末永くお鈍いもふしてあげます

 光輝から逃げられるわけがない。彼は学年一、足が早い。けれど、純夜は無駄だと分かっていてもあがく。
 よい兄との生活、苦労を重ねた学生生活、思い返せば町のみんなの優しい気づかいの数々。
 あの思い出がぜんぶ消える? そんなのいやだ。
「ぜったい、やだ!」
「純夜、そのままだと、真っ暗で何も見えなくなるんだぞ」
「光輝はそれでいいの? 僕、ぜんぶ忘れて光輝のことも……」
 上手くいかなかったことも多いけど、一緒に何度も夏祭りを過ごしてきた。たくさんのときを二人で過ごしてきた。
「いいわけねえだろ! でもこれしかねえんだよ……っ!」
 おかしい。足がもつれて、さっきから何度も転んでいて、もうとっくに捕まっているはずなのに。
「あー、そうか。俺としたことが。森に詳しいつもりで、気づかなかった」
 光輝も変だと思ったようだ。
「分かっちまえば森は俺の庭だからな」
 機械を壊してしまう彼の唯一の居場所。山菜採りが趣味なんだと言っていた彼の、発言の本当の意味を純夜は知る。
「俺も定期的に光を発散しないといけない。森は人が近づかないし、うってつけだったからな」
 彼がどんな思いで、ずっと隣にいたのか。純夜は泣きそうだった。
「こんなことしなくて済む方法、一緒に考えようよ、光輝」
 「僕、記憶を失うのはいや」と震える声で光輝に訴える。
「俺だって色々考えた。俺にできるのが、これしかなかった」
 何も知らないでのほほんと暮らしててごめん。ずっと、ずっと、一人で抱えさせてごめん。
 純夜は震えと緊張で、あふれでる懺悔の気持ちを口にできない。
「純夜のこれからの人生、真っ暗にする方が俺には耐えらんねえよ」
 じゃあ。それじゃあ。
 後悔のわめきが止まる。
 光輝は、ぜんぶ忘れた僕を見て、ぜんぶ知りながら、これからも生きていくの?
「もうぜってえ、離さねえから」
 いつの間にか、光輝との距離は縮まっていた。
 悟った光輝はペースをわざと落とした。速いほど遅くなり、遅いほど速くなる、この森の法則に従って。
 兎神さまの祠の前。僕たちは向かい合う。
 これで、終わり……?
「やだ、やめて、光輝」
「俺は、純夜の一生を台無しにした責任を持ちたいんだ」
 夜の森に響く、純夜の泣き声。かさなる手と手。温かいはずの体温は冷えて、指先が凍えている。
「これは俺のわがまま」
 神聖な誓いの儀式みたく、額が近づく。額と額が合わさる。汗でひやりとして、純夜は体を震わせる。
「僕、夢で見たもん、流れ星」
「…………は?」
 途端、ぐしゃりと握りつぶすみたく、光輝の手に力がこもった。
「流れ、星……を見た?」
「夢でだけど。お願いしたいことあって、夢で見た。僕、きっと、星、見えるようになるんだよ!」
「いつ見た」
「へ?」
 空気が凍りついた。光輝が怒っている。
「いつ見たんだ、流れ星の夢を!」
「た、体育祭の前だから、五月の下旬頃、かなぁ……?」
「そんな…………もう終わりだ」
 光輝が手を握りこんだまま、体を離して嘆く。
「あと三か月しかない、どうすれば」
 光輝が目に見えてうろたえていた。純夜は何がなんだか分からない。
「流れ星の夢見るのがそんなに大変なことなの?」
「……そうだ」
 がっくりと肩を落とした光輝の体は震えていた。
「流れ星を見た半年後に、母さんは死んだんだ」
「そんなの、ただの、こじつけじゃん!」
 純夜が正論を叩きこんでも、絶望に落ちてしまっている様子の光輝には届かない。
「母さんは俺がお腹にいるときに、俺から天体病がうつって……」
「なんでそう、自分のせいばっかにすんだよ!」
「純夜は知らないよな」
 「だって、流星の話、この町のタブーだし」と光輝は乾いた笑みを浮かべている。
「兎神町、俺たちが赤ん坊だったときに、流星群が落ちてきて、一度、大惨事になって、多くの人が死んでんだよ」
 純夜の息が詰まる。
 あ……。僕たち兄弟に、両親がいないのってまさか……。
「花火はその鎮魂の意味もあるわけ。でも、その光が流星を思い出すから、よく思わない人もいて」
 よい兄は花火が苦手で……。彼は僕が赤ん坊だったとき、もうすでに何歳か年が離れていたはずで。
「父さんが天文学に入れこんで、四六時中、望遠鏡をのぞきこんでんのも、またこの町に災厄が降りかからないように、星の動きを観察するためで」
 みんなみんな、すべてを知っていて、悲しみを背負って、今までどんな思いをしてずっと生きてきたのか。
 なにも、知らなかった。
 みんなは知ってて口を閉ざした。つらい過去が思い出して、余計な傷を抉らないように。
 生き残った僕たちが、何も知らずに、傷を残さないまま、幸せに明日を生きていけるように。
 みんなが黙っていてくれたんだ。
「分かってんだよ。俺だって。父さんが俺たちのために、全部背負ってやってくれてんの」
 光輝は天文学が嫌いだと言っていたが、そうなのではない。父親を天文学に縛りつけてしまった自分が許せないのだ。
 純夜の胸は締めつけられる。
「だから、純夜のことぐらい、俺が背負おうって」
 どちらからはじめたか分からない、手と手、額と額をくっつけ合う、おまじない。光輝が純夜を生かすために、必死になって編み出した、延命の策なのだとしたら。
「今度は絶対、間違えたくないのに」
 僕は、光輝のおまじないを受け入れた方がいいのだろうか。
 記憶がなくなるのは嫌だ。死ぬのも。
 ほら、今だって、つらくて悲しくて、涙が止まらない。
「光輝の気が済むなら、そうしようよ」
 鼻をすする。思ってもないことを口にする。胸はキリリと痛む。
「僕が半年後に死んじゃうんだとしても、何もしなかったら、光輝、心残りでしょ?」
 嫌だ、嫌だと喉元から出かかる拒否の言葉たちを純夜は無理やり押しこんだ。
「涙、拭っていい?」
 力強く離れない手を純夜は揺らす。
「忘れるそのときまで、光輝のこと、知ったままの笑顔を留めておきたいから」
 力が弱まった。手を離して、純夜は涙を拭う。ついでに光輝のも拭っておく。
「いつでもいいよ」
 すべてを受け入れ、純夜は額をくっつけた。
「……わかった」
 再び繋がれた手が握り返される
「純夜が忘れても、俺、ずっと純夜のそばにいたい」
「ふふ。欲張りだね、光輝は」
 命が尽きるその日まで、すべてを忘れた幼なじみの隣に居続ける。そんな独りよがりの孤独が、どれだけ酷でつらいとこか。
 こみ上げそうになるものを純夜は必死に押しとどめて、鼻を何度もすすった。
「君の愚鈍な幼なじみに、また戻るだけだよ」
 光がふわりと広がる。
 暖かく、心地よい、ひかり。あぁ、これが本当の光輝の姿だ。
 こんなにも柔らかで心が落ち着くのに、人に見せられない業を背負っているなんて。
「ちょっとまてーい!!」
 バキンと何かが割れる