翌朝、ダイニングに降りるとキッチンに母親の後ろ姿があって、僕は息をついた。目覚めると時計は七時を示していた。昨日見たものは何だったのだろうか? もしかすると、夢だったかもしれない。と、僕は思った。しかし携帯電話の発信記録を見ると、深夜二時十五分の電話は現実のものだったようだ。
昨日の夜は、あのまま帰宅するといつの間にか日は落ちていた。きっとあの浜辺を歩いている間に随分時間が経ってしまったのだ。居間には誰もおらず、いつもの白い料理がラップを書けられてテーブルに並んでいた。天井を睨んで見ても上の階の音は聞こえなかった。両親の部屋を覗いてみることもしなかった。覗いてみて、もしベッドが空だったら恐ろしかったからだ。兄もいなかった。ふとカレンダーを見ると、兄の名前の隣に、バツ印が書いてあった。これは不在の時の印だったが、なぜ彼が今夜家にいないのかは分からなかった。元からそういう予定だっただろうか、と僕は記憶の底を引っ掻き回しながらぼんやりと思ったが、それは大した問題ではない。そう思うことにして皿をあけた。
そのため今朝、当然のように彼女がそこにいた時、僕は拍子抜けした。振り返った顔を見てみても、何も変わらないようにも見える。しかし、何かが違うようにも見える。
母が食卓に朝食を並べた。僕もその顔色を見ながら、食器棚から二人分の箸とコップを引っ張り出して並べた。珍しくテレビがついている。
「今日兄ちゃんいないの」
「うん」
「なんで?」
「なんでだろう?」と言ったきり、母の言葉は続かなかった。
部屋は少し寒いように感じた。
今日の食事は耳のないパンとバターとミルク、そしてクリーム色の少し固いブロッコリー、これは何か名前がついていた気がするけれど忘れてしまった。僕はいつものようにそれを黙って口に運んだ。母も向かい合って同じようにした。
「この間のご遺体、今調べてるところらしいよ」
僕は口の中のものを噛み続けていることをいいことに、返事をしなかった。
「まだ分からないんだって」
僕が黙っているとそのうち母はその話題から関心を失ったようで、テレビの方に目をやった。空元気なナレーションや呑気な笑い声が聞こえるが、音量は小さく、聴こうとしているというよりは、ただ音を立てて広い部屋を埋めているというだけのようだった。
「この人、男なの」
画面を見たまま気だるげに発せられた母の言葉に、なぜか心臓が揺れる。
僕は思わずテレビを見る。画面に映っているタレントの名前は知らなかったが、何度か見たことはある。ような、気がする。
「知ってた?」
「さあ」
「なんでこんな格好してるんだろうね。男の人が好きなの?」
「さあ」
「こういう人、何だろうね。たまにいるよね」
「そうかな」
「智紀は違うよね?」
僕は母の方を見て、その瞳に身体が硬直する。その奥に深い渦が轟いでいる。まるでその中にすでに答えがあって、僕の自白を待つかのように。頭部の表面の髪が、細い蛇のように浮遊し、その一つ一つが、怯えながら、探るように僕を見ている。僕を試している。
「違うよね?」
幼い日の夏の閃光の中で僕を見下ろしていたあの双眸を僕は思い出した。僕は今が、いつものあの夢の変奏であるのではないかと、そうであることを願いながら、疑った。しかし、疑うほどに意識は明瞭になり、これが夢ではないという事実を僕に突きつけた。
やっとのことで視線を剥がし、名前の分からない野菜に薄い白い液体を浸して口に運ぶ。咀嚼を続けながら、箸を持つ手がわずかに震えていることに気がついた。しかし、僕は自分が何を恐れているのか分からなかった。白い食べ物が、いつも通り白い味がするだけだ。
