くって。ナルミくんはもっと柔らかい感じで優しかったと思うし、でも鳴海より近寄り難かったし、そもそも僕はあの子の友達なんかじゃなかったし、よく考えたら顔も全然違うような気がする。でも、最後に見たのって小学生の頃だし、顔が変わってたとしても、そりゃそうか」
 僕の独白を、膝頭を触れ合わせながら、和明は一生懸命に聴いていた。
「なんだろう。分からない。鳴海って誰なんだ?」
「多分、そいつは鳴海じゃない、鳴海はそいつじゃないよ。だってその子、もう死んだんでしょ」と、和明は言う。
「分かんない。僕は死体見てないし」
「でもそういうことがあったのは事実だろ」
「だからさ、分かんねえよ。僕からあいつを隠してるだけかもよ」
「誰が、なんでそんなことするんだよ」
 口を滑らせて黙り込んでしまった僕を見かねて、彼は身じろぎし、先ほどのようにまた僕の肩を擦った。
「俺さ、そういう話聞いたことあるよ。強く念じると、自律した人格が実体化して現れるの。本当はいないんだよ、だから」
「どっちが?」
「もちろん、俺たちの鳴海だ。あれを消さないと」そう言って、和明の目は僕に言って聞かせるように強く閃いた。
 僕はここしばらくの間、夜毎僕を苛む痛みと、繁殖していく外界との不和の中で、出口を探してもがいていたのだった。そしてそこから逃れるための方法に、僕は本当は、少し前から気づいていたのだ。少なくとも、ナルミくんの存在を思い出してからは。鳴海を否定すること、それがその方法であるという仮説、彼の提案は、これ以上ないほど理にかなっていて、全く、その通りだった。けれども僕にはそうすることができない、全く稚拙な、しかし最も大きな理由があった。つまり僕は鳴海と離れたくないのだ。
 僕はそれをどうやって弁明できるだろうかと激しく思考を巡らせた。
「でもイヤなんだろ、お前」
と、しかし、和明が言った。
 僕は思わず和明の目を見る。
「なんで?」
と、絞り出すような声が、己の喉を摩擦する。
 なぜそう思うのか、という僕の問いに、彼は答えあぐねた。「でもダメだよ。逃げないと。お前がなくなるよ」
「どういうこと」
「自分じゃ気づかないのかもしんないけど、俺はお前と鳴海がごちゃごちゃになってるのをずっと見てるから」
「どんなふうに?」
「時々お前じゃないなって、思うことがあったし、あと、あいつの癖がお前にも移ってんの」
 その時、僕は唇に自分の指先が触れていることに気がつき、ふと我に返ってそれを見る。裸の爪の端に、齧られてふやけた痕がある。僕は赤くきらめく彼の爪を思い出す。瑕疵の上に、僕自身が施した赤を纏ったそれのことだ。
「このままだったらどうなるか分かんないし、順当に考えたらお前は無くなってそのうち鳴海になるんだろうけど」
「そう見える?」
「見えるよ、関数的に考えればさ。でも、お前はそれだって嫌なんじゃないの」
「なるようになれって思うよ」
 僕は実のところ心底、そう思っていた。僕には分からなかった。僕は僕であるよりも鳴海であったほうが幸福なような気がしたからだ。
「だめだよ」と、しかし、和明が言う。「智紀じゃないと。お前がオリジナルだから」
 肩に置かれていた和明の手が、固く力を帯びていく。それは身体を覆う何枚もの厚い布を超えて、骨に食い込んでくる。その指に、侵襲よりも善意を読んで良いのか、つまり、鳴海ではなく和明の手を取ることが正しいのか、この期に及んでも僕はまだ判断しかねていた。
「どうやって、逃げたらいい?」
 僕は、和明の瞳の奥に問いかける。僕は和明を試している。
「次に何が起こるか次第だ」和明は言った。「違うことをしてみる、とか。いつも何をしてるか、当たり前に繰り返してることを思い出して」