末永くお鈍いもふしてあげます

 体育祭が終わり、梅雨の季節がやって来る。体育祭以来、純夜の夢見はすっかり良くなり、夏祭りで光輝と二人きりになりたいすぎて、変にうなされることはなくなった。
 しかし。純夜は脇から体温計を取り出した。
「38度もある……」
 輝かしい有終の美を飾った体育祭。仲間の絆も深まり、今日はクラスメイトみんなで体育祭の打ち上げをすることになっていたのに。
 梅雨に入り、純夜は気温の変化と疲労から、体調を崩してしまっていた。
 布団をめっきりかぶり、もぞりと動く。
 ものすごく体が熱いのに、悪寒でずっと寒気がやまない。
 話す元気もなく、打ち上げの欠席の連絡は、兄の代依が代わりに、光輝に入れてくれた。
 あっついし、でも、寒くて、寒くて。
 心細い。
 兄には頼れない。
 兄はぬいぐるみ職人だから、毎日制作で忙しい。ぬいぐるみは兎神町の名産で、ほとんどすべてが手作業で作り上げられている。ものすごく労力と時間がかかって、芸術的な一品が作り上げられるのだ。
 毎日毎日、夜遅くまで仕事に忙しい兄が、機械に故障の限りを尽くし、ただのおかずの一品に圧力鍋なしの煮込み料理かってほど時間をかけてしまう、不器用な自分に代わって、家事もこなしてくれている上に、付きっきりの看病なんて頼めるはずがない。
 ぬいぐるみ。そうだ、ぬいぐるみ。
 枕元でいつも一緒に寝ている、うさぎのぬいぐるみ、もふこみゅーるに手を伸ばしかけ、その手は力なくベッドに落ちた。
 こんな高熱を出してるのに、もふこみゅーるにうつしたらダメだな。
 熱が見せるあやふやな思考にとらわれ、純夜は手を引っ込めてしまった。
 夏祭りまであとどれぐらいだったか。
 八月の終わりまで、あと……。
 熱で頭が重く、純夜は残りの日数を数えられなかった。
 考えるのはやめよう。今は寝て体を休めないと。
 かと言って、火照りがひどく、なかなか彼は寝つけない。
 打ち上げ、きっと楽しいだろうなあ。行きたかったなあ。みんなでワイワイしゃべりながら、あれこれとたわいもない会話で盛り上がって、ドリンクバーで飲み物を掛け合わせて、新しい味を錬成して、怒られかけて。
 手が遅いせいで、タイミングを見失ってしまい、フライドポテトは食べる前に、なくなっちゃうんだろうな。
 ちょっと変わったメニューを背伸びして頼んでみて、好物のビーフシチューなんか、熱々すぎて火傷しかけて。冷ますためにおしゃべりに夢中になっていたら、冷めすぎてしまって。
 お代わりを持ってきてもらうのが悪いからって、お冷やがなくならないように、ちびちび口に入れていて、それを光輝に見破られて、お冷やお願いしますって店員さんを呼ばれちゃって。
 色んなやらかしが純夜の脳内をめぐっていくが。
 行きたかった、と彼は布団を握りしめる。
 光輝が世話を焼いてくれる恩恵をありったけに受けて、おいしいね、楽しかったね、これで受験も頑張れるねって笑い合いたかった。
 行くのが叶わなかった行事への、想像が止まない。
 僕なんかいない方が、事件もなく、楽しくやれるんじゃないか。
 熱で頭がぼやけて、嫌な想像がめぐっていく。隣のぬいぐるみ、もふこみゅーるまで、恨み言を言っているように見えてきて。
 目が回る。うしろにうしろに引っ張られて、落ちていく。
 置いていかれる、すべてから。そして。
 光輝の背中。つかみ損ねた、ふわふわの髪。彼はふり返ってくれない。
 待って──
「行かないで」
 おもむろに伸ばしたその手をつかむものがあった。
 ひんやりとして冷たくて気持ちがいい。
「まだここにいるよ」
 声が返事をした。安心する。でも、誰だろう。
 視界がぼやけて、相手の姿が見えない。
 重ねられた、冷えた手のひらは、すぐに温くなってしてしまう。それでも、純夜はひどく安堵して、詰まっていた息をはいた。
 繋いだままの手。髪が選りわけられる。かぴかぴに干からびた冷却シートが取り去られる。
 額がひやりとした。
 頭を割るような痛い音が静かになる。激しく上下していた胸が少しずつ、落ちついていく。
 じんわりと、熱がうつっていく。
 額に、額がくっつけられた。
 遅れて、純夜は気づいた。
 その行為を許す相手は、彼にとって世界で二人だけだ。兄と。
「光輝……?」
 ここにいるはずのない相手。光輝はクラスメイトたちと今ごろ、どこかで食事を楽しんでいるはずなのだから。
「あっつ」
 太陽みたいな香ばしい匂いが遠のく。すぐに薬臭い、冷たいシートが額に押し当てられた。
「なんでいるの?」
「いちゃ悪ぃかよ」
 悪いだろう。せっかくの、楽しい打ち上げなのに。
「熱で行けなくてぴぃぴぃ泣いてんの、見てやろうと思って」
 光輝が意地悪を言う。彼がからかいで家に来たのではないことは、純夜にも痛いほど分かっていた。
「ごめ」
「ありがとうって言え」
 彼は今、どんな顔をしているのだろう。困っているのか、怒っているのか、どうしようもないなってあきれているのか。
 無性に光輝の顔を見たくなり、涙でにじむ視界を純夜は擦った。
「うん。ありがとう……」
 「そうだ、それでいい」と光輝が満足げに口角を上げたように、純夜の目には見えた。
 心があったかくなる。
 彼は本当に太陽の光みたいにまぶしいのに、優しく包みこむような心地よいあたたかさを持っていた。
 心細くて苦しんでいた純夜は、光輝に手を握ってもらいながら、ぬくもりに浸り、ゆっくりと眠りに落ちた。