おかしなことが起こるようになって、近頃、鳴海はナーバスになっているように見えた。彼が爪を噛む頻度が物語っている。すでに彼の右手の爪先は不揃いだ。
「鳴海、座って」
 那岐浜の駅から少し出たところで、僕は道沿いの花壇を指差した。いつ通り過ぎてもまるでその日咲いたように抜かりなく整備されているその花々は、いくつも亀裂の走るコンクリートの外枠とは相入れない。誰が世話をしているのかも分からない。あたりを見回す限り、忘れ去られた写真のように色褪せたその通りの中で、花だけが不合理なまでに生き生きとしている。鳴海は背負っていたカバンを煤けた地面に置き、僕の指示の通りに、その朽ちかけたコンクリートの縁に腰を降ろした。僕はリュックサックの底から真紅色の小瓶を掘り起こす。いつか使おうと思って携帯していたのだ。
「手、広げて、裏向きにして」
「裏ってどっち?」
「知らない、こっちだよ」
と僕は、鳴海の骨ばった手を掴んで、意図した方向、すなわち甲が上向きになるように、それを転回させた。
 小瓶の蓋を開けると揮発油の匂いが鼻腔を刺す。僕は静かに息を吐きながら、キャップに付属した刷毛を引き出して、滴りそうになった余分な液を瓶の縁に撫でつける。液は微小な泡を呑みながら瓶の中へ落ちていく。それでも刷毛を鳴海の指まで運ぼうとした時に、真紅色の粘液が地面に落ちた。僕はそれが膝に染みつかないように身体をずらし、鳴海の指を自分の鼻先へ引き上げる。鳴海はおとなしくなすがままだった。
 薄い爪が深く色付いていく。僕は触れる冷たい指先に胸が高鳴っていた。この行為は第一に彼の爪を案じた物であったけれど、彼の指先に触れることができるという、下心がなかったわけではない。
 僕はその後ろめたさを隠蔽するかのように、「こうやって色を着けておくと、口元に持って来た時に目について気づくらしい」
「なんでこんな派手な色?」
「慣れたら薄い色にしたらいい。元の色と変わらないような感じの。最初はちゃんと目立つ色にしないと」
 小さなエナメルの刷毛が凹凸を撫でていくと、鮮やかなぬめった液体がその隅々に沁み渡る。
 五枚の花弁が完成すれば、彼の指先は潤んで底光りした。息を吹きかけたり手扇子で仰いだりして乾燥を待つ僕を、彼がじっと見つめていたのに気づいたのは、施工に夢中になっていた僕がやっと目を上げた時だった。
 視線がぶつかったのは一瞬で、その一瞬に通り過ぎた苦い感情がなんであったかということさえ、分からなかった。まだ少し緩んでいる真紅に目を落として鳴海は、
「いいね。かっこいい」
と言って微笑する。僕は胸が苦しくなった。
 少しして、染まった爪の表面を何度か指先で突いて完全に定着したのを確認してから、僕たちは花壇を後にした。
 立ち去る際、ふと振り向いて花壇の方を見下ろすと、はみ出していた一輪が鳴海の尻に敷かれてしまっていたようで、それは懸命に起き上がろうとしていたが、哀れにも、その花弁は崩れてしまっていた。
 那岐浜の駅から少し離れると、まるで何キロも走ってきたかのように、別世界のような田畑が広がっている。向こうには内陸——とは言っても小さな面積の街の中のことだから、鳥瞰してみればそれもほとんど沿岸と言えるだろう——、その平たい農耕区域よりさらに内陸の山の方を遠く横切っていく高架橋がある。それは時折、一帯に轟音を震わせて、風を起こしたかと思うと、そしてまたそこは嘘のように静まり返る。そのサイクルを繰り返している。
 駅からバスを使ってもよいが、数十分に一本のそれを待つよりは、歩いてしまった方が早い、そんな微妙な距離に、僕の家はある。それに、鳴海がいるときは、少しでも長い間、鳴海と並んで歩いた方が面白い。くすんだ橙色の落日の中で、僕は高く聳え立つ鉄塔の影の数を数えながら、鳴海と並んで歩くこの時間に身を浸す。
 それにしても、随分と歩いているような気がする。
 僕は高架橋の方を見る。それは虹のように、追えども追えども決してたどり着かない場所にあるように見えた。
 道沿いに、錆びた看板が立つ。
〈区画に注意せよ〉と、それは言っている。
 西の空を見る。溶けた太陽は蜃気楼に震えている。それもまたじっとそこに座って動かない。
 僕は歩き続けながら、地面に目を落とした。僕と鳴海の、めいめい汚れたスニーカーが弾んでいる。まるで太陽の間近にいるかのように漆黒の影は渦巻いて、僕たちの足首に絡みついている。否、そのように見えるだけだ。鋭い風同士が擦れ合う音が鳴っていた。
 均質な橙色の大気の中で、影の対流を見つめていると、視野にまたひとつ細長い、陰影が貫入する。陽光を遮断するものを見た。
「区画に注意せよ」
と、それは言っている。
