そんなに都合よく、夢が見られるはずはなかった。
純夜は頭を抱えた。
夢を見ようとすると、日増しに、夢が輝きを失い、歪んでいく。ありとあらゆる有象無象が束になって、襲いかかってくるのだ。
お風呂で危うく寝落ちそうになり、兄の代依が心配で様子を見に来てくれて助かった。受験勉強と学校の課題で疲れきって机で突っ伏して寝ているときも、目が覚めるとブランケットが掛けてある。
兄にお世話されっぱなしで頭が上がらない上に、体育祭の特訓にも付き合ってもらっている。高校生活、最後だし、光輝には少しでもカッコいいところを見せたいし。
「すみくん。今日もお疲れ」
兄に声をかけられ、ふと空を見ると夕暮れが迫っていた。
体育祭の準備やら部活やらで忙しい光輝とは下校できないことが多い。無事、帰ったかな、とか遅くまでやってて大丈夫かなと、純夜は思いを馳せる。
「よい兄、今日もありがとう」
「すみくん、とっても頑張っててえらいよ」
髪に隠れて見えない兄の目元が笑ったように、純夜には思えた。長く暮らしていて、表情の計り知れない兄の感情の機微を純夜は感じ取れるようになっていた。
兄と二人で施設育ち。生みの親のことは知らない。兄も語らない。しかし、町の人たちはみんな優しく、二人は困ったことがなかった。
純夜と光輝は、施設のお祭りで出会った。父親に連れられ、お祭りに来た光輝ははじめ、かなりの仏頂面だった。
冬でもないのに、手に手袋をはめ、とてもイライラしている様子なのに、純夜は気づかず、光輝に興味津々で近寄っていってしまった。
光輝は威嚇するようにキッと、駆け寄ってきた純夜をにらみつけてくる。しかし、純夜は周囲の愛情をたっぷり受けて育った天真爛漫な子どもだったため、どんどん距離を詰めていってしまった。
驚いた光輝が引っくり返りそうになり、純夜がとっさに手をつかんだ。そのまま手を繋いでしまおうと純夜は思ったが、手袋が脱げる。光輝の父親と純夜の兄が焦ったが時すでに遅し。
幼いあの日、何があったのか、怖いもの知らずだった純夜は、よく覚えていなかった。昔は純夜の方が引っ張っていくタイプだったのに、そういえば、いつの間にか立場が逆転していったなと彼はほおを膨らませた。
「も、もうそろそろ、お家に入ろう。夜ご飯にしようね」と兄が上擦った声で告げる。
「考えごとしてただけだよ」
兄は気遣いのかたまりだ。彼のせいで不機嫌になったわけではないと、純夜はすぐに返した。
日が暮れていくのは早かった。あっという間に、辺りが夜に包まれる。
夜ご飯だと純夜は、家に入りかける。ひやりとした風を感じてふり向く。
夜の森が呼んでいる。純夜にはそんな気がした。
夢では、行ってはいけない場所だというのに。
行ってみる……か? そんなバカげた考えが純夜の頭に浮かぶ。
兄との夕食を終え、彼にこれから外出したいと申し出た。純夜は光輝と散歩、と兄にうそをついて夜の町に繰り出してしまった。
兄のマズったような何とも言えない、波打った口元が、焼きついて離れない。心配で仕方ないというより、幼なじみの光輝との予定を聞いてしまったことに慌てているようだった。
兄は何となく、純夜の光輝への好意に気づいており、それを純夜が隠そうとしていることもおそらく知っている。
兄の今の気持ちを代弁するなら、余計な詮索しちゃったかなあである。
あとで兄に謝っておこうと決め、純夜は夜の兎神町を歩く。
日中の町とはまるで様相がちがう。夜の町は知らない顔をしていた。
畦道では、よく分からない生物たちが鳴き声を上げ、大合唱している。青々と茂っていた草たちは闇色に染まり、水田が青く不気味に光っている。
風が吹く度、水面の濃い影が、うにょうにょと動き、今にも化けて飛びかかろうと息を潜め、じりじりと距離を詰めに来ているように見えてしまう。
電灯は背高のっぽのオバケみたく、グーンと縦に伸びており、だるまさんが転んだで、うしろから少しずつついてきているのではないかといった、動き出しそうな佇まいだった。
今からこんな怖いものばかりで、森に行ったら、どうなってしまうのだろうか。
夜の町におっかなびっくりしながら、純夜は町の外れの森を目指して進んでいく。
昼間はあんなに暑かったのに。思い出したかのように吹いた夜風が寒さを運び、純夜の肌をなでていく。
着いた。純夜の体が震え上がる。
森の入口は大穴が空いたみたく、ぽっかりと口を開けていた。
真っ暗なんてものではなかった。闇と恐怖を煮詰めたような夜が口を開けていた。
入口でこんなに足がすくむほどだ。森の奥なんて入ったら、ダメに決まっている。
引き返そうとして足がもつれた。地面に尻もちをつく。森の入口に立っただけなのに、森に吸い込まれそうで、純夜は恐怖で動けなくなってしまった。
これは夢だ。そう。早く覚めてくれ。
必死に願っても、目が覚めない。夜が満ちていくばかりで。今いる場所も直に、夜がもたらす影に食われていく。
行ってはいけなかった。後悔しても遅い。夢で散々、警告されたのに。
逸る鼓動と裏腹に冷えていく思考。歯がガタガタと震えだす。
訳が分からなくなり、暗がりの方に手を伸ばしかけたとき、「なにしてる」と固い声が降ってきて、純夜は顔をふり向けた。
