那岐浜駅のプラットフォームから臨む先には、灰色の海が広がっている。
あの海は、僕が知っている中でも、少なくとも二人の死体を抱いている。
一人は、僕の一家がこの街へ越してくるよりも、おろか僕が生まれた年よりもずっと前の出来事で、ほとんど伝承のようなものだと言っていいほどの、いわく付きの代物だった。引っ越してきてすぐに、何十年来の近所の住人が、教えてくれたのだ。毎年夏にやっていた街の催しで、沖に出たボートが転覆し、一人が行方不明になったというものだった。そのいわくというのが、出航前、確かに入念に人数を数えたはずが、確かにひとり、同乗者の親族が行方不明となっているにもかかわらず、帰ってきた人数の不足はなかったというものだ。誰かがいなくなった代わりに、誰かが増えていたというのである。もっともこんな昔の話は、どんな尾鰭がついたものかも分からない。おおかた、数え間違いでもあったのだろう。いずれにせよ、この街の住人の一人が海へ流れたまま帰らないでいるのは確かであり、以来、その催しは開催されなくなったのだという。
もう一人は、数年前の夏、荒天の白い真昼間に、電話線をつたって広がっていったざわめきだった。街の西側を通る河で、他校の生徒が二人流された。彼らは僕と同学年で、中学生だった。当時、そこは河川敷を覆い隠すほど水位が上がっており、翌日嵐が去った後、一人の身体は還されたが、数年前に台風で潰された浜で、若く逞しい救助隊員が彼を見つけたときには、すでにその身体は抜け殻だったという。なぜその隊員の特徴まで僕が知っているのかというと、およそ街の南半分の住人がそうであるように、僕も元から彼のことを見知っていたからである。およそ十年前、まだ越して来たばかりの幼い頃、快活な笑顔で僕のような子供の相手をしてくれた記憶のある彼が、その一件の後、いまだに休職し丘の上の実家に籠っていることは、密やかな周知の事実であった。僕が通夜でその友人の身体を見たのは、その隊員が彼を引き揚げた数日後のことだった。
もう一人は、いまだ身体さえ戻らない。見つかればすぐに話が広まるに違いないので、噂にも聞かないということは、そういうことだ。
一般に、海は大らかで豊かで美しいものなのかもしれないが、僕が海を見る時、それは人を呑み込んで返さない、冷徹で頑なな異界として目に映った。特にこんな冬の日の、重い空に押さえつけられているような灰色の海は、捕まったらきっと二度と帰っては来られない。上り電車を待つ間は、そんな恐ろしい地平線を、プラットフォームから見つめていなければならない。
入線のアナウンスが流れ、我に帰る。随分長いあいだ呆然としていたような気がしていたが、時折現れる旧型の、あまり見慣れない鈍色の車両が音を立てながらやってきて、ゆるやかに減速して停止した。ドアが開くと、数人が乗り込んでまばらな空席に腰を降ろしていく。僕も重い身体を引きずってゆっくりと踏み出し、入り口に足を掛けた。
「智紀」
と、背後から肩が叩かれる。そのまま僕を押し込むようにして一緒に乗り込んだ声の主の方を見れば、
鳴海。
物心つく前から見知ったはずの彼の顔が、妙に真新しく見えるのは、寒さに収縮した血管が透ける乾いた頬が、おろし立てのシャツのようだからだろう、と僕は思う。
ネックウォーマーの柔らかな膨らみに沈んでいた鼻先が、少し赤らんでいた。
ドアが閉まり、列車が動き出す。
鳴海はそのまま僕の肩に手を回し、ふんだんに空いた座席に腰を降ろす。僕も引きずられてその隣に座ることになる。
僕は昔、鳴海のことが嫌いだった。
ような、気がする。小さい頃のことはよく覚えていない。覚えていないくらい、とうの昔から彼とともにいたのだということだ。彼のことが嫌いだったといっても、彼に何かされたというわけではない。それは幼稚で身勝手な敬遠に過ぎなかったはずだ。
