「あらぁ? 誰かと思えば、穢らわしい忌み子じゃないの」
「ふ、冬姫お姉様……」
腐った水のような臭いが、伍の鼻を突いた。
(……また、この臭いだ。何かを失うとき、必ず感じる不吉な臭い)
「駄目じゃない、薄汚い忌み子がこんな人前に出てきちゃ。臭いったらないわ。周囲への迷惑とか、考えたことある?」
冬姫が鼻をつまむ。
――クスクス
――クスクス
彼女に付き従う女中たちが、伍を笑う。
(あぁ、『また』だ)
伍は、足元がガラガラと崩れていくような感覚に襲われる。
境が、デウスが、千代子が整えてくれた居場所が、崩されていくような感覚に。
「ねぇ、何とか言ったらどうなの?」
一歩、
二歩、
三歩と冬姫が近づいてきた。
人の領域に土足で踏み込んでくる、いつもの冬姫だ。
「ひゅー……っ、ひゅー……っ」
伍は、上手く呼吸ができない。
視野が狭まっていき、世界が自分と冬姫と女中たちだけになる。
冬姫が、伍の頬に優しく触れてきた。
「晩秋だというのに、こんなに汗をかいちゃって。どこか悪いの? 可哀想に。……あら?」
冬姫が伍の耳飾りに触れた。
「これ、何? ……まさか紅玉!? 忌み子のアンタなんかが、なんでこんな高級品を身に着けているの?」
――ぐいっ
と、冬姫が強引に耳飾りを引っ張り、奪い取ってしまった。
「痛っ」
「何? 相変わらず大げさな子ね。それよりも、何よこれ、三カラットはあるんじゃないの?」
冬姫の目に、嫉妬と怒りの色が載る。
伍は、怖い。動機と冷や汗が強くなる。
「こんな大きな紅玉、どれだけ『お願い』してもお父様は勝ってくれなかったのに。これは忌み子のアンタにはふさわしくない。冬神の巫女たるアタシにこそふわさしいモノよ」
「か、返し――」
「え?」
「い、いえ……何でもありません」
(言うの。言うのよ、伍。あれは旦那様から頂いた大事な品。いくら冬姫お姉様が相手とはいえ、奪われるわけには……)
「っ……っ……」
だが、いざ言葉にしようとしても、出てくるのは声にもならない息だけ。
生まれてから今日までの日々――特に、三女・秋穂が嫁いで家を出て、冬姫を抑える者がいなくなってからの壮絶な五年間。
その間に骨の髄まで染め上げられた心身が、冬姫に逆らってくれないのだ。
「どう、似合うかしら?」
冬姫が片耳に紅玉の耳飾りを付けて、クルリと踊った。
冬姫の魔性的なまでの美貌、
黄色や白のチューリップ柄をあしらったモダンな着物、
そして、彼女の耳で輝く真紅の宝石。
それらが伍の視界の中で、絶望的なまでに美しく輝く。
「伍ってば、アタシにあんなにもひどいことをしたんだもの。このくらいの埋め合わせは当然じゃないかしら?」
もう片方の耳飾りに手を伸ばしながら、冬姫が笑った。
「ひ、ひどいこと……?」
伍は、戸惑う。
この数日、『阿ノ九多羅家』という温かな環境に身を置いたおかげか、伍は自分をかなり客観視できるようになっていた。
自分と冬姫のここ数日を俯瞰したところ、『自分が冬姫に対して加害した』という事実は見つけられなかった。
「わ、わたくしが、冬姫お姉様にいったい何を……?」
「アタシから、『デウス様の婚約者』の地位を奪ったじゃない」
あっけらかんと、冬姫が言い放った。
「…………。…………? …………は?」
『お断りよ』
『私じゃなくて伍を嫁がせればいいじゃない』
「わ、わたくしが、奪った?」
「そうよ。だって、デウス様ったら本当にお美しい方で。あの方の妻にふさわしいのは、このアタシなのよ。忌み子のアンタなんかじゃなくてね。なのに、アンタが阿ノ九多羅家に行くことになって――」
(その話は、おかしい。話の順序が入れ替わっている)
最初に、冬姫が婚約話を蹴ったのだ。
だから、伍が嫁ぐことになった。
その後、デウスが――『十歳の子供』という噂とは異なる美丈夫が現れたのだ。
だが、冬姫の中では、
『デウスは美丈夫だった。そんなデウスにふさわしいのは、伍ではなく自分』
という話にすり替わっている。
あまつさえ、『他ならぬ冬姫自身が蹴ったこと』をなかったことにしている。
(でも、冬姫お姉様の中では矛盾していないんだわ)
伍はとてつもない寒気を感じた。
伍はこの三日間で、冬姫の呪縛から解放されかけていた。
だからこそ、冬姫の怪物性に気づくことができた。
(でも、だとしたら……)
グルグル、
グルグル。
伍の目の前が、世界が回りはじめる。ねじれはじめる。
(だとしたら、わたくしの人生は……この五年間は、いったい何だったの?)
