波の音がする。
 僕たちは放り出され、砕けたガラスの上に転がっていた。おそるおそる立ち上がって音の方を見ると息を呑んだ。眼前に広がっていたのは、雪原と海だった。
 否、よく見れば、雪に見えたそれは、象牙色の花の群れだった。浦見崎の海岸の水仙だ。その風景はゆっくりと僕の熱を奪っていって、僕はしばらく、かろうじてそこに立っていた。
 つまり僕たちは北方の丘に向かって、海を背に進んでここまで来たはずだったのだ。しかし建物を一周して外に出た時、僕たちを出迎えたのは、あるはずのない海岸線だった。まるで建物の中に閉じ込められていた海が、こらえきれず溢れ出したかのように。
「海だ」
と、和明は言った。その声色は、諦念のようでありながら、あるいは初めて海を見たかのような、恍惚とした感嘆にさえ聞こえる声だった。僕はダウンジャケットのポケットに押し込んでいたリーフレットの地図を引き出して広げた。目が霞んでいくような気がしたので、強く瞑ってもう一度開く。「しおさい館」の文字を指先でなぞる。それは間違いなく海岸から離れた内陸にある。
 実際、僕たちは、ただ目の前の信じがたい事実を噛んで含んでみるしかなかった。「鳴海」と僕は思わず声を漏らす。せめてその情けない喉の震えが悟られていなければいいと祈りながら。
「うん」と、彼は虚に答える。
 彼も同じように、たった今知ったはずだ。自分たちはまだ、それの腹の中にいるということを。
 灰色の海は静かに揺れている。象牙色の海は静かに揺れている。
「結局ここに来るんだってことだ」と鳴海が言った。「しおさい館なんて関係ない。どこに行ってもここに来るのが決まってた」
「そうとは限らない」と和明。
 鳴海は不満げな顔をした。「じゃあ何なのこれ? 現にこうなってるじゃん、意味わかんないよ」
「しおさい館に来たからこそ、ここに来られたのかもしれないでしょ」
 和明は、冷静だった。僕は、鳴海の指先の剥げかけた真紅色を、艶めいた歯列が蝕んでいくのをぼんやりと見つめた。また塗り直してやらなければならない。
「おい、それどうした」
 僕の手首を掴んで持ち上げたのも和明だった。
 僕は促されるままに自分の手のひらを見る。まず、その目の覚めるような真紅色、すなわち鮮血があって、次に痛みがあった。
「うわ!」
 僕は思わず手首を掴む。それが何の助けになるのかは分からない。少しでも血流が止まると思ったのかもしれないし、触覚を分散させるためかもしれない。滴るほどではなかったが、ほとんど溢れそうなほど、直接患部を抑えるには血が滲みすぎていた。握っていた地図の端が、知らぬまに錆色に汚れていた。
 その薄い皮膚の憐れな断面と、赤黒い潤みを呆然と見つめていると、
「痛い?」
と、鳴海が手のひらを重ねてくる。まるで傷に注がれる視線を遮るように。事実、僕が顔を上げて彼の目を見た時には、それまで感じていた痛みが事実以上のものであったことが分かった。結局、痛覚の大半は視覚と恐怖が担っているのだろう。翳された彼の手のひらに吸い取られるように、僕の意識はぼんやりと、傷から遠ざかっていった。それは応急処置として実に効果的だった。
「それほど」僕は答え、揉み消すように右手を握る。
「バンソーコーないの、和明」と、鳴海が言った。
「ないよ、そんなもん」彼は苦い顔で答え、「悪いな。とにかく早く戻ろう」
 和明の、もの言いたげな顔に少し悪寒が走る。探るような目をしている。ように、見える。
 浜の方へ降りる階段があって、僕たちは誰からともなく、そこを降りて行った。——
 波打際に近づくに連れ、海風は冷たく強くなって、無防備な首筋を不快に撫でていった。前の足跡を辿っているうちに、砂を踏む白いスニーカーが湿気を帯びてくる。
 視野の端に、古びた真紅色がちらついている。
 隣の少年の俯いた横顔は悄然としていて、雲垂れる重い空に侵食されている。まるでこの、しんしんと這いずる海のようだ。皮肉にも、それは彼によく似合っていた。湿った冷たい微風に、髪の毛束が震えている。——
