天使のBrush Arrow

高校に入って2度目の春。
新学期から1週間が経過し、新しいクラスでは早くもいくつかのグループが出来上がり始めていた。

「涼太くん〜! お昼一緒に食べよ〜!」

教室内に自分の名前を呼ぶわざとらしく高い声が響いた。
白いカッターシャツの上から生ぬるい温度の柔らかな感覚が布を通して二の腕の皮膚に伝わってくる。涼太は咄嗟に腕を引いて距離をとった。

「そんな顔しなくてもいいじゃん〜! 涼太くんってば意外とピュアなの?」

彼女はムッと口を尖らせて今度は人差し指でツンツンとつついてくる。彼女の大胆に開いたボタンの隙間が見えて、ますます距離を取りたくなった。続いて上履きのスリッパを地面に擦らせながら男子生徒が近づいてくる。

「さすが涼太様は一筋縄ではいかないねえ」
「まあそういう所がいいんだよねえ〜」

ぞろぞろと派手に制服を着崩した男女に周りを囲まれる。
涼太は眉間に寄せたシワをさっと伸ばし、笑顔を貼り付けた。

「あぁ、ごめんね。この前変な女に絡まれちゃって、警戒心でつい。いいよ、どこで食べる?」

いつもより高い気持ちの悪いトーンで「それっぽく」話す。この人達の名前はなんだったか。クラスメイトのはずなのに1週間経ったというのに未だに誰一人名前を覚えていない。けれど、涼太がこうして声をかければ特に女子は大層嬉しそうに表情を綻ばせ距離を詰めてくる。
高校に入学してからずっとこんな日常が続いている。
顔がいいとか、頭がいいとか、スポーツができてかっこいいとか、程よく経験豊富そうだとか、こいつといれば学校という『社会』の中では安全だとでも思っているような承認欲求の塊達に毎日利用される日々。押し付けられた理想像を貼り付けて取り繕う情けない自分。涼太の高校生活は彩度の低い窮屈なものだった。

「涼太くんの今日のお昼はなあに?」

涼太の目の前に座った女子が両頬に頬杖をつきながら涼太の手元を覗き込んでくる。

「普通に、購買に売ってる弁当だよ」
「涼太くんっていっつもそのお弁当だよね、飽きないの? 私が作ってきてあげようか?」

涼太の目線よりやや低いところから見上げるように見つめられる。
飽きるに決まっているだろ。そんな心の声が漏れそうになって、グッと堪える。何度そう思ったか。それでも涼太は高一の秋からずっとこれだ。最初は自分の母親の手作り弁当だった。毎朝自分のことを考えて作ってくれる母親に感謝の気持ちでいっぱいで、嬉しかったのに、謎に『社会』から押し付けられた理想像の自分は、母親の手作り弁当を食べる涼太ではなかったらしい。

「明日から弁当作らなくていいから」
そう言った時の母親の寂しそうな顔を忘れられない。毎朝早起きして、それでも嬉しそうに作ってくれた母親の顔を知っているからこそ、涼太の胸も苦しかった。それでも、涼太は涼太のままでいることをこの『社会』は認めてくれない。

「学校あるのに大変でしょ。いいよそんなことしなくて」
「え〜?マミの作ったお弁当食べたくないってこと〜?」
「そうなんじゃね?」
「優介は黙っててよ〜!」

このふたりの名前はマミと優介というのか。今後のために覚えておこう。涼太はこっそりと机の下でスマホを開き、メモに『マミ』『優介』と文字を打って保存した。

「ちょっ!落ちるって!」

ふと、教室の窓側から賑やかな会話が聞こえてきた。視線を向けた先には、吉川玲旺とその友人2人が楽しそうにじゃれ合っていた。
彼はクラスの中でもそこまで目立つ存在ではない。柔らかな雰囲気で、まるで小動物のようだ。

「いや〜、玲旺って本当手がもみじみたいに小さいよな〜」
「指なんてこんなに短いのに、弓道で全国2位って」
「馬鹿にしてるの?褒めてるの? 手の大きさなんて関係ないよ」

