夜、である。
初めての、夜である。
(しょ、しょ、初夜……っ!)
阿ノ九多羅邸の一角――寮棟の階段をデウスに続いて上がりながら、伍は震えていた。
(粗相をしたりはしないだろうか。貧相な体だと幻滅されはしないだろうか……)
廊下に出て、居並ぶ部屋の一つに至る。
デウスがドアを開き、そして、
「じゃあ、俺はここで」
と言った。
「……へ?」
デウスの言葉の意味が、伍には理解できなかった。
「え? 伍の部屋は隣だぞ」
「ええっ!? なっ、なっ、なっ……」
拍子抜けする伍。
安心するやら恥ずかしいやら、顔が熱くなって、その場にへたり込んでしまった。
「え、伍、どうした!? あ、あぁ……そういうことか」
デウスが頭を撫でてくれて、優しく立たせてくれる。
「いや、考えてもみろ。式を上げる前から手を出すわけにはいかないだろう?」
「手を出すも何も、坊っちゃんは――」
布団を運んできた千代子の言葉を、
「千代子!」
デウスが必死の形相で遮った。
「はいはい。まったくもう、困った坊っちゃんですこと。さっさと寝てくださいまし。成長期なのですから」
「千・代・子!」
「はーいはいはいっと。ささ、伍様はこちらですよ」
千代子に布団でぐいぐい押され、伍は安心したような、あるいは名残惜しいような心地のまま、デウスと別れ、隣の部屋の前まで進んだ。
「鍵は空いていますので」
「は、はい。ええと」
ドアノブなど、生まれて初めて握る。
「あ、あれ?」
「右回転させるのですよ」
「す、すみませんっ」
開いた。中に入る。
縦長の六畳間だった。
床は畳ではなく板床。
南向きの大きなガラス窓がある。
ベッドとタンス、そして机と椅子が一つずつ。
質素だが、清掃が行き届いた部屋である。
「手狭で申し訳ありません。何しろこの寮棟は、その名のとおり将兵たちの寝泊まりに使う棟なので。とはいえ五階はすべて阿ノ九多羅家の専用空間となっておりますので、ご安心を」
「手狭だなんて、とんでもございません。広いし天井は高いし、すごく住心地がよさそうです」
「そうですか? 失礼ですが、ご実家ではどのようなお部屋に住まわれていたので?」
「屋根裏です」
「ええと、屋根裏部屋?」
「いえ、屋根裏。屈まないと移動できないのが、少しつらかったですね」
「や、屋根裏!? 部屋ですらなく!? うっうっうっ……伍様、明日食べたい物はございますか? この千代子が何でも作って差し上げますよ」
「え? え?」
「あっ、履き物はここでお脱ぎください。洋館だけれど部屋の中は土足厳禁。これもまた和洋折衷というやつです」
「は、はぁ」
「ここは、元は大旦那様と大奥様が寝起きしていた部屋なんです。第七旅団では『聖地』なんて呼ばれていたりします」
「せ、聖地!? よいのですか、わたくしなんかが使わせていただいても?」
「伍様、ご自分のことを『なんか』などと貶めてはいけませんよ」
「す、すみません……いえ、ありがとうございます」
「!」
布団をベッドの上に置いた千代子が、パッと微笑んだ。
「ええ、ええ! 過度に謝るよりも、そちらのほうがずっとよろしいかと。自然と笑顔になれますしね」
「はい。そのように心がけます。それで、あの、大奥様というと、デウス様のお母君ですよね? 海の向こうからやってきた、『七つの大罪』にまつわる大魔王様だとか」
「ええ。『色欲』の大魔王リリス・ド・ラ・アスモデウス陛下であらせられます」
十年前、神戸に突如として顕現した大魔王だ。
あわや神戸は一巻の終わりかと思われたが、当のリリスが現地のエクソシスト――つまりはデウスの父と恋に堕ちたことで、神戸は破滅せずに済んだのだ。