十三歳から十八歳までの、五年間。
人生で最も大事な青春時代。
その五年間を、伍は冬姫に虐げられ続けて過ごした。
それでも耐えてきたのは、
『冬姫の言葉が正しい』
と信じていたからだ。
『忌み子』
『出涸らし』
『要らない子』
『穢らわしい子』
『生かしてもらっているだけでも温情』なのだ、と。
日常的に冬姫から囁かれ続けてきた伍は、それらの言葉を信じた。
だからこそ、冬姫からの苛烈な責めに耐えながら懸命に働き続けてきたのだ。
(でも、違った。根拠なんてなかった。すべては冬姫お姉様の、その場その場の思いつきに過ぎなかった……!)
冬姫の気分、感情、勘違い、思いつき。
それらのために、伍は人生を台無しにされ続けてきたのだ。
――チリチリッ
伍の動揺が霊力となって、空気を震わせる。
――パチパチッ
デパートメントストア内の客たちが、『静電気か?』と辺りを見回しはじめる。
冬姫も同様だ。冬姫は生来、霊力が少ないため、伍が放つ致死量の霊力に気づいてすらいないのだ。
(こんな人のために、私の人生は……!)
――バチバチバチッ
(いいえ、駄目よ、伍。そんなふうに考えては……)
事ここに至ってもなお、伍は必死に自制しようとする。
少しでも気を緩めたら、手綱を放された霊力が冬姫を殺してしまうからだ。
(でも……助けて……誰か助けて……)
伍は耐える。耐える。耐える。
ギュッと目を閉じて、必死に耐える。
だが、ついに忍耐に限界が――
(助けて、旦那様!)
「ふ、冬姫お姉様……」
腐った水のような臭いが、伍の鼻を突いた。
(……また、この臭いだ。何かを失うとき、必ず感じる不吉な臭い)
「駄目じゃない、薄汚い忌み子がこんな人前に出てきちゃ。臭いったらないわ。周囲への迷惑とか、考えたことある?」
冬姫が鼻をつまむ。
――クスクス
――クスクス
彼女に付き従う女中たちが、伍を笑う。
(あぁ、『また』だ)
伍は、足元がガラガラと崩れていくような感覚に襲われる。
境が、デウスが、千代子が整えてくれた居場所が、崩されていくような感覚に。
「ねぇ、何とか言ったらどうなの?」
一歩、
二歩、
三歩と冬姫が近づいてきた。
人の領域に土足で踏み込んでくる、いつもの冬姫だ。
「ひゅー……っ、ひゅー……っ」
伍は、上手く呼吸ができない。
視野が狭まっていき、世界が自分と冬姫と女中たちだけになる。
冬姫が、伍の頬に優しく触れてきた。
「晩秋だというのに、こんなに汗をかいちゃって。どこか悪いの? 可哀想に。……あら?」
冬姫が伍の耳飾りに触れた。
「これ、何? ……まさか紅玉!? 忌み子のアンタなんかが、なんでこんな高級品を身に着けているの?」
――ぐいっ
と、冬姫が強引に耳飾りを引っ張り、奪い取ってしまった。
「痛っ」
「何? 相変わらず大げさな子ね。それよりも、何よこれ、三カラットはあるんじゃないの?」
冬姫の目に、嫉妬と怒りの色が載る。
伍は、怖い。動機と冷や汗が強くなる。
「こんな大きな紅玉、どれだけ『お願い』してもお父様は勝ってくれなかったのに。これは忌み子のアンタにはふさわしくない。冬神の巫女たるアタシにこそふわさしいモノよ」
「か、返し――」
「え?」
「い、いえ……何でもありません」
(言うの。言うのよ、伍。あれは旦那様から頂いた大事な品。いくら冬姫お姉様が相手とはいえ、奪われるわけには……)
「っ……っ……」
だが、いざ言葉にしようとしても、出てくるのは声にもならない息だけ。
生まれてから今日までの日々――特に、三女・秋穂が嫁いで家を出て、冬姫を抑える者がいなくなってからの壮絶な五年間。
その間に骨の髄まで染め上げられた心身が、冬姫に逆らってくれないのだ。
「どう、似合うかしら?」