どうやら玲旺の手の大きさについて弄っているらしい。よく見ると、友人一人と比べている玲旺の手は本当に小さくてもみじの葉のように丸い指だった。

「……ははっ」

思わず、笑いが口からこぼれてしまった。慌てて口元を手で覆う。

「なに涼太。怖いんだけど」
「何見てたの〜?」
「いや……」

全員の視線が玲旺の方へ向く。

「吉川? 涼太もしかしてあんな子がタイプなん?たしかに案外可愛く鳴いてくれそうね」
「ちょっと何それ〜!涼太くんは女の子しか抱かないもん〜!」

涼太を置いて勝手に展開されていく会話をぼう然と見つめる。
口の中で味覚がどんどん薄れていく。自分は今砂でも噛んでいるのだろうか。不味くて吐き出してしまいたい。
こちらに気づいた玲旺があ、と視線をこちらに向ける。頼むから目を合わせないで欲しい。そんな願いも虚しく涼太と目を合わせると、手のひらをこちらに向けひらひらと振って満面の笑みを見せた。瞬間、涼太の胸は静かに高鳴り、その存在を涼太自身に主張したが、玲旺のことも自分の胸からも目を背けた。

***

「え」

放課後のHR終わり。返却された英語の授業ノートを片手に涼太は立ち尽くしていた。ノートの表紙には「吉川玲旺」の文字。同じノートを使っている彼のものと取り間違えてしまったらしい。教室内は既に涼太以外誰もおらず、皆下校したか部活に向かったみたいだ。開いた窓から柔らかな風が吹き込んで、それに揺れる白いカーテンの先を見つめる。窓の外には弓道場がある。
部活が終わるまで残り1時間半といったところだろうか。涼太は自分の席に座って玲旺のノートを眺めてみる。黒マジックで書かれた名前はまるで印刷された文字のように綺麗だ。
少しの好奇心からノートを開いてみる。
未だに数頁しか使われていないノートには、ぎっしりと板書やメモ、問題とその回答がしっかりと手を抜くことなく全て綺麗な文字で書かれていた。
ノートを必要最低限のメモ程度にしか使わない涼太のものとは大違いだった。
彼の日頃の真面目さが垣間見えるそのノートを涼太はそっと撫でてみる。ザラリとした紙の質感と、文字の凹凸が指先に伝う。
玲旺は誰にでも分け隔てなく優しい。表面だけ取り繕っている自分とは違って内側から滲み、纏っている空気が全く別物なのだ。
弓道だって全国2位の成績。勉強もこのノートのように丁寧で抜かりない。柔らかで人当たりがよく、その上努力家。道理で周りから慕われ愛されるわけだ。
涼太は暫く玲旺のノートを見つめていたが、次第に襲ってきた睡魔に負けていつの間にかそのまま寝てしまった。
目を覚ますと外は既に日が暮れて暗く、時計は19時をさしていた。

「やっべ」

涼太は慌ててノートとカバンを手に取って弓道場へ向かった。
ほとんどの部活は今日の活動を終えて下校していて、静かな学校の雰囲気に新鮮な気持ちになる。
弓道場も部室も明かりは消えていて玲旺が残っている可能性は低かったが、ふと手をかけた部室のドアが開いたので、涼太は念の為入ってみることにした。
室内からは服が擦れる音が聞こえる。誰かが着替えているのだろうか。

「……すみませんー」

躊躇いがちに涼太は声をかけると一瞬音は止み、するとすぐさまこちらに向かって歩いてくる足音が聞こえた。

「はーい!」

ドアから室内に向かうまでのパーテンションのようなものの角から、1人の生徒が顔をのぞかせた。
玲旺だった。
唐突に現れた玲旺はあろうことか上半身に何も着ていなかった。

「は……」
「え! 桧山くん!? どうしたのこんな時間に!」

狭い室内にハツラツとした声が響き渡る。
薄暗い部屋の中は微かな埃と木の乾いた香りがして、小さな部屋の窓から差し込む外の街灯の光が、玲旺の白く玉のように滑らかな肌を照らしていた。華奢な身体はところどころ骨が浮き出ていて、しかし腕にはしっかりと筋肉の張りがある。
涼太は咄嗟に目元を自分の手で被った。