以来、唯一友好的な西洋アヤカシとして、それも世界最強水準の友軍として、退魔家界隈では慕われつつも畏れられている。
「実際にお会いしてみると、ずいぶん気さくでお優しいお方なんですけどね」
「そ、そうなのですか?」
「ちなみに、陛下は『淫属性』の魔術の使い手です。他人の霊力を吸い取ったり、相手の心を操ったり」
「あー……」
『俺の本気の【吸魔】を、な』
なるほど、デウスの『あれ』は母親譲りであるらしい。
「他の七大魔王のような派手な地獄級破壊魔術こそ使えないものの、搦め手となれば世界最強。陛下の【洗脳】魔術の前では、日本最強の結界術師である第ゼロ師団長・十月大将すら、赤子の手をひねるが如く、でしょうね」
(わたくしの姑様ともなるお方。お会いする機会があったら、くれぐれもお怒りを買わないように気をつけなければ)
などと伍が思案している間に、千代子がテキパキと寝床を作ってしまった。
「では、おやすみなさいませ、伍様。よい夢を」
「は、はい! 今日は本当にありがとうございました」
千代子がニッコリと微笑み、部屋を辞した。
「はぁ……」
一人になった伍は、恐る恐るベッドに腰掛けながら、今日の出来事を思い返してみた。
(お父様に殺されそうになって、かと思えばデウス様に助けていただいて……いろいろなことがあった)
伍は襦袢姿になり、恐る恐るベッドに入った。
(暖かい。軽い。チクチクしない……こんなにも上等な寝床、わたくしなんかが頂いてよいのだろうか)
目を閉じると、とたんに眠気がやって来た。
(おやすみなさい、境様。おやすみなさい、デウス様、千代子様。……おやすみなさい、お母様)
千代子が用意してくれた布団はいつも使っていた藁よりもなお軽く、何より暖かかった。
身も心も救われた伍は、とろけるように眠った。
◆ ◇ ◆ ◇
初めての、夜である。
(しょ、しょ、初夜……っ!)
阿ノ九多羅邸の一角――寮棟の階段をデウスに続いて上がりながら、伍は震えていた。
(粗相をしたりはしないだろうか。貧相な体だと幻滅されはしないだろうか……)
廊下に出て、居並ぶ部屋の一つに至る。
デウスがドアを開き、そして、
「じゃあ、俺はここで」
と言った。
「……へ?」
デウスの言葉の意味が、伍には理解できなかった。
「え? 伍の部屋は隣だぞ」
「ええっ!? なっ、なっ、なっ……」
拍子抜けする伍。
安心するやら恥ずかしいやら、顔が熱くなって、その場にへたり込んでしまった。
「え、伍、どうした!? あ、あぁ……そういうことか」
デウスが頭を撫でてくれて、優しく立たせてくれる。
「いや、考えてもみろ。式を上げる前から手を出すわけにはいかないだろう?」
「手を出すも何も、坊っちゃんは――」
布団を運んできた千代子の言葉を、
「千代子!」
デウスが必死の形相で遮った。
「はいはい。まったくもう、困った坊っちゃんですこと。さっさと寝てくださいまし。成長期なのですから」
「千・代・子!」
「はーいはいはいっと。ささ、伍様はこちらですよ」
千代子に布団でぐいぐい押され、伍は安心したような、あるいは名残惜しいような心地のまま、デウスと別れ、隣の部屋の前まで進んだ。
「鍵は空いていますので」
「は、はい。ええと」
ドアノブなど、生まれて初めて握る。
「あ、あれ?」
「右回転させるのですよ」
「す、すみませんっ」
開いた。中に入る。
縦長の六畳間だった。
床は畳ではなく板床。
南向きの大きなガラス窓がある。
ベッドとタンス、そして机と椅子が一つずつ。
質素だが、清掃が行き届いた部屋である。
