和明はいつも〈彼〉を見ている。
和明という男は、生来、少し内心が読みづらい。口調はたいていの場合平坦で表情の変化に乏しく、けれどもネガティブではない、あくまで、恐ろしいほどにニュートラルなのが彼の性向だ。
けれども和明が彼を見つめる時、時折苦い顔をする。何かままならない力が邪魔をして身動きが取れないというような、そんな鬱屈だ。それはその頬の硬い筋肉を通じても僕には見て取れた。彼という人間は、それを打開するには臆病で、しかしその機を虎視眈々と睨んでいるように見えるくらいには強かにも見える。
今だってそうである。
ふと、左手が疼き、覚えず声が漏れる。僕は咄嗟に自分の手のひらを見た。——
「どうした?」
と和明の声がした。僕はその視線の先に目をやった。鳴海が膝の上で拳を握り、和明を見つめ返していた。
二人の磁場がとぐろを巻いて引き合い、張り詰めている。僕は落ち着かない気持ちになる。
「手、見せろよ」
和明がいつもの淡々とした語り口でそう言うと、鳴海は、唇を不快そうに引き結び、なぜだかいやにゆっくりと、手のひらを僕たちの目の前に差し出して見せた。
僕は息を呑む。白いその皮膚の上を横断する赤黒い痕に、湧き上がった既視感が意識に上る前に僕は反射的に自分の手のひらに目を落とす。
「お前は?」僕は思わず和明の左手を引いて仰向けたが、まっさらである。僕はもう一度鳴海の手と自分の手を並べて見比べる。その痕は同じ形をしているように見える。
「偶然だろ?」
と、鳴海が言う。
「なんで隠した?」と和明が問うと、
「だって気味悪いじゃん」
全く、その通りだ。鳴海の顔を盗み見ると、鳴海は苦虫を噛んだような顔をして、いつの間にか両手をズボンのポケットに隠してしまっていた。彼が目を上げて視線がぶつかった。僕はなぜだか目を逸らしてしまった。
「あの時、水族館で?」と和明。
「多分そう」
「気づかなかったの?」
「家に帰ってから気づいた。風呂に入る時」
「結構、傷いってるけど。そんなに気づかないもんか」
「そうなんだから、しょうがないだろ。袖に血がついてたよ」
和明がもう一度彼の腕を掴んでそれを確認しようとすると、
「これじゃないよ。洗ってる」
と、鳴海は拒絶するように左手を今度は背に隠した。彼は空いた方の手を口元に持って行き、爪を咥える。苛立っているのだ。
「それは何?」
と、今度は和明が鳴海の爪を指差した。僕が塗ったマニキュアの色が、少しだけ残っていて、僕はどきりとした。
鳴海は噛もうとした爪を見つめた後、「智紀が塗ってくれたやつ」と、なぜか少し誇らしげな様子で、顔の前にその指をちらつかせる。
和明は、一瞬硬直し、少し険しい顔を僕に向けてくる。
「お前が? なんで」
僕はなぜだか冷や汗をかきながら、「こいつ爪噛むだろ。噛まないようにって」
「これで?」
「こうやって顔の前に持ってきたときに」と、僕は手振りを交えながら説明する。「気づきやすいでしょ。色がついてると。あんまり意味なかったみたいだけど」話し始めてしまえば、もうあまり動揺してはいなかった。僕は友人を案じて、親切を働いたのだ。さしておかしなことではないはずだ。
僕は、鳴海の手を取ってその爪を染めたときに、僕がどんな気持ちだったかが露呈してしまうことを恐れていた。和明に対しても、そして鳴海に対しても。
「意味ないことないよ」と鳴海が言う。
和明が神経質になっているのが、僕には見てとれた。それは僕に対してなのか鳴海に対してなのか分からない。鳴海が僕を励ましているようなことも、彼の気に入らないように見えた。それに、水族館で鳴海が言ったことが、あれ以来僕の中で、何かとつけて浮上する。和明、彼はあまりに問いすぎている。ような、気がする。
しかし問題は、鳴海の傷のことだ。
彼が僕と同じように怪我を負っていたことに気づかなかった。彼自身も知らなかったと言うことだ。彼は僕と一緒に「しおさい館」のガラス扉を叩き割ったのだし、神経が昂っていれば、あれほどの負傷にも出血にも気がつかないということは、確かに、ありえないことではないだろう。けれども偶然にしても奇妙なのは、僕と同じ場所に、全く似たような傷が作られていたということだった。
僕は夕べの電話のことを思い返す。あの時、彼と僕は同じ異変の中にいたのだろうか? 電話越しだったので分からない。かぶさる影。窓外に延々と続く田園。動かない時計。