冬姫が片耳に紅玉の耳飾りを付けて、クルリと踊った。
冬姫の魔性的なまでの美貌、
黄色や白のチューリップ柄をあしらったモダンな着物、
そして、彼女の耳で輝く真紅の宝石。
それらが伍の視界の中で、絶望的なまでに美しく輝く。
「伍ってば、アタシにあんなにもひどいことをしたんだもの。このくらいの埋め合わせは当然じゃないかしら?」
もう片方の耳飾りに手を伸ばしながら、冬姫が笑った。
「ひ、ひどいこと……?」
伍は、戸惑う。
この数日、『阿ノ九多羅家』という温かな環境に身を置いたおかげか、伍は自分をかなり客観視できるようになっていた。
自分と冬姫のここ数日を俯瞰したところ、『自分が冬姫に対して加害した』という事実は見つけられなかった。
「わ、わたくしが、冬姫お姉様にいったい何を……?」
「アタシから、『デウス様の婚約者』の地位を奪ったじゃない」
あっけらかんと、冬姫が言い放った。
「…………。…………? …………は?」
『お断りよ』
『私じゃなくて伍を嫁がせればいいじゃない』
「わ、わたくしが、奪った?」
「そうよ。だって、デウス様ったら本当にお美しい方で。あの方の妻にふさわしいのは、このアタシなのよ。忌み子のアンタなんかじゃなくてね。なのに、アンタが阿ノ九多羅家に行くことになって――」
(その話は、おかしい。話の順序が入れ替わっている)
最初に、冬姫が婚約話を蹴ったのだ。
だから、伍が嫁ぐことになった。
その後、デウスが――『十歳の子供』という噂とは異なる美丈夫が現れたのだ。
だが、冬姫の中では、
『デウスは美丈夫だった。そんなデウスにふさわしいのは、伍ではなく自分』
という話にすり替わっている。
あまつさえ、『他ならぬ冬姫自身が蹴ったこと』をなかったことにしている。
(でも、冬姫お姉様の中では矛盾していないんだわ)
伍はとてつもない寒気を感じた。
伍はこの三日間で、冬姫の呪縛から解放されかけていた。
だからこそ、冬姫の怪物性に気づくことができた。
(でも、だとしたら……)
グルグル、
グルグル。
伍の目の前が、世界が回りはじめる。ねじれはじめる。
(だとしたら、わたくしの人生は……この五年間は、いったい何だったの?)
十三歳から十八歳までの、五年間。
人生で最も大事な青春時代。
その五年間を、伍は冬姫に虐げられ続けて過ごした。
それでも耐えてきたのは、
『冬姫の言葉が正しい』
と信じていたからだ。
『忌み子』
『出涸らし』
『要らない子』
『穢らわしい子』
『生かしてもらっているだけでも温情』なのだ、と。
日常的に冬姫から囁かれ続けてきた伍は、それらの言葉を信じた。
だからこそ、冬姫からの苛烈な責めに耐えながら懸命に働き続けてきたのだ。
(でも、違った。根拠なんてなかった。すべては冬姫お姉様の、その場その場の思いつきに過ぎなかった……!)
冬姫の気分、感情、勘違い、思いつき。
それらのために、伍は人生を台無しにされ続けてきたのだ。
――チリチリッ
伍の動揺が霊力となって、空気を震わせる。
――パチパチッ
デパートメントストア内の客たちが、『静電気か?』と辺りを見回しはじめる。
冬姫も同様だ。冬姫は生来、霊力が少ないため、伍が放つ致死量の霊力に気づいてすらいないのだ。
(こんな人のために、私の人生は……!)
――バチバチバチッ
(いいえ、駄目よ、伍。そんなふうに考えては……)
事ここに至ってもなお、伍は必死に自制しようとする。
少しでも気を緩めたら、手綱を放された霊力が冬姫を殺してしまうからだ。
(でも……助けて……誰か助けて……)
伍は耐える。耐える。耐える。
ギュッと目を閉じて、必死に耐える。
だが、ついに忍耐に限界が――
(助けて、旦那様!)



