僕はその日、一晩鳴海と二人きりになるための完璧な手はずを整えた。僕は誰かに眠っているところを見ていてもらう必要があって、それは鳴海でなければならなかった。彼には物心がつく前から愚かさも情けなさも握られているはずだった。僕は時々それが我慢ならなくなることもあったが、今回に関しては、それはかえって好機だ。僕たちは約束したのだった。夕方、和明は例のごとく部活があって、翌日も朝練で待ち合わせのない日だった。つまり彼に知られることなく遂行可能なタイミングだということだ。前日、僕と鳴海はメールを介して示し合わせ、なけなしのブランケットのようなものを持ち寄って登校した。
 終礼が終わると、僕たちは地下のプール室で落ち合う。
 太陽がすっかり西の空を通り過ぎて青暗くなった大気は、共犯を企てる僕たちをうまく隠匿した。
「成長痛じゃない?」と鳴海は言う。
 僕は夜に身体を襲うあの不快な感覚のことを鳴海に話した。一緒に寝てくれと言うからには、訳を説く必要があるからだ。
「成長痛?」
「背が伸びる時にさ、骨が先に伸びて無理やり筋肉を引っ張るから痛いんだよ」
 言われてみれば、それが正しいような気もした。
「お前もあった? 鳴海、背伸びるの、早かったよな」
 問えば彼は頷いた。「小学校高学年くらいからさ、結構夜に脚が痛かったりしたよ。そんな、飛び起きるほどでもないけどさ。だからいいことなんじゃない? それ」
 鳴海は僕を慰めようとしている。彼の澄ました顔からは読み取りにくいが、僕には彼が、見た目よりもずっと人を愛そうとしているように見える。
 成長痛、しかし、そんなありふれたものだろうか、と僕は鳴海の言葉を舌の上で吟味しながら、これまでの幾度かの寝苦しい夜を思い返す。そんなものよりももっと耐えがたく極限的な切迫感があったような気がするし、しかし寝ぼけて意識が混濁しているから、感覚が過剰に認識されているだけなのかもしれない。そのようなことは少なくない。鳴海の言葉が目眩しとして働いて僕を安堵させることはなかったが、穏やかな気分にはさせた。
 夜のプール室は初めてだったが、地下に埋められていて窓もないそこは、蛍光灯をつけてしまえば光度は昼間と何も変わらない。そのはずだったが、なぜか一層深く静まり返っているように感じられるのは、気のせいだろうか。僕たちは、天井近くの壁にかかっている殺風景な時計をにらみながら、夜が来るまでプール室で過ごした。毎日、校舎を閉める前に警備員が見回りをすることを知っている。万が一見回りに来た時に隠れられるように場所を探してはいたものの、まさか冬のこの時期の夜にプール室に生徒が出入りをしている可能性などつゆとも想定していないのだろう、時計はついに夜の十時を指し示し、おそらくそれは杞憂に終わったようだった。
 僕たちはプールサイドのベンチに座りながら、時折ふたことみこと交わし、睡魔が訪れるのを待ったが、眠るというには、まだ目が冴えていた。
 退屈そうな鳴海の手が隣に置かれている。僕はなんとなくそれに目を落とす。爪の生え際が伸びて真新しい組織が覗き、境目に赤い縁が弧を描いて残っている。
「塗り直してやんないとな」
「何?」と虚を突かれたように、鳴海。
 僕はリュックサックのポケットに手を入れた。しかし、あると思っていた場所にそれがなかったので、他の場所を探る。出し入れをした記憶もないのでしばらく粘っていたが、いよいよ見つからなかったので諦めた。
「失くした」
「落とした?」
「そんなはずないと思うんだけど」
「この学校でマニキュアなんか落ちてたら大騒ぎだぞ」
「どっかの誰かの彼女のだろってなるよ」
 僕はあるはずのものがなかったことに過剰に動揺している自分に、一抹の居心地の悪さを感じる。
「ごめん」想定よりも、意気消沈したような声が出た。
「もういいよ」
 地下だからなのか、あるいは電灯とともに空調が作動しているような音も聞こえるような気がするが、とにかく、室温は致命的な寒さではなかった。けれども多少は冷え込んでいる。僕たちはどちらともなく身を寄せた。