「手狭で申し訳ありません。何しろこの寮棟は、その名のとおり将兵たちの寝泊まりに使う棟なので。とはいえ五階はすべて阿ノ九多羅家の専用空間となっておりますので、ご安心を」
「手狭だなんて、とんでもございません。広いし天井は高いし、すごく住心地がよさそうです」
「そうですか? 失礼ですが、ご実家ではどのようなお部屋に住まわれていたので?」
「屋根裏です」
「ええと、屋根裏部屋?」
「いえ、屋根裏。屈まないと移動できないのが、少しつらかったですね」
「や、屋根裏!? 部屋ですらなく!? うっうっうっ……伍様、明日食べたい物はございますか? この千代子が何でも作って差し上げますよ」
「え? え?」
「あっ、履き物はここでお脱ぎください。洋館だけれど部屋の中は土足厳禁。これもまた和洋折衷というやつです」
「は、はぁ」
「ここは、元は大旦那様と大奥様が寝起きしていた部屋なんです。第七旅団では『聖地』なんて呼ばれていたりします」
「せ、聖地!? よいのですか、わたくしなんかが使わせていただいても?」
「伍様、ご自分のことを『なんか』などと貶めてはいけませんよ」
「す、すみません……いえ、ありがとうございます」
「!」
布団をベッドの上に置いた千代子が、パッと微笑んだ。
「ええ、ええ! 過度に謝るよりも、そちらのほうがずっとよろしいかと。自然と笑顔になれますしね」
「はい。そのように心がけます。それで、あの、大奥様というと、デウス様のお母君ですよね? 海の向こうからやってきた、『七つの大罪』にまつわる大魔王様だとか」
「ええ。『色欲』の大魔王リリス・ド・ラ・アスモデウス陛下であらせられます」
十年前、神戸に突如として顕現した大魔王だ。
あわや神戸は一巻の終わりかと思われたが、当のリリスが現地のエクソシスト――つまりはデウスの父と恋に堕ちたことで、神戸は破滅せずに済んだのだ。
以来、唯一友好的な西洋アヤカシとして、それも世界最強水準の友軍として、退魔家界隈では慕われつつも畏れられている。
「実際にお会いしてみると、ずいぶん気さくでお優しいお方なんですけどね」
「そ、そうなのですか?」
「ちなみに、陛下は『淫属性』の魔術の使い手です。他人の霊力を吸い取ったり、相手の心を操ったり」
「あー……」
『俺の本気の【吸魔】を、な』
なるほど、デウスの『あれ』は母親譲りであるらしい。
「他の七大魔王のような派手な地獄級破壊魔術こそ使えないものの、搦め手となれば世界最強。陛下の【洗脳】魔術の前では、日本最強の結界術師である第ゼロ師団長・十月大将すら、赤子の手をひねるが如く、でしょうね」
(わたくしの姑様ともなるお方。お会いする機会があったら、くれぐれもお怒りを買わないように気をつけなければ)
などと伍が思案している間に、千代子がテキパキと寝床を作ってしまった。
「では、おやすみなさいませ、伍様。よい夢を」
「は、はい! 今日は本当にありがとうございました」
千代子がニッコリと微笑み、部屋を辞した。
「はぁ……」
一人になった伍は、恐る恐るベッドに腰掛けながら、今日の出来事を思い返してみた。
(お父様に殺されそうになって、かと思えばデウス様に助けていただいて……いろいろなことがあった)
伍は襦袢姿になり、恐る恐るベッドに入った。
(暖かい。軽い。チクチクしない……こんなにも上等な寝床、わたくしなんかが頂いてよいのだろうか)
目を閉じると、とたんに眠気がやって来た。
(おやすみなさい、境様。おやすみなさい、デウス様、千代子様。……おやすみなさい、お母様)
千代子が用意してくれた布団はいつも使っていた藁よりもなお軽く、何より暖かかった。
身も心も救われた伍は、とろけるように眠った。
◆ ◇ ◆ ◇



