「しおさい館」は北口から徒歩で三十分ほど歩いた丘の上にあった。思い返せば、子供には少々長いこの道のりを、教師に引率されながら、列を成して歩いたことがあるような気もする。
 手動のガラス扉を抜けてロビーへ入ると、ここも先ほどの観光案内所と同じく受付は無人で、カウンターだけが気だるげに佇んでいる。
 脇にある券売機には一般券、学生券、そしてこども券の三種類のボタンがあり、千円札を二枚投入して、「学生券」のボタンを三回押した。立て続けに紙が三枚排出されて、「おつり」のレバーを引くと、硬貨が戻ってくる。
 視線を感じて僕は上方を見上げる。防犯カメラと目が合う。その単眼が、何かを語りかけているような気がする。けれども、彼ができることは見つめることだけだ。
 券を二人に配布し、おのおの入場口のゲートに二次元コードをかざして通過する。僕は振り返って入ってきたガラス扉の方を見た。扉の反射で外は鮮明には見えなかった。僕は、じっと扉の方を見ていたはずの防犯カメラが、同じように振り返って僕たちの方を見ていることに気づいた。再び目が合った途端、全身が冷たくなり、急いで前に向き直って隣にいた和明に身を寄せる。
「何」と少しびっくりして、和明が言う。
「いや」
 来てはいけなかった。ような、気がする。僕は、僕たちはこの建物に入ってしまった時点ですでに、何か愚かなことをしでかしたような気分がしていた。
 狭い方形のトンネルが、僕たちを深い青色へと飲み込んでいき、突き当たりを曲がると開けた空間に、鮮やかな色の小魚たちが狭い水槽をきらきらと行き交っている。
 僕はその中のどれかの目を通じて誰かが僕を見ているように感じる。どれだかは分からない。けれども確実に、誰かが僕を見ている。その堪え難い圧力は僕を青色の酩酊に引き摺り込もうとした。足の感覚が遠退き、歩いているのにもかかわらず、身体が浮いているようだった。
「智紀」
と、呼ぶ声があって、浮かんでいた僕の身体は暗い水底に引き戻される。
 奥の部屋に、円筒の水槽がある。その前に、鳴海が立っていた。
「智紀、見て」
 呼ばれるまま僕は鳴海の隣に行った。彼が指先で叩く先に、しなだれた大きな軟体動物の身体がうち広がっていた。
「蛸だよ」と鳴海は言った。
 それはこぼれた吐瀉物のようにも見えて、僕は顔をしかめる。手足に敷き詰められた細かな吸盤の、一つ一つが息づいて脈動し、網膜に迫ってくる。——
 隣の少年は、蛸の水槽をじっと見つめている。
 僕はその横顔に目を凝らした。彼の輪郭は青く緩んでいた。
 軟体動物は、少しずつにじり寄り、やがてガラスにまとわりついた。そのまましばらく苦しげに蠢いていたかと思うと、その身体がまるでガラスを透過するかのように、水槽の表面に滲出し始めたのだ。
 僕は溜まっていた甘い唾を嚥下する。
 彼は水槽を見つめたまま動かない。目の前の水槽の異変に気づいていないかのような様子だ。ぬめった腕が伸ばされて、その一本一本が次々と、緩やかに彼の胸にしがみついていく。水が浸していくようにじっくりと、細くよじれたそれらが首に這い上がる。粘液をまとい、青い光源にきらめきながら、冷えた肌を犯していく。首筋を伝って顎を包み込む。頰を掴んで歪ませる。やがてそれの本体も彼の身体に完全に乗り移る。赤黒く、興奮したように、彼の唇をなぞり、やがて緩やかに噛み付いた。
 少年の茫然と柔らかい顔面は、なめらかな生き物に、うっとりと飲み込まれる。——
「智紀」
 名を呼ばれて、ハッとする。先ほどと同じだ。どうも意識が浮遊していけない。目の前の水槽の中を蛸がゆっくりと横切った。ずっと眺めていたようだ。なぜだか少し、肺がしおれて息苦しいような気がした。
 僕は鳴海の顔を見た。水に照らされて鈍く輝きながら、心配そうにこちらを見ていた。僕たちはしばらくぼんやりと見つめあった。
 妙に押し殺した声で、鳴海が口火を切ったのだった。
「誰かに見られてる気がしない?」と鳴海は言った。
 僕は思わず目を見開いた。先ほど目が合った、振り返る防犯カメラを思い出す。何かの視線を感じていた。それが自分だけではなかったことに、安堵は大仰に僕を襲い、少し息が楽になったような気さえした。
 しかしそれはつかの間だった。次に彼の発した言葉は、僕を余計に混乱させるものだったからだ。
「お前さ、和明のことどう思う」
「どうって?」僕はうろたえ、問い返す。
「分からない?」
「だから、何がだよ」
 僕がそう返すと、鳴海はため息をつく。苛立っている。苛立たせたのは僕なので、彼が右手を口元に運んで爪を囓るのを、僕は憔悴した心地で黙って見ている。
「あいつは僕たちを監視してるのかな」
「監視? なんで」
