翌日再び、忘れ去られたプール室に集合してしなびた白地図を広げながら、僕と鳴海は和明に昨日の無限畦道の顛末を説いた。高架橋の聳える田園地帯と、トンネルを抜けて出た交差点の付近に、新たに印を書き込む。精刻な場所は分からないが、前回に引いたこの赤い線分の上に位置するかと問われれば、そうだと言うこともできる。僕の自宅から南東に少し下った場所に、その二つのバツ印が追加された。
「やっぱり、この線に沿って何かがあるってことかな」と和明が言う。「那岐浜の智紀の家と、学校の間。ここには何かある?」
 那岐浜町と浦見崎町の間に挟まれている町のことを、僕はほとんど知らなかった。せいぜい、昔祖母の家に行くときに車で国道を横切ったことがあるだけだ。無論、その赤い線の下に何がありうるのかなど、見当もつかない。僕にはまるで無関係の場所のように思えた。僕は自分がその隣町のことをほどんど知らないのだということを、思い出した。
「とりあえず行ってみよう」と鳴海が言う。
「どこに?」と僕。
「この辺り」指が赤い直線をなぞる。
「行って何がある?」
「行ってみないと分からない」
 僕と和明は、結果的に、顔を見合わせた。
「要するに、行ってみたら分かるかもしれないってことだ」と、念を押すように、鳴海は言った。
 全く彼の言う通りだ。
 二十五メートル六レーンのプールの水槽は、まるで何年も水を入れていないかのように乾き切っていた。がらんとしているのに妙に窮屈な室内は、弱々しい蛍光灯の光でかえって薄暗く虚構的に照らし出されている。数日前になみなみとプールを満たして揺れていた塩素の匂い立つ水はどこへ行ってしまったのか? 四隅で部屋の四隅で溜まった埃のように震えるもやが見える。それはしたたかに息を殺しながらこちらをじっと窺っている。ような、気がする。
 かくして次の週末、三人でこの大いなる直線を追ってみようということになった。無論、そこには長大な直線トラックのように道が引かれているわけではない。詳細な地図と照らし合わせてみなければ、周辺にどんな道が蔓延っているのかも分からないのだ。だから約束は、三人とも、十分に右往左往する時間のある日だった。
 こがらしの土曜日、浦見崎駅北口前に集合した僕たちは、近くの観光案内所に向かった。浦見崎町は、曲がりなりにも近隣一帯の中心地で、なけなしの観光産業を推進している節があった。僕たちは、あてはないものの、そこで何か場所に関する手がかりを得ようとした。
 観光案内所の入り口には「オープン」の札がかかり、扉は開いたものの、カウンターは無人で、ただ小さな雑然とした空間だけがそこにあった。壁一面に一生懸命に敷き詰められたポスターの上に目を滑らせていく。海岸沿いに広がる水仙畑が、最も美しい瞬間に納められた姿を映している。この水仙畑こそこの町の象徴であり、祈りだったということを、僕は昔から知っている。
 そこからポスターの一つ一つに目を移していく。確かに文字が書いてあるが、気が上ずっているせいか、それらはただの記号として網膜を通過するに留まり、僕は本当にそれを読んではいなかった。しかし、それが僕のせいではなく、紛れもない文字禍であるということ——すなわち、書いてあるはずのない文字列が、そこを埋め尽くしていることにようやく思い当たったという時、
〈夢次元から来た人に注意せよ〉
不意にその文字列にぶつかり、僕は危うく声をあげるところだった。どこかで聞いたような気がしたが、唯一確かなことは、その文言がことわりを超越してまで、僕たちに何かを警告していて、おそらく僕たちは、あるいは僕は、その警告になんらかの方法で従わなければならないということだ。
 夢次元から来た人。
 僕は幾度となく出逢った影の視線を思い起こした。
 商店街。学校。プール。姿形の追えない何者かの眼差しを、僕は常に感受していたのではないか。
 部屋の中にいる残りの二人を見る。
 和明は多種多様のリーフレットやチラシの棚を漁っている。
 鳴海の背中は、先ほどの僕と同じように、壁を食い入るように見つめたまま動かない。
 この部屋にいるのは僕たち三人だけだろうか。と、僕が思ったのは、部屋の中の空気が震え、何かが渦巻き始めたような気がしたからだ。
「鳴海」
 呼ぶと、振り向いた。彼が返事をするとほぼ同時に、
「行こう」と和明が言った。彼の手にはリーフレットが何部か掴まれていた。結局、僕は鳴海の名前の続きを言いそびれたし、そもそも何を言おうとしていたのかも分からなかった。
 後ろで扉が閉まり、僕は少し安堵する。外は静かで、冷たい風が小さく、しかし硬く通り過ぎていた。
 和明が持ち出していたのは、浦見崎郡の観光地図だった。折りたたみ式のリーフレットで、展開すると、表面は一面に郡一体の地図、裏面に主要な観光スポットの紹介が記載されている。もちろん、海岸の水仙畑に紙幅が割かれているが、他にも何やら密教の洞窟寺院や、旬の時期には客を入れている果樹園など、何もないところだとみくびっていたが、案外見所があるようだった。僕たちは案内所の外の壁にその新しい地図の一つを広げ、持参した例の白地図を隣に掲げながら、赤のサインペンでバツ印と直線を転記する。現在地の浦見崎駅北口にも印を加える。たったいま増えたからだ。
 印を繋いだ直線の空白部分が、何か顕著なものぶつからないかどうかを探すための作業だったが、それは事実、少なからず功を奏したようだった。
 目に入ったのは水族館だった。僕は、小学生の頃にここへ遠足で連れていかれたのを思い出した。記憶が正しければ、ワンフロアの小さな施設で、周辺の淡水と海水の生物を展示した、地域学習の色の強いものだったように記憶している。
 すると、「僕ここ行ったことあるよ」と鳴海が言う。「そうだよな? 智紀」
 黒い瞳。こんなことが、前にもあった。ような、気がする。鳴海はしばしば、僕が何かを考えている時、同じことを考えている。それは読心のように、毎度僕を慄かせるのだ。しかし今は、ただ彼は那岐浜小学校の、同じ思い出を想起しただけだ。何もおかしなことはない。
 僕と鳴海は、多くの同じ記憶を共有していて然るべきなのだ。
 僕は頷いた。和明が、僕たちの顔を見比べた。
「しおさい館。シケたとこだよ」
 鳴海が吐き捨てるように言った。もう一度リーフレットの地図を見ると、確かに、「しおさい館」と書いてある。そんな名前だった、ような気がする。しかしそれは実際、浜の潮騒も届かない静かな丘の上にある。
「何かあるかもしれないね」