彼は全てを持っていて、僕は不器用だった。彼は愛されていた。その時分の、彼に対する生々しい劣等感は、その具体的な内容は記憶の彼方にすっかり融解したまま、僕の中に凝りついているような感覚だ。僕はあのころ自分が鳴海に対してどんな気持ちを抱いていたのかを彼に告白してはいなかった。それは屈辱だったからだ。これからも言うことはないだろう。依然として彼は、僕よりもよほど要領が良いし、十分な承認を得ていて、だから今もなお僕は彼のことを羨ましく眩しく思っているけれど、憎んではいない。僕はそれくらいには、大人になったはずだった。おそらくは。
「小さい頃さ」
と、隣の鳴海が口を開いた。ちょうどそんな時分のことを回想していたところだったので、僕はどきりとした。見られてはいけない箱の中を覗かれたような、苦々しい気分が湧き起こった。しかし鳴海は、そんな僕の動揺をつゆ知らずといった様子で続ける。「小学校に入る前くらいだったと思うけど、珍しい虫のおもちゃをお前にあげたのね。その時、智紀ってなんでも口に入れる癖があったの。ミニカーとかコマとか、なんでも食ってたわけ。何でもかんでも、お前のよだれでベトベトだったわけ。で、お前、僕があげたそれも食いやがったのね。それで多分むかついて、お前の口に手を突っ込んで、お前が泣いて俺の手を噛んだんだけど」
「そうだっけ」と僕は言った。事実、僕はそのことを全く覚えていなかった。遠い昔のことだ。
僕は、そんな今よりもずっと愚かで分別がなかったころの自分を、彼が知っているということを恥じている。
「なんで急にそんなこと?」
「夢で見た気がするんだよね」
「今朝?」
鳴海は頷いた。
「じゃあそれ、ただの夢じゃん」
「いや、あったよ。実際にあったこと、夢でまた見ること、あるだろ?」
それが本当に、実際にあったことなのか、ただの鳴海の脳が構築した虚構なのか、それを確かめる術は僕にはない。けれども、幼い頃の僕にそんなばかばかしい癖があって、それを鳴海が覚えていると言うことは、おそらく事実だ。僕は思わず顔をしかめた。
一駅先に停車すると、一番近くのドアの向こうに見知った顔が見える。
ドアが開くとともに入ってきたのは同学年の和明だった。一年の時に同じクラスになってから、翌年クラスが別れた今も、毎日のように一緒に登下校している。元々学校には、僕たちのような「下り」方面から通っている生徒はさほど多くなかった。そうした中で途中まで一緒に帰ることが多くなる数少ない同級生となれば、自然と親しくなるというわけだ。彼の最寄駅は急行が止まらないので、合流しないこともあるが、毎朝僕たちは示し合わせて、この鈍行に乗るのである。
「おはよう」と、和明に向けて鳴海は言った。
僕もその後に続き、和明も挨拶を返して空いていた僕の隣に座る。
「今日寒くね?」と、和明。
「毎日じゃん」と、僕。
「なんか、特に」
「今年やばいらしいよ」と鳴海が付け加えた。「なんか、農作物とか? ダメになっちゃうんじゃない? 知らんけど」
「冬に寒い分にはいいんじゃないの。逆に暖冬がまずい」
「本当? 寒すぎてもだめだろ」
鳴海と和明の、くだらない応酬を、僕はぼうっと聞いている。三人以上で話をしている時、割り込むのが少し苦手だ。僕はきっと頭の回転が鈍いんだろう。でもこの二人とならば、他の人たちといる時にそうであるように、そうして黙っていても、居心地が悪いことはない。彼らも僕を気にすることなく、好き好きに話し続ける。
冬は、いつの間にか訪れている。本当は毎年僕はそれを知るはずだが、うだる夏を挟むと脳が鈍り、全てを忘れてしまう。早く冬が来ればいいのに、と願ってしまう。しかしそれは知らぬ間に訪れ、気が付けば想像よりもずっと深くなっている。冬は海がくすんでいる。それも少しは気が穏やかな理由だったと思う。けれども気づけば、それは向こうから僕を静かに見つめている。
その次の駅が学校のある駅だった。僕たちは暖かい椅子から立ち上がってドアの横のボタンを押し、ため息をつくように開いたドアの間を通って、冷たい外気のもとへと躍り出る。