「ここに来る前から誰かに見られるとは思ってたけど、よく考えたら和明は僕らとずっと一緒にいるじゃんか。いや、むしろ肝心なのはいない時だよね。あいつ、僕らが見た変なものも見てないし、あの夕方の道にもハマってない。一緒にいたときだって、話を合わせるために見たふりをしたのかもしれない」
 僕は動揺した。しかしその動揺が何に由来しているのかは判別がつかなかった。少なくとも僕はあまりにこのことに対して感情がありすぎたのだ。まず、僕は不和に慣れていなかった。僕は自分たち三人のことを親友だと思っていたし、いま、彼らは二人とも僕にとって、同じ脅威の元で手を握ることができるたった二人の友人だった。けれども鳴海の言葉をなぞってみれば、確かに、最初の浦見崎の駅には和明もいた。しかしその後の商店街の影も、彼は見ていない。そして鳴海の言うように、あの田園の無限に続く畦道を、僕と鳴海は二人きりで歩いたのだった。
「あいつ明らかに異物だよ」
 鳴海の声に、腹の底が冷えて、身体を静かに震わせるようだった。
 再び訪れた妙な沈黙を破ったのは、先を見て戻ってきた和明だった。
「向こう見てきたの?」と鳴海が問いかける。ひやりとしながら彼の方を見たが、恐ろしいほどにポーカーフェイスだ。
「普通の水族館だよ」和明が答えた。「でも従業員も誰もいない。やっぱりここも変だ」
 もともと、客の多いような場所ではなかった。けれどもここまで閑散としていることはないだろう。まして、従業員の一人もいないとなると奇妙な話である。
 僕は先ほどの鳴海の言葉を思い返しながら、戻ってきた男を見た。毒が投げ込まれた井戸の水は元に戻らない。彼のいつも生真面目に思いつめたような表情が、僕の知らないなんらかの謀略や使命を持っていたとしてもおかしくはない。
 しかし、それよりも僕はしばらく感じていたことがあった。なんとなく、酸素が薄いようなそんな感覚があるのだ。
「なんか、苦しくないか」
 和明がそう言った時、違和感は確信となった。確信となれば、ごまかしが聞かなくなる。その息苦しさが何に起因するのかは分からない。水の重さが纏わり付くような、あるいは、充満する美しい青い光線が、呼吸中枢を弛緩させているのかもしれない。
 僕たちは顔を見合わせた。その絡み合う視線は、どうしてもすでに蝕まれていた。どれもこれも鳴海のせいだ。互いの肌の上で揺らぐ深い光は、鳴海と和明、そしておそらく僕の顔の上にも虚ろな影を落とし、瞳の奥を隠している。
「戻ろう」と言ったのは和明だった。
 鳴海が彼に向けている視線は、影に削ぎ落とされ、それがどんなものなのか僕には見えない。ただ鳴海もその和明の言葉に応じて、大人しく踵を返したのは事実だ。
 僕たちは入口のあるロビーへ向かって、もと来た経路を戻った。水槽の中を、黙視できない、大きなものがゆっくりと遊泳する気配がする。僕はそれを見ないふりをする。気配は、左から、頭上を横切り、右へ流れる。その身体よりもはるかに大きな潮流が空間を揺らがせる。
 水槽の分厚いガラスを隔てているはずだ。しかし、歩みを速めようとしても足が水をかくように重い。淀んだ、苦い水の中。僕たちはもはや走っていた。懸命に走ろうとした。何かが追ってくるような気がしたが、何かを見たわけではなかった。見ないようにしていたからだ。しかしそれはただ、僕を背後から追い立てる恐怖が立てた足音だったのかもしれない。
 やっとの思いで、僕たちは入口のガラス扉にたどり着いた。僕が真っ先に取っ手に手をかけたが、固く閉ざされて開かない。
 押しても引いても扉は動かなかった。他の出口を探そうと振り返った。けれども、先ほどまでいたはずの通路は暗くなっていて、目を凝らしても奥は判然としなかった。ほんの少しずつ、その暗闇が迫っているような気もした。少なくとも戻ってはいけないのは確かだ、と僕はもう一度扉に縋りつこうとした。
「貸せ」と和明が割り込んでくる。
 僕は退いて、彼の手が取っ手を掴みその重みに筋ばむのを見つめる。徐々に息苦しさは増す。喘ぐごとに、肺に何か高密度の質量が溜まっていくのだ。僕も彼と一緒に取っ手を掴んで体重をかけ、鳴海も続いた。
「出るぞ、ここから」
 僕は和明が言ったその言葉が、その張り詰めた横顔が、僕たちを救うのか、あるいはさらなる深淵に引き込もうとしているのかは分からない。けれども、ここから出なくてはいけないと思っていたのは僕も同じだった。触媒が誰の言葉であったとしても問題ではない。意思は元から、僕自身の中にあった。
 僕は扉から身体を離し、脚を振り上げる。勢いをつけた僕のそのスニーカーの裏が音を立ててガラス扉を揺らすと、一生懸命に取っ手を握っていた二人が驚いて動きを止める。
 鳴海が続く。無我夢中で僕たちは扉を蹴り、しまいには身体ごと殴りつけた。僕は必死になって、全身の筋骨を振り絞り、それはなぜだか爽快でさえあった。
 身体が痛むほどに、視界に亀裂が広がって歪んでいく。そしてやがて、自重の不意な解放とともに、きらめく粉砕音が響く。