その朝は結局、剣道部の朝練が始まって体育館が騒がしくなってからしばらく隙を見て、目論見の通り下足室に滑り込んだのだった。朝練を終えて冬にもかかわらず汗みずくで教室までやってきた和明とすれ違ったとき、彼はいつものように淡々とした顔で、僕に目で会釈を送った。変わらないいつもの挨拶だ。その奥に何を隠しているのか、僕には皆目、分からない。
和明が僕に何かを隠しているならば、僕も彼に隠し事をしている。その蓄積は、罪悪感となって胃の底に重くこごっていった。彼の知らない僕と鳴海との間のやりとり、例えば夜半彼に電話をかけたことや、プール室で抱き合って眠ったことは、無論、逐一彼に知らせる必要などないようなことだ。けれども、鳴海が提言した疑念が僕を完全に取り込んで目を塞いでしまう前に、僕は自ら彼を確かめる必要がある。それが最低限の誠実さだと、僕は思った。
しかし、どのように? どのようにすれば、何も失うことなく、鳴海の言葉を検証することができるだろうか?
放課後、教室を出ると鳴海が待っていた。
「おう、お待たせ」
「ちょっと、来てくれない?」
と、出会い頭、彼は僕の肩にかけたリュックサックを引いて鳴海は言う。
「どこに?」
「こっち」
僕は鳴海が導くままに、昇降口とは反対側の、非常階段がある方へ向かった。
全身鏡の角を曲がり、暗幕のかかった空き教室とシンクに挟まれた廊下を通って彼が連れてきたのは、以前妙なものを見て以来寄り付いていない、あの西側の便所だった。
相変わらず、薄暗く、黴の匂いで澱みきった空間だった。僕は真っ先に、奥の小窓の方を確かめる。小さな方形の向こうに、夕刻の青黒い空が見える。少しだけ安堵で緩んだ僕の肩を掴んで、鳴海は僕の正面に対峙した。
「上向いて、口開けてみて」
と鳴海は言った。
突飛な指示に、僕は思わずまじまじと、鳴海の顔を見た。
「なんで?」
「いいからさ」
僕は不愉快だったが、仕方なく、唾を飲み、それから言われた通りにした。
鳴海は腰をかがめ、僕の口の中を覗き込む。よく見えないようで、自分の身体を揺らしたり、僕の首を好き勝手に動かしたりしながら、天井にぶら下がっているしおらしい蛍光灯の明かりを口腔内に取り入れようと苦戦していた。
「もっと開けろよ」
苛立った声に、顎をもう一段階開くと、耳の横の関節が鳴る。
「喉の奥開いて」
どうすれば良いのかわからなかったが、体はひとりでに言いなりになって、舌根が下がる。
するとその動作が内臓を喚起したのか、喉の付け根のあたりに、何か大きな塊が昇ってくる感触がある。
「んあ」
口を開けたまま痙攣した僕の胸を、鳴海の手が押し上げた。
僕は混乱して思わず体勢を崩し、近くにあった手洗い場にかぶさって咳き込んだ。乾いたブリキのシンクに透き通った唾液が垂れるが、喉の異物感はかえって増大していく。
「吐け」
背中をさする感触とともに、妙な威圧を帯びた声が落ちてくる。僕は努力をしたが、内臓の反射に任せて上手く異物を排除することができなかった。
「何、これ」
喘鳴の間を縫って僕は喚いた。
「余計なものが居るんだよ、中に」
何かが頰にまとわりつき、口の中に侵入してくる。鳴海の指だ。冷たいそれの先端は固い爪の背で僕の軟口蓋を押し上げた。舌がひとりでに鳴海を押し出す。鳴海はその収縮を突き返すようにさらに奥へ進んで、何かを掻爬しようとする。僕は朦朧とする視界の中で、どこか他人事のように、鳴海と、僕の体内にある何かとの、攻防に身を任せていた。僕には手に負えなかった。やがて深く潜り込んだ鳴海の指が何かを捕まえて、引きずり出した。
弾力のある肉塊が、喉をすべり出てシンクに叩きつけられる。くすんだ銀色の桶の中で、赤黒い塊が、まるで一個の独立した生命のように脈動しているのが見えた。
涙で滲む視界の端に、横から手が伸びてきて蛇口を捻ると、水の柱が落ちてくる。鳴海の手を流れ落ちる水がその塊に降り注いでそれをみるみる崩し溶かしていき、微細な組織に分解されたそれらは散り散りに、排水溝の細い穴の隙間に消えていく。
水流を手皿に汲んで口を濯ぎ、吐き出すと、それは赤い混入物と泡で濁っていて、シンクの残留物を流していく。
「もう少しで全部出るから」
「まだなんかいるのかよ」
今日はもう、吐けと言われても無理だ。と思うほどに、身体は疲れ切っていた。唇を引き結んで袖口で拭うと、鳴海はまだ僕の背中に手を当てていた前のめりの手を下ろして、顔色を変え、同じように黒い学生服の袖で僕のまなじりから頰のあたりを擦る。涙の跡をなぞっているようだった。
シンクの汚れが流れ切ったのを見届けてから、僕たちはトイレを出て、裏の階段から階下の昇降口へ向かった。
踊り場で曲がった時、視界の端に動く影が映った。僕は勢いよくそちらを振り向いた。その瞬間、影が物陰に身を隠したようにも見えたが、それがなんであるか、確かめることはできなかった。僕は心持ち歩みを速めた。前を行く鳴海と並ぶと、
「昨日、見えたんだ」
突然、鳴海が口を開き、僕は肩を痙攣させる。
「何が?」
「お前の口の中に」
「なんなの、あれ」
鳴海はそれには応えなかった。代わりに振り返った彼は、僕の喉元に目を止めて、何かに気を取られたようだった。僕は彼の視線の先に指をやり、それから自分の胸を見ると、黒々とした液体が、白いワイシャツを染めている。先ほど吐き出したものが垂れたのだ。きっと黒い上着の襟も、見えないだけで汚れている。
「体操着持ってくるからここで待ってて」
そう言って鳴海は階段を駆け戻っていった。
遠ざかっていく足音が聞こえなくなると、急激に、知覚が鋭敏になり、四方の空間が迫り来るように感じる。先ほど視界をよぎった何かが、いつでも僕を殺しにくることができるのだ。僕は逃げ出そうとする脚を床に繋ぎ止めながら、目に映るあらゆる隅に意識を走らせる。鳴海が去った方向からは反対側の廊下の陰から、、追跡者が姿を現すまでに、そう時間はかからなかった。
「行こう」
と、躍り出たもの、すなわち、和明は言った。
立ちすくんでかえってその場から動けなくなってしまった僕の肩を強く叩いて、「行くぞ」と彼は繰り返した。
「鳴海、待たないと」
「大丈夫。早く」
彼にそう言わせているものは何なのだろうか? 僕の内臓の壁は傷ついて炎症していて、胸焼けが思わず顔を顰めさせた。しかし和明のもはや縋り付くようなその視線に気圧されて、まるで首に綱でも繋がれているかのように、彼の後を僕は追いかけた。とにかく、彼は僕を鳴海がいない間にここから連れ出そうとしているのだ。彼の全身から迸る焦燥が僕の脳の司令系統にも容易に伝染して、僕は和明に続いて階段を駆け下り、何かに追い立てられるかのように校舎を出た。