 膝にかけたブランケットの下で、鳴海が身じろぎをする。
 僕がそのままじっとしていると、手の甲に冷たいものが触れた。僕の手を探り当て、重ねられたそれは鳴海の手だ。
「冷てえ」
「しょうがないだろ、くっつけてたらマシになる」
「熱奪うだけじゃん」
「冷たい? 同じくらいだろ。お前も冷たいもん」
 どうであれ、僕はそれを拒絶する気はさらさらなかったのだ。彼の指が僕の手の甲で時々位置を変えたり痙攣したりするのを感じながら、薄い肌の間を熱が行き交うのをじっと味わっていた。
 僕は重なったつま先を見つめながら、僅かに鳴海の方に頭を寄せて、深く呼吸をしする。彼の頰の辺りから、親しい匂いが鼻腔に満ち、呼気とともにすり抜けて行く。僕はその時、この寒々しい部屋に似つかわない幸福に身を浸していた。否、事実、そんな薄暗い幸福だったのかもしれない。何年が経っても僕を責め立てるあの「秘密基地」の記憶さえ、こうして同じ高揚の中で肌を触れ合っていた、美しいだけの出来事だったように思い起こされる。
 なんだって構わない。こんな時間がいつまでも続けばいい。
 僕は、いま彼もまた同じ幸福に執着しているのかどうかについては、あまり考えないようにした。僕が一方的に劣情を抱いているだけで、彼が僕に対して大した執着を抱いてなどいないであろうことは分かっていた。しかし手を重ねてきたのは鳴海の方だ。それがこのぼんやりと平衡感覚がおぼつかなくなるような部屋の中で、僕を少しだけ混乱させた。
「和明は僕らを見張ってるよ」
と、不意に鳴海が言う。
 その言葉は、近頃僕の心臓を不穏に震わせてきた和明のあの深く掬い取ろうとするような視線を意味付けた。それだけではなく、数日前の朝の母親の視線を——否、本当はもっとずっと前からだった。ずっと前から母はあのように、僕が大切に肋骨の中に押し込めている僕の領域に、怯えながら、しかし不躾に、しかしやるかたなく、手を伸ばそうとしていた。僕はそれに気付いただけなのだ。
「何のために?」と僕は、先ほどの鳴海の告発に問う。
「僕らが近付かないように」
「どこに?」
「僕と智紀が。近付かないように」
 鳴海は空いた手の人差し指を自分に向け、それから僕に向ける。
 僕の手は不随意に、縋るように鳴海の手を握り込んだ。
 何のために? と、僕はもう一度胸の内で問うた。鳴海がどのような根拠に依って、どれほどの確信を持って、そう言っているのかは分からなかった。けれどもその提言は僕の潜在的な違和感を確かに喚起したのだったし、何よりも、彼の言葉はいつも僕の卑屈にとって強い力を持っていた。
 和明、あの友人が、この歪んだ世界に属するのだとしたら、あの静寂も影も伸縮する時間も全て彼の一部であり、彼もまたそれらの一部であるということだ。僕は果たしてそれほどに彼のことを知らなかったのだろうか?
 僕と鳴海が二人で手を取り合ってどこかへ至ることが、彼にとって、あるいは彼に属し彼の属する世界にとってどんな不都合があるのだろうか? もしかすると和明は僕の鳴海に対するこの惨めな執着のことを知っているのだろうか?
 あるいは、鳴海もまた、僕が彼自身に向けている視線に勘づいているのだろうか? 浸り来るような恐怖があった。プールの水面は震えているようにも見えた。
「あんまり二人になるなよ、あいつと」
と、鳴海が言う。それは警告に違いなかったが、あるいは甘美な響きにも聞こえた。僕はそんな身勝手さが、皮膚一つ隔てて伝導していかないように注意を払いながら、それを用心深く堪能した。
 それから少しして、眠ろう、と言ったのは彼の方だった。
 電気の場所は分かっていたが、消してしまうと外明かりもないので真っ暗である。それは心許なさすぎるということで、点灯したまま、僕たちは各々ブランケットを胸まで引き上げて横たわる。
 薄寒さは言い訳を作り、僕をいつもよりも大胆にさせた。僕は鳴海の肩に頭を寄せて、なんということもないかのように目を閉じる。僕が眠りに吸い込まれるまで、彼は動かず、じっと僕を受け入れていたように思う。