大正二年、晩秋。
「穢らわしいっ」
冬姫が湯呑みを投げつけてきた。
伍はよけなかった。よけるとかえって冬姫を怒らせてしまうことを、身をもって知っているからだ。
茶が着物にかかり、熱い飛沫が伍の頬を濡らしたが、伍は悲鳴を堪えた。
「アンタみたいな忌み子が入れたお茶なんて飲んだら、穢れが伝染っちゃうでしょ」
伍を罵倒するのは、双子の姉・冬姫だ。
「も、申し訳ございません……」
伍は平伏し、消え入りそうな声で謝罪する。
体が震える。冷や汗が止まらない。
居間には父もいる。が、父は新聞紙に視線を落としたまま、何も言ってはくれない。
伍は、最初からこうなることが分かっていた。
だが、お茶を持ってこなかったらこなかったで、『気が利かない』と折檻される。
他の女中たちが持ってきてくれれば済む話なのだが、女中たちは冬姫の支配下にあるため、頼れない。
冬姫は定期的に、こういうことをする。
伍をどうにもならない袋小路に追い込んで、いたぶるのだ。
家中総出で伍をいたぶって、楽しんでいるのだ。
(いいえ。そんなふうに考えては駄目よ、伍)
伍は自分に言い聞かせる。
(わたくしは忌み子。生かしていただいているだけでも、ありがたいことなのだから。これで、冬姫お姉様のお気が少しでも晴れるのなら……お家のお役に立つことができるのなら、本望よ)
「……失礼いたします」
伍は湯呑を拾い上げ、部屋を辞した。
――出涸らし巫女サマが、今日も空回っていらっしゃるわよ。
――あんな忌み子を家に置いておかなければならないなんて、お館様と冬姫様も災難ね。
廊下で女中たちとすれ違うたび、クスクス笑いが伍の心を刺す。
伍はいったん自室――屋根裏部屋に寄り、着物の染み抜きをした。
冬姫が持っている絹の柄物の数々とは対象的に、伍が持っているのは薄っぺらな木綿の一着のみ。
ツギハギだらけだが、何とか使い続けるしかない。
(今年の冬も、こたえるでしょうね……)
急いで台所に戻ると、そこに冬姫がいた。
「この愚図、どこをほっつき歩いていたの?」
「も、申し訳ございません……」
「愚図が食後の大事な時間を台無しにしてくれたから、アタシが代わりにお茶を入れにきてあげたのよ。感謝なさい」
「はい」
冬姫が茶筒を開くが、
「あら、茶葉が切れてるじゃない」
まだ一回分はあったであろう茶筒を、冬姫が投げ捨てた。
茶葉が土間に散らばる。
片付けるのはもちろん、伍の役目である。
「替えの茶葉はどこにあるのよ」
冬姫が棚という棚を開け放ち、中のものを地面にぶちまけはじめた。
土間には何人もの女中たちがいる。
彼女たちが冬姫に場所を教えれば済む話なのに、女中たちは知らんぷり。
伍が動くのを待っているのだ。
唯一、最近入ったばかりの新米女中がオロオロとしていた。
彼女は先輩たちの顔色を伺いつつ、冬姫に進言すべきかどうか悩んでいる様子だ。
彼女の額には、薄っすらと冷や汗が浮かんでいる。
見るに見かねた伍が、棚の一つを開いた。
「あ、あの、冬姫お姉様、茶葉はここに」
運悪く、伍の肩が冬姫にぶつかってしまった。
「近寄らないでよ、穢らわしい忌み子がっ」
逆上した冬姫が、伍の頬を張った。
伍は茶葉で足を滑らせ、転んだ。
その派手な転び方が冬姫の癇に障ったらしく、冬姫が伍の頭を踏みつけようとした。
「お、お嬢様っ」
新米が冬姫を止めようとする。
「……何?」
冬姫が新米を睨みつける。
「あぁ、なるほど。あなた、新参者ね? 道理で『馴染んで』いないはずだわ」
冬姫が怪しく微笑んだ。
次の瞬間、
――ぶわっ
と、嫌な臭いが伍の鼻を突いた。
生臭い、水が腐ったような臭いが。
だが、冬姫も、女中たちも、その臭いには気づいていない様子だ。
(あぁ、まただ)
そのとたん、新米の伍に対する目が、憐れむような色から蔑むようなそれに変わった。
「そうですわね。こんな忌み子、捨て置くべきですわ」
――クスクス
――クスクス
この臭いは、伍の不幸の象徴なのだ。
嫌なことが起こるとき、何かを失うとき、伍はいつもこの臭いを感じていた。
特に、三年前――母が亡くなる前夜には、その臭いを強く感じた覚えがある。
(やはり、わたくしは忌み子……この臭いとともに、腐り落ちていくさだめなのね)
◆ ◇ ◆ ◇
