次に目を開いたときには、窓の外の空はすっかり白く冴えていた。昨夜溶けてしまった両腕を眼前に翳して見る。何事もなかったように、少し血の気が引いたそれが一対、朴訥と翻りながら、部屋に差し込む薄い陽光をサラサラと遊んでいる。そのままその手で胸から腹を撫で下ろした。粘液の気配は微塵も残っていなかった。
上体を起こし、しばらく茫然としていると、目頭がジュンと熱くなり、下瞼の縁を温かい湿度が満たしていく。瞬きをするとそれは小さな塊となって頰にこぼれ落ちる。
ベッドを出て、その乱れた抜け殻と、それから小さな方形の部屋の全体を見回す。誰かが訪れた気配はない。それどころか、ずいぶん長い間、自分さえその部屋にいなかったかのように、見慣れない感覚がある。あの壁の端にはあんな窪みがあっただろうか? 天井はこのような模様だっただろうか?
僕はスウェットの上下を脱ぎ、クローゼットからワイシャツを取り出して、袖を通し、かじかんだ指先でボタンを閉める。硬い布の冷感が不快である。太腿に鳥肌が立っているのが見えて、ざらついた肌を擦ってなけなしの摩擦熱を与えながら、昨日脱いだまま椅子の背に乱雑に引っ掛けてあったスラックスを急いで履いた。デスクの携帯電話とリュックサックをつかみ、部屋を出て、階下の洗面所で顔を洗う。顔を上げると、鏡の向こうで、青白い僕がこちらを見つめている。鏡の中の僕は、ずっと僕を見守っていたようで、僕が顔の水滴を拭い終わるのを見届けると、自分も手のひらに顔を埋めて顔を洗い出した。僕はそのつむじをぼうっと見つめた。彼が顔を拭き終わってこちらを見つめて微笑んだので、僕は洗面所を後にした。
「あのご遺体のことだけどね。やっぱりあの子だったんだって」
何日目かも分からない、白い朝食越しに、母は言った。
「もういいよ」と僕は言った。「その話、聞きたくない」
「どうして?」と、母は、悲しげな顔をする。
「死んだ人の話は聞きたくない。死んだ人の噂話、聞きたくない」
「下世話だって言いたいの?」
「そうだよ」
僕は母を見つめる。その虚ろな表情は僕を震撼させた。母ではない何かのように見えた。しかし、それを確かめるすべはなかった。母は話すのをやめなかった。
「でも私、思い出したのよ。智紀、小学校まで一緒だったのよ。仲良い感じでもないみたいだったけど。なんて名前だったかな?」
生ぬるい湯豆腐を嚥下する。
「そう。ナルミくん」
僕はゆっくりと椅子を立ち上がった。
同じクラスのナルミくん。
一度も言葉を交わしたことはない。ただ彼に対して僕がずっとどんな感情を抱いていたのかは、克明に覚えている。
端的に言えば僕は、やはり、彼のことが嫌いだった。
少なくとも、あの十数人のクラスの小さな箱の中で、彼は英雄だった、と僕は記憶している。そして僕にとってその英雄の冷徹な眼差しは残酷なものだった。誰もが彼を見つめていたが、彼は誰のことも見ていなかった。もちろん、僕のことも。
本当は僕は、彼と友達になりたかったのだ、と僕は気づいていた。彼に憧れていて、彼になれない自分が憎らしくて、せめて彼と友達になることで——それも、ほかの誰も追随できないほどに彼の最も特別な存在になることで、彼を手に入れたいと、それが彼を侵食する最大限にして唯一の方法であると、僕は思っていた。しかし臆病な僕はついぞ彼とまともに言葉を交わすことなく、小学校を卒業し、中学で学区が別れ、疎遠になった。否、元から疎遠なんていうものではなかったが、こっそりと顔を盗み見ることさえ叶わなくなったということだ。
ナルミくんと交わした数少ない会話の中で、最も鮮明に記憶に残っているものがあった。遠足で訪れた「しおさい館」でのことだった。
「智紀くん、見て。蛸だよ」
と、ナルミくんは水槽を指差して言った。彼に呼ばれたことで浮ついた気持ちを僕は努めて押し込めながら、水槽の方に駆け寄り、彼の節ばんだ人差し指の示す先に、吐瀉物のように澱んだ色の物体が寝そべっているのを見た。しかしその時、僕にはそのぬかるんだものが蛸には見えなくて、
「蛸じゃないよ。赤くないし」
と言ったのだった。そこには、興奮で上擦った頭の中で、彼の言葉を何らか否定したいという僕の後ろ暗い欲望もあった。そうすることで、彼を超克した気分になれるだろうと、幼い僕は甘慮していたのだ。するとナルミくんは、
「生きてる蛸はこんな色だよ。茹でると赤くなるの」そう言って、冷ややかに僕を一瞥した。否、きっと彼は、そういうふうに僕に軽蔑するような目を向けた気はなかっただろうし、実際にそうではなかったのだろう。けれどもその彼の視線が最も鮮やかな屈辱として映った僕の目にはそう見えたのだった。事実、彼はどこかへ行ってしまうことなく、僕たちはしばらく二人で並んで、にじり動くその土色の柔らかい生き物を眺めていた。しかしその時僕は、彼に対して無知を晒した恥と、彼と頬を寄せて一つの美しいものを一緒に眺めているという幸福とがない混ざって、震える身体は冷たく、今すぐに走り出したいような気分だった。
それ以降僕はすっかり怖気付いてしまい、卒業までナルミくんとまともに話すことはなかったように思う。中学に上がってしばらくした頃に届いた例の知らせ、すなわちナルミくんがもう一人の友達とともに河に流されてしまったという一報は、落雷のように僕を打ちのめした。
他の児童や大人たちと同じく、身近に降って湧いた死そのものにも動揺していたし、あの全てを携えて愛されていた美しい少年が消えてしまったこと、そして、どういった動機であれ、しばらく見ないうちに彼には二人きりで嵐の日の大河に連れ立って行くほどの友達がいて、それが僕ではなかったということに、確かに僕は激しい喪失感を抱いていた。ナルミくんとは違い早々に遺体の上がったその友達もまた、小学校の時のほとんど接点のなかった同級生だったが、朧げな面影を残したその眠った表情を見た時、僕は自分が感じていた悲しみが正当なものではなかったことに自ら気づいていて、それがたまらなく恐ろしかった。
僕はずっと心の中のどこかで、彼の死体を探していた。
そのことを思い出した時、僕は自分の身体が熱を帯びていることに気づいた。椅子から立ち上がったまま物思いに耽っていた僕を不思議そうに見上げる母と目が合う。頭蓋骨が重く、全身の皮膚が膨張したように鈍かった。肉体的にも気分的にも、とても学校に行ける状態ではなく、僕はその足で部屋へ戻り、制服のままベッドに入り目を閉じた。
