胸が重い。
僕はすでにどこかで覚醒の尾の先を捕まえていて、しかし身体の全ての感覚がはるか遠くにあり、そのうちの何か一つでも手繰り寄せようと全身に神経を巡らすと、四肢に、痛みの残滓がある。きっと気がつく前にそれは僕の身体を苛んでいたようだ。しかし今はとにかく、息苦しかった。肺が小さく絞り上げられているような。僕は唇を開き、
「はっ」
目を開けると同時に、胸が軽くなる。鼻先まであった何かの気配が遠くへ後ずさり、身体の周りの空気が拡散していったようだ。眼前、暗がりの中に影があり、影が、
「智紀」
と僕の名前を呼んだ。それは聞き慣れた声をしていた。僕を見下ろしている。影の向こうから、視線が注がれている。
僕は不快に汗ばんだ鼻の下と額を手の甲で拭って上体を起こした。同時に、覆い被さっていた影も離れていった。
こうこうと灯っていた照明はいつの間にか落ちていて、階段の電灯が月あかりのように、ガラス扉の向こうから薄く差し込んで、かろうじて物体を存在させている。
「僕、何か?」
「痛がってたよ」と影、すなわち隣で寝ていた鳴海が言う。
「どんなふうに?」
「ウーン……って、なんて言ってるか分かんなかったけど、ギュッとなって」と、彼は膝を抱えて見せた。
「電気消えてる」
「俺が起きたときには消えてたよ」
「自動で落ちるのかな」
鳴海はぐるりとプール室の中を見渡した。水音がする。うっすらと浮かび上がる水面は揺れている。四隅の暗がりが、異様に黒々としているような気がする。錯覚かもしれないが、それが僕の身体を強張らせているのは事実だ。
「この部屋、何かいた?」と僕は、続けた。
「いや」
「お前はなんともないの?」
「僕は何も」そう言って鳴海は、まるでそれを証明するかのように、僕の手首を取って自分の顔に触れさせた。僕はそのまま、冷たい影をなぞった。骨ばった鼻は紛れもなく鳴海のものだ。首、肩、胸。そうしているうちに、ようやく息が整い、気も和らいでくる。鳴海は宥めるように僕の肩をさすり続けていた。
この薄暗い部屋の中、二人で、鳴海の関心が、自分だけに向いているこの瞬間が、僕はどうしようもなく幸福だった。その幸福が肺の中で膨らんで、胸が詰まり、苛立ちのような、焦りのような衝動に、目頭が熱く痺れはじめる。
僕の涙に気付いたのだろうか、鳴海は僕の手を握り、柔らかく身体を引き寄せて、すると頬に柔らかい感触がある。身体を離した鳴海の顔が、ぼんやりと、しかし先ほどよりは鮮明に、暗闇に浮かび上がっていた。
「まだ夜中。寝よう。目つぶるだけでもいい、寝られないなら」
僕は混乱していた。しかし彼の穏やかな声は催眠のように、あっけなく僕の覚醒を奪ってしまったようだった。——
次に目が覚めたときも部屋の中は何ひとつ変わったところがなかったが、携帯電話のデジタル時計を見れば朝の七時を示している。僕たちはブランケットを丸めてリュックサックに押し込み、ガラス扉を開けて階段に出る。体育館の方から差すぼやけた朝日が、階段を上がる一歩一歩を息づける。僕はそれがたまらなく嬉しかった。
外は冷えていたが、快晴だった。その白い空を見て、僕はなんだか爽やかな気分だった。
僕たちは体育館の裏で、他の生徒たちが登校してくるまで待っていることにした。人が増えたら何食わぬ顔で混じり込んで教室へ行くという算段だ。
何年も使われていないであろう用具たちが錆びて捨て置かれている、もうずっと絵のようにそこにあったような風ひとつそよがない空間が、僕と、その眼差しを、全てから隠してくれそうで、ひどく穏やかな心持ちだった。
洗い場の蛇口から滴る刺すように冷たい水を顔に撫でつけながら、
「和明には言わないで」
と僕は言う。
鳴海は屈んで、口に含んでいた水を吐き出してから、
「なんで?」と、唇を拭いながら答える。
「なんて説明すんの。俺が頼んだって言うの? いやだろ、そんなの」
「事実なのに」
彼は先ほどまで身体に巻いていたブランケットで乱雑に顔を拭った。毛羽だったその布の一部は濡れて深く色づいた。
「どっちにしろ、言わない。言わない方がいい、あいつはよく分からない」
僕は彼がそう言ったのを聞いて、咄嗟に何かを返そうとしたが、結局黙り込んでしまった。
鳴海の言う通り、和明はあまり胸の内を明かさないところがある。それがこの三人の均衡において、あるいは同じ世界との不和を共有する連帯において、異分子的な齟齬感を残していることは事実である。
何れにせよ肝心なことは、僕は夕べ眠りながら、痛がってうなされていたということだ。つまり、あの痛みは僕の夢の中で起きたことだけではなくて、実際の身体に作用していたものだった。しかし、そこまで考えて、感覚というものが、すべて脳が作り出したものであるならば、どのみち同じことなのではないか、と僕は思い至った。それは夢と何が違うだろうか。僕は一体、何を確かめることができて何を確かめられなかったのか、分からなくなってしまった。