「っなんで裸なの!? 普通服着て出てくるでしょ!」

咄嗟に自分でも驚くほど大きな声が室内に響いた。
ドクンドクンと心臓が大きく脈打っている。
そんな涼太のことなどお構い無しに玲旺はさらに涼太との距離を詰めてきた。

「あはは、なんで? 同じ男じゃん。別に見られて困ることないし」
「もうちょっと警戒心持ったら!?」
「案外桧山くんってうぶなんだ?」

涼太より少し背の低い玲旺は若干上目遣いで涼太を見上げ悪戯っぽく笑った。指の隙間から見える彼の唇は艶のあるピンクで、柔らかく形を変えて光っている。

「誰がうぶだよ!」
「ごめんごめん! それでなんでここに来たの?」

涼太を揶揄い、くるりと回って部屋の奥に戻っていく。その背中を追うか悩んで、涼太は結局その場に立ったまま、仕切りを隔てた向こう側の玲旺と会話を続けた。

「ノートを、吉川のと取り違えて」
「ノート?」

再び衣擦れの音が聞こえる。

「今日返されたでしょ、英語の」
「……あー!」

奥でガサガサとものを漁る音が聞こえてくる。カバンの中を確認しているようだ。

「あ、ほーんとだ。ごめん、俺も気づかなかったわ」

涼太の胸が不意に強く鼓動した。
てっきり玲旺は一人称が僕なんだと涼太は勝手に思っていた。いかにもいいところのお坊ちゃんみたいな風貌なので、さっきから返ってくる玲旺のラフな言葉と話し方にドキマギしてしまっている。

「はい、わざわざありがとうね」
再び角から顔を出した玲旺は涼太にノートを差し出した。今度はしっかりと制服を身に纏って出てきた。
玲旺の手元のノートにはたしかに「桧山 涼太」と書かれていた。その文字の雑さに羞恥心が芽生える。

「……ありがと」

涼太はサッと受け取り背中に隠すようにして持った。

「こちらこそわざわざありがとね! ……そういえば桧山くんさ、今日目合ったよね」
「……え?」

唐突に投げかけられた言葉に反応が遅れる。

「いや、特に何でもないんだけど、なんか嬉しかったからつい手振っちゃった」

玲旺は再現するように涼太の前で笑顔で手を振って見せた。頬が膨らんで目が柔らかく細められる。なんて警戒心のない無垢な笑顔なんだろう。

「桧山君ってなんか、思ってたよりずっとうるさいんだね」
「……なにそれ貶してるの」
「違う違う褒めてるよ」

どう考えても「うるさい」と言われて褒められている気がしない。

「思ってたより感情豊かで、『こっち側』の人なんだなって」
「こっち側……」
「だって君いつも退屈そうで、クールにすましてるでしょ? みんなが求める涼太君って感じじゃん」

玲旺は言いながら部室のカギを手に取って涼太を目で促した。
「出よう」という合図だったのだろうが、涼太は向けられた目の奥深さと何もかも見透かしているような自信に満ち溢れた迷いのない瞳に一瞬身が固まってしまった。
ドアノブに鍵を差し込んで施錠した玲旺はゆっくりと歩き始めた。
外に出たことで室内より光源が増え、さっきよりも玲旺の輪郭がはっきりして見える。
でも、と玲旺は続けた。

「俺が思っていたよりずっと純粋で人間らしくて、なんか安心」
「人間らしいって。人間じゃないと思ってたの」
「だって君かっこいいもん。もはや彫刻でしょ」

彫刻……。涼太の脳内にはよく教科書とかで出てくるようなローマの裸体の石膏像が浮かんだ。
玲旺は何が楽しいのかさっきから足取りが軽く、声色も抑揚がある。

「疲れてないの」
「うん? 何が?」
「こんな遅くまでやってたのに、なんでそんな元気なの」
「ええ? だって俺ずっと桧山君と話してみたかったんだよ?」

答えになっている気がしない。玲旺はこんなにもふわふわした感じだったのかと、涼太はイメージしていた彼と実際の彼との雰囲気の差異に少し戸惑う。あどけない子供のようだ。

「ねえ、桧山君って明日もあの人たちとお昼一緒なの?」
「さあ、どうだろ。僕が一緒にいたくているわけじゃないから」
「じゃあさ、一緒にどーお?」

唯一明かりが灯る職員室の前で玲旺は涼太の方を振り返る。行動がいちいち愛らしくて、涼太の胸はなぜか玲旺に会ってから一定のリズムを乱しがちだ。病気だろうか。

「まあ、いいけど。何言われても知らないよ」
「あはは、いいよ気にしないし! 何かって何って感じだけど」

職員室に部室のカギを返却し、ふたりで校門の前まで並んで歩く。
残っている学生はどうやら涼太と玲旺のふたりらしい。
校門を過ぎ、左か右かといったところで玲旺は立ち止まった。どうやら左に曲がろうとしている涼太とは別方向らしい。

「そういえば、桧山くんって『僕』なんだね」
「……え?」
「みんな王子様だって騒いでるからもっとオレ様みたいな感じなのかと思ってたよ」
「……いや、普段は俺って言うけど」
「そうだよね!俺はどっちも好きだけど!じゃあ、また明日!」

日が暮れた空の下とは思えないほどハツラツとした明るさで、玲旺は言うだけ言って帰っていった。
涼太も静かに高鳴る胸にそっと触れたあと、帰路に着いた。