純夜は頭を抱えた。
夢を見ようとすると、日増しに、夢が輝きを失い、歪んでいく。ありとあらゆる有象無象が束になって、襲いかかってくるのだ。
お風呂で危うく寝落ちそうになり、兄の代依が心配で様子を見に来てくれて助かった。受験勉強と学校の課題で疲れきって机で突っ伏して寝ているときも、目が覚めるとブランケットが掛けてある。
兄にお世話されっぱなしで頭が上がらない上に、体育祭の特訓にも付き合ってもらっている。高校生活、最後だし、光輝には少しでもカッコいいところを見せたいし。
「すみくん。今日もお疲れ」
兄に声をかけられ、ふと空を見ると夕暮れが迫っていた。
体育祭の準備やら部活やらで忙しい光輝とは下校できないことが多い。無事、帰ったかな、とか遅くまでやってて大丈夫かなと、純夜は思いを馳せる。
「よい兄、今日もありがとう」
「すみくん、とっても頑張っててえらいよ」
髪に隠れて見えない兄の目元が笑ったように、純夜には思えた。長く暮らしていて、表情の計り知れない兄の感情の機微を純夜は感じ取れるようになっていた。
兄と二人で施設育ち。生みの親のことは知らない。兄も語らない。しかし、町の人たちはみんな優しく、二人は困ったことがなかった。
純夜と光輝は、施設のお祭りで出会った。父親に連れられ、お祭りに来た光輝ははじめ、かなりの仏頂面だった。
冬でもないのに、手に手袋をはめ、とてもイライラしている様子なのに、純夜は気づかず、光輝に興味津々で近寄っていってしまった。
光輝は威嚇するようにキッと、駆け寄ってきた純夜をにらみつけてくる。しかし、純夜は周囲の愛情をたっぷり受けて育った天真爛漫な子どもだったため、どんどん距離を詰めていってしまった。
驚いた光輝が引っくり返りそうになり、純夜がとっさに手をつかんだ。そのまま手を繋いでしまおうと純夜は思ったが、手袋が脱げる。光輝の父親と純夜の兄が焦ったが時すでに遅し。
幼いあの日、何があったのか、怖いもの知らずだった純夜は、よく覚えていなかった。昔は純夜の方が引っ張っていくタイプだったのに、そういえば、いつの間にか立場が逆転していったなと彼はほおを膨らませた。
「も、もうそろそろ、お家に入ろう。夜ご飯にしようね」と兄が上擦った声で告げる。
「考えごとしてただけだよ」
兄は気遣いのかたまりだ。彼のせいで不機嫌になったわけではないと、純夜はすぐに返した。
日が暮れていくのは早かった。あっという間に、辺りが夜に包まれる。
夜ご飯だと純夜は、家に入りかける。ひやりとした風を感じてふり向く。
夜の森が呼んでいる。純夜にはそんな気がした。
夢では、行ってはいけない場所だというのに。
行ってみる……か? そんなバカげた考えが純夜の頭に浮かぶ。
兄との夕食を終え、彼にこれから外出したいと申し出た。純夜は光輝と散歩、と兄にうそをついて夜の町に繰り出してしまった。
兄のマズったような何とも言えない、波打った口元が、焼きついて離れない。心配で仕方ないというより、幼なじみの光輝との予定を聞いてしまったことに慌てているようだった。
兄は何となく、純夜の光輝への好意に気づいており、それを純夜が隠そうとしていることもおそらく知っている。
兄の今の気持ちを代弁するなら、余計な詮索しちゃったかなあである。
あとで兄に謝っておこうと決め、純夜は夜の兎神町を歩く。
日中の町とはまるで様相がちがう。夜の町は知らない顔をしていた。
畦道では、よく分からない生物たちが鳴き声を上げ、大合唱している。青々と茂っていた草たちは闇色に染まり、水田が青く不気味に光っている。
風が吹く度、水面の濃い影が、うにょうにょと動き、今にも化けて飛びかかろうと息を潜め、じりじりと距離を詰めに来ているように見えてしまう。
電灯は背高のっぽのオバケみたく、グーンと縦に伸びており、だるまさんが転んだで、うしろから少しずつついてきているのではないかといった、動き出しそうな佇まいだった。
今からこんな怖いものばかりで、森に行ったら、どうなってしまうのだろうか。
夜の町におっかなびっくりしながら、純夜は町の外れの森を目指して進んでいく。
昼間はあんなに暑かったのに。思い出したかのように吹いた夜風が寒さを運び、純夜の肌をなでていく。
着いた。純夜の体が震え上がる。
森の入口は大穴が空いたみたく、ぽっかりと口を開けていた。
真っ暗なんてものではなかった。闇と恐怖を煮詰めたような夜が口を開けていた。
入口でこんなに足がすくむほどだ。森の奥なんて入ったら、ダメに決まっている。
引き返そうとして足がもつれた。地面に尻もちをつく。森の入口に立っただけなのに、森に吸い込まれそうで、純夜は恐怖で動けなくなってしまった。
これは夢だ。そう。早く覚めてくれ。
必死に願っても、目が覚めない。夜が満ちていくばかりで。今いる場所も直に、夜がもたらす影に食われていく。
行ってはいけなかった。後悔しても遅い。夢で散々、警告されたのに。
逸る鼓動と裏腹に冷えていく思考。歯がガタガタと震えだす。
訳が分からなくなり、暗がりの方に手を伸ばしかけたとき、「なにしてる」と固い声が降ってきて、純夜は顔をふり向けた。
