顔のない女が、僕を見下ろして笑っている。
 僕はむせかえるような草いきれの中に仰臥していて、裸の胴を晒されたまま地面に磔られている。
 右腕に誰かの濡れた肌が張り付いている。右耳にその誰かの不気味に穏やかな息遣いが響く。
「仲良しだね」
と、顔のない女は、ゆっくりと言った。
 飛び起きると、たったいま彷徨っていた夢の中で鳴り響いていた、季節外れの蝉の喧騒が、内耳の奥にまだ火花のように残っている、ような気がする。
 僕は青ざめ、布団の中を確認した。全身は冷たい盗汗でしとどに湿っていたが、それ以上のことはなく、安堵の息を吐く。
 繰り返し見る悪夢である。蝉の声が降り頻る夏の記憶である。僕は目を閉じ、その記憶と、たったいま見た夢との照合を始める。そうしなければ、何が実際に起きたことで、何が深層意識による脚色であるか、分からなくなってしまうからだ。
 小学校に上がったばかりの頃だったはずだ。夏休み、うちへ来ていた鳴海と僕は遊びに飽きて、一緒に近くの裏山へ行ったのだった。母親の目を盗んで家を抜け出すと、隣の家の「カネコさん」が庭に出ていたので会釈をした。「カネコさん」は主婦で、母が言うには夫は銀行に勤めており、その頃大学生と高校生の子供が一人ずついた。高校生の方の男の子は、かつては空き地だったよその土地でよく虫を獲ったりかくれんぼをしたりして遊んでくれたのだが、そのうち空き地にも次々と地鎮祭の紐が張られて家が建ち、部活や勉強で忙しくなった彼と無邪気に遊ぶようなことも無くなった。夫の方はほとんど姿を見なかったので、その人が僕にとっての「カネコさん」だった。
 山といっても少し草木が茂っているだけの崖のようなもので、春には周辺の住民が筍を採りに入ることもあった。刈り取られなかった幼竹たちは初夏から夏にかけて青々と乾いた竹になり、枯れ草の堆積を貫いてところどころに林立していた。裏山には秘密基地があって、僕と鳴海はたびたび二人でそこへ訪れていた。草をかき分けただけのその秘密基地は僕たちだけのものではなく、ここ一帯の子供たちの共有財産だったのだが、たいていいつ行っても先客がいることはなかった。
 その日も鳴海と一緒にいたはずなのだが、何しろ遠い昔のことなので、その時彼がどんな髪型をしていたか、どんな服を着ていたか、どんな顔をしていたのかさえ、定かではない。けれども鳴海と一緒にいたのだという事実だけが、心象として固着している。それは特別なことだったからだ。
 僕はその頃からすでに、彼と二人きりで裏山に行く時、否、それだけではなく、彼と二人きりで時間をともにしている瞬間の己の胸を満たす鼓動に気づいていて、それが単なる楽しさのみに起因するものではないことも自覚していた。
 秘密基地の屋根の影に身を滑り込ませて、僕らは並んで寝転んだ。いま見れば大したことのない、しかし子供には難儀な急斜面を登って少し疲労した身体を地に預けながら、爽やかに脱力していた。
 僕は、青臭い草の上で、彼と並んで寝るのが好きだった。
 彼の腕に登る小さな見たこともない虫がいて、しばらくそれが、彼の皮膚の汗ばんできらめく一つ一つの細胞の上を緩慢に蠢くのををうっとりと眺めていた。そのうち、僕はそれが彼の腕に触れる口実になることに気がついた。指先を近づけて勢いよくその散歩する侵略者を弾くと、なんだよ、と彼が言う。
 虫がいた。と僕は答える。
 ホントかよ、と、彼が笑いながら、僕の脇腹をくすぐった。
 彼は故意になのか、そうではないのか、いずれにせよ僕の小さな口実にさらに助け舟を出した。僕もそれを幸運とばかりに彼の身体を弄り返す。彼もムキになって、いっそうやり返してくる。僕は相手の薄ぺらいTシャツの中にまで手を突っ込んで、彼の皮膚の敏感な部分を探りながら、首や胸を撫で回した。肌の沸き立つ匂いと湿潤とした感触が、嵐のように襲い狂って、眩暈がするようだった。
 そうやって揉み合っているうちに、ふと秘密基地の「屋根」が揺れ、鮮烈な陽光が瞼を刺した。僕はハッとして動きを止め、その投げこまれた光の方を見上げた。
 先ほど挨拶をしたばかりの「カネコさん」が、覆い被さるように立っていて、その影の奥の目と視線がぶつかった。
「仲良しだね、智紀くん」
 けたたましい蝉の断末魔の合唱の隙間から、彼女の粘着質な声が耳に届いた時、まとわりつく熱気は汗となって全身の毛穴から滲み出て、急速に体表面の温度を奪っていった。
 見仰ぐ「カネコさん」の顔は、一緒にいたはずの鳴海の顔よりも、ずっと克明に脳裏に焼き付いていた。強い太陽の光を背にして、渦巻く影の中で、まるで生気のない瞳が見開いて、無理やりに歪められた唇は笑顔の形が張り付いていた。彼女が実際は何を思っていたのかはわからない。本当にその言葉にはなんの他意もなくて、言外の意図や感情などなかったのかもしれない。彼女の表情がそうやって妙に奇怪に見えたことさえ、被害妄想に過ぎないのかもしれなかった。しかし僕の目には、彼女が罪を審判する何か恐ろしい上位存在として映ったのだ。いつから彼女は僕たちのことを見ていたのだろうか、と幼い僕の脳は、逸る血脈の振動に急かされて考えを巡らせていた。もしかすると先ほど家の前で挨拶をした時から、怪しんで後をつけて、僕たちが何か悪いことをしないだろうかと、見張っていたのかもしれない。
 突如投げ込まれた恐怖は幼い子供の身体を萎縮させ、僕は気がつけば失禁していた。濡れたズボンを悟られまいとして、僕は隣にいた鳴海を置いて、逃げるように山を降り家へ帰った。
 僕たちは抱き合って身体を弄りあっていただけで、子供同士の無邪気な戯れ合いに過ぎなかったのだが、当時僕はなぜだかそのことをやましいことだと認識していて、この出来事はケロイドのような恥となって僕の精神に刻みつけられた。「カネコさん」が母にこのことを密告するのではないかと、僕はしばらく一人で恐れていた。
 結局、そのことが母の耳に入ったのかどうかは、今に至るまで知らない。僕はその後も時折、その時のことを夢に見たのだ。「カネコさん」ではなくて、母が僕たちを見つけることもあった。どの夢でも鳴海の姿は鮮明には見えなかった。その夢を見るたびに布団を濡らすことになったので、眠ることが怖くなった時期もあった。近頃はそうやって失敗をすることこそなくなれど、しばらくは迫り上がる自己嫌悪の波の中で目を閉じ、眠りが僕を捕まえてくれるまでじっと耳を塞いでいる。どれだけ耳を塞いでも、頭の奥から聞こえてくる声から逃れることはできない。