「穢らわしいっ」
冬姫が湯呑みを投げつけてきた。
伍はよけなかった。よけるとかえって冬姫を怒らせてしまうことを、身をもって知っているからだ。
茶が着物にかかり、熱い飛沫が伍の頬を濡らしたが、伍は悲鳴を堪えた。
「アンタみたいな忌み子が入れたお茶なんて飲んだら、穢れが伝染っちゃうでしょ」
伍を罵倒するのは、双子の姉・冬姫だ。
「も、申し訳ございません……」
伍は平伏し、消え入りそうな声で謝罪する。
体が震える。冷や汗が止まらない。
居間には父もいる。が、父は新聞紙に視線を落としたまま、何も言ってはくれない。
伍は、最初からこうなることが分かっていた。
だが、お茶を持ってこなかったらこなかったで、『気が利かない』と折檻される。
他の女中たちが持ってきてくれれば済む話なのだが、女中たちは冬姫の支配下にあるため、頼れない。
冬姫は定期的に、こういうことをする。
伍をどうにもならない袋小路に追い込んで、いたぶるのだ。
家中総出で伍をいたぶって、楽しんでいるのだ。
(いいえ。そんなふうに考えては駄目よ、伍)
伍は自分に言い聞かせる。
(わたくしは忌み子。生かしていただいているだけでも、ありがたいことなのだから。これで、冬姫お姉様のお気が少しでも晴れるのなら……お家のお役に立つことができるのなら、本望よ)
「……失礼いたします」
伍は湯呑を拾い上げ、部屋を辞した。
――出涸らし巫女サマが、今日も空回っていらっしゃるわよ。
――あんな忌み子を家に置いておかなければならないなんて、お館様と冬姫様も災難ね。
廊下で女中たちとすれ違うたび、クスクス笑いが伍の心を刺す。
伍はいったん自室――屋根裏部屋に寄り、着物の染み抜きをした。
冬姫が持っている絹の柄物の数々とは対象的に、伍が持っているのは薄っぺらな木綿の一着のみ。
ツギハギだらけだが、何とか使い続けるしかない。
(今年の冬も、こたえるでしょうね……)
急いで台所に戻ると、そこに冬姫がいた。
「この愚図、どこをほっつき歩いていたの?」
「も、申し訳ございません……」
「愚図が食後の大事な時間を台無しにしてくれたから、アタシが代わりにお茶を入れにきてあげたのよ。感謝なさい」
「はい」
冬姫が茶筒を開くが、
「あら、茶葉が切れてるじゃない」
まだ一回分はあったであろう茶筒を、冬姫が投げ捨てた。
茶葉が土間に散らばる。
片付けるのはもちろん、伍の役目である。
「替えの茶葉はどこにあるのよ」
冬姫が棚という棚を開け放ち、中のものを地面にぶちまけはじめた。
土間には何人もの女中たちがいる。
彼女たちが冬姫に場所を教えれば済む話なのに、女中たちは知らんぷり。
伍が動くのを待っているのだ。
唯一、最近入ったばかりの新米女中がオロオロとしていた。
彼女は先輩たちの顔色を伺いつつ、冬姫に進言すべきかどうか悩んでいる様子だ。
彼女の額には、薄っすらと冷や汗が浮かんでいる。
見るに見かねた伍が、棚の一つを開いた。
「あ、あの、冬姫お姉様、茶葉はここに」
運悪く、伍の肩が冬姫にぶつかってしまった。
「近寄らないでよ、穢らわしい忌み子がっ」
逆上した冬姫が、伍の頬を張った。
伍は茶葉で足を滑らせ、転んだ。
その派手な転び方が冬姫の癇に障ったらしく、冬姫が伍の頭を踏みつけようとした。
「お、お嬢様っ」
新米が冬姫を止めようとする。
「……何?」
冬姫が新米を睨みつける。
「あぁ、なるほど。あなた、新参者ね? 道理で『馴染んで』いないはずだわ」
冬姫が怪しく微笑んだ。
次の瞬間、
――ぶわっ
と、嫌な臭いが伍の鼻を突いた。
生臭い、水が腐ったような臭いが。
だが、冬姫も、女中たちも、その臭いには気づいていない様子だ。
(あぁ、まただ)
そのとたん、新米の伍に対する目が、憐れむような色から蔑むようなそれに変わった。
「そうですわね。こんな忌み子、捨て置くべきですわ」
――クスクス
――クスクス
この臭いは、伍の不幸の象徴なのだ。
嫌なことが起こるとき、何かを失うとき、伍はいつもこの臭いを感じていた。
特に、三年前――母が亡くなる前夜には、その臭いを強く感じた覚えがある。
(やはり、わたくしは忌み子……この臭いとともに、腐り落ちていくさだめなのね)
◆ ◇ ◆ ◇