 僕は思わず立ち止まり、看板をまじまじと見つめる。
「なに」
と言って、鳴海も足を止めた。
 看板の文字は、黒々と、それもまた足元の影のように、微細に震えているように見えた。
「区画に注意せよ」
 僕はその文字を読み上げる。そうしないと、自分が本当にこの文字列を意味として解しているのか分からなくなった。自分の声が、内耳を伝って、脳に反響した。初めて文字を読んだような新鮮な、しかし、その世界の枠組みに捉われた瞬間の不可塑性の絶望のような、そんな混濁が、流れ込んでくる。
「そいつが何か?」と鳴海が呆れたように言う。
「お前、この看板見たことある?」
「区画に注意せよ」鳴海が、朗々と、その振動する文字を読み上げる。「さあ……」
「どういう意味だと思う?」
「敷地のトラブル?」
「僕は毎日通ってるはずだけど、バスの時もあるけど……でも、やっぱり初めて見た気がする」
「この看板を?」
「うん」
「毎日通ってても気づかないこともある」そう言いながら、鳴海はその鋭い縁を撫でた。
「何百回も通ってる」
「最近建ったんじゃ?」
「そうかな」そうかもしれない、と僕は思った。けれどもそれにしては、文字の淵は剥がれかけているし、白地の部分も金色の錆に侵されすぎている。鳴海は、綻んだ金属の粒子が付着した指先を見つめて顔をしかめた。それにもっと重要なことがある。「さっきも見たんだ、これ」
「さっき?」
「同じものをさっきも見た。初めて見た看板を二回見た」
 僕は鳴海の方を見た。鳴海は看板を見つめて黙りこくった。彼の眼球がころころと動きながら、そのたわんだ金属板を睨め回すのを、僕はじっと見つめた。
 しばらくして彼は妙にさっぱりとした顔をして、
「じゃあやっぱり、そういうことだったわけだ」
「どういう?」
 鳴海のしなやかな腕がまっすぐに伸び、西を指差した。
「道が終わらないし、太陽がずっとそこにあるって、思わない?」
 彼が指し示す方を見る。陽炎の向こうで、冷たい太陽が燃えている。なるほどそれは、寸分違わず、先ほどと同じ高度に鎮座しているように見える。
 つまり僕たちは、たったいま、終わらない夕暮れに陥っているというわけだ。あるいは終わらない畦道が、太陽を引き止めている。否、そんなことはどちらだって構わない。とにかく僕たちは、この停滞から抜け出さなければならない。
「ずっと、ここに」と僕は言った。無意識にこぼれ落ちた言葉だった。それほど自分は焦燥しているのだと、僕は気づいた。
「ここで僕とずっと二人きりでいたい?」
 彼が乱れた前髪を掻き上げると、指先の真紅が鈍く閃いた。僕は彼の爪に色をつけた場所の花壇と、潰れた花のことを思い出す。
 僕は自分の頬が、引き攣ったように綻んだのを感じた。「嫌だよ」平静を装ってそう応えた。
 ふと、遠雷。
 否、耳を澄ませばそれは列車の音だった。高架橋を伝って訪れを告げているのだ。
「じゃあさ、戻るぞ」
「えっ」と鳴海の言葉に、僕は虚を突かれる。
「進み続けるよりマシだ、元の場所に戻ろう」
「でも随分前だ」
「そうだね」
 そう言って鳴海は踵を返した。慌てて僕も後を追おうとすると、
「走るよ!」
 刹那、鳴海の潰れた白いスニーカーが地面を蹴る。声に弾かれたように、僕の身体も逸り出す。
 延々と前方に伸びる畦道に鳴海の背中がある。白い激しい呼気が舞い散り、リュックサックが躍動する。彼を追い抜かなければ、と僕は身体の奥底に凝り固まっているすべてのエネルギーを手放そうともがく。それは難儀だった。重い身体が心を縛り付けていた。思えばこのかた、鳴海を追い越すどころか、追いつけたことはなかった。いくら息を切らして走ろうとも。背後から列車の音が近づいてくる。それは増幅していく。
 小学生の頃の、徒競走の時間を思い出した。またコンプレックスが喚起されたのだ。誰よりも速く、風の祝福を受けながら、走る少年。
 気管がひび割れ、激しく出入りする冷酷な空気が刺すように痛んでも、走り続けなければならなかった。朦朧としつつある視界の端にが不意に黒く陥没する。僕は引き寄せられるように左前方を見た。
「トンネル」
と、反射的に僕は叫んだ。前を行く背中が、
「え?」
と声を荒げた。
「左、抜けよう」
 僕は、思わずペースを緩めた鳴海になんとか追いついて、その腕を掴んで旋回した。その時僕は、一寸先の見えないその暗闇の中に飛び込んでいく勇気があった。橙色の美しい夕景よりも、その暗闇の方が安らかに感じられたのだった。光のないトンネルの中で、隣の鳴海の姿は見えなかったが、僕たちはいつの間にか手を握り合いながら疾走していて、彼の荒い息遣いが並走していた。僕はそのことに安堵して、その眩さに、武者震いさえしていた。