「おい、智紀」
 呼ばれて、振り返った。和明が何かを僕に問いかけたようだったが、あいにく僕はそれを聞き逃したようだった。
「何? ごめん」
「ボケっとすんなよ」と彼は手を伸ばし僕の肩を強く叩いた。「手は大丈夫かって聞いてんの」
 僕は手のひらを見る。それから、先ほどそこに傷を負ったことを思い出す。すでに血漿がうっすらと凝固している
「うん」と僕は答える。実を言うとまだ少し、脈動に合わせて、患部が疼いていた。
「あのドア、壊したままほっといてよかったのかな」
 しかし長いこと気にかけられるのも心地が悪かったので、わざと話を逸らすようにそう言うと、どうやら二人はそれを汲み取ってくれたようだった。
「捕まるかもね」と鳴海が、せせら笑いながら言う。
「バレるか?」
「カメラに映ってるでしょ」
 僕はあの入り口の目のことを思い出す。
「三人で捕まれば、どうってことない」和明が言う。
「この後どうする」
 鳴海が問いかける。
 僕たちはなぜ、わざわざ砂浜の方まで降りてきたのか、少なくとも僕に関しては、それが本物の海なのか、確かめたかった。近づいてみれば、それはまるで僕たちが来るよりも前からずっとあったかのように悠然とそこに横たわっているのだ。僕たちは不思議なことに、間違いなく、波打ち際を歩いていた。
「とにかく、駅に向かおう」と僕は、絞り出す。「しおさい館には戻らない」
「戻れないよ」と身体を反転させ器用に後ろ歩きをしながら、鳴海が言った。彼の視線の先をたどる。
 彼は正しかった。先ほど降りてきた階段がなくなっていたからだ。
 正確に言えば、降りてくる時、僕は足元だけを見ていたので、いったいどこからどうやって砂浜へ出てきたのか、あまり覚えていなかった。しかし少なくとも、僕たちの後ろに、岩壁の上へ通じる入り口はもう開かれていないように見えた。
 一方で僕たちは、こうしたバグに対してすでに適応し始めていたようだ。僕たちは行くべき場所に導かれていく。そうでない場所には、自ずと道は閉ざされているのだ。だから、その作為に従えばいい。誰の、何のための作為なのかは、分からない。前を向き直り、浦見崎の駅へ上がる道を探して歩いた。
 つまり、僕たちは別のやり方を探すほかなかった。そもそもなぜそれが、つまり地図上から演繹的に目的地を探し出し、そこへ行って何かを見つけることが正解だと思ったのか、今思えば分からない。ただ、異変が最も色濃い場所へ行けばきっと根源たる何かがあり、それを断ち切れば、全てが終わると思ったのだ。思えば、首尾よく行きすぎた。
 では、どうすれば良いのか?
 どうすれば、こうして刻々と正気を蝕んでいくいびつな世界から抜け出せるのか?
 そもそも、何か手立てが存在するのか? 何かを発見すれば、終わらせることができるのか?
 しばらく沿岸を歩いていると僕たちは見知った風景を見つけて、あつらえられたような階段を上がると、学校からタコ公園へ向かうときに通る海辺の道だった。矛盾の世界の中にいることには違いないが、少なくとも馴染みのある場所には戻ってこられてしまったというわけだ。しおさい館を出た時のように張り詰めた雰囲気のない、いつもと同じ寂しげな水仙の点在とその向こうの海を顧みながら、僕は少し安堵した。
 僕たちは確かに「しおさい館」を出たはずだったが、そこから海岸を経て浦見崎駅までの道順は、全く浦見崎の海辺からのそれだった。休日にもかかわらず人気のひとつもない道を駅に向かいながら、僕は不意に自分の唇からこぼれ落ちた言葉を、他者のそれのように、遠くで聞いていた。
「ずっと出られないのかな、ずっと、なんというかこの、苦しくて変な場所で、死ぬのを待つしか?」
「そんなはずないよ」と和明は言った。「俺ら、もっと自由なとこに行けるよ」
 僕たちは心なしか身を寄せ合いながら進んでいて、互いの上着が擦れる振動が腕に響いた。どこまでも続くような白い空はしんと静まり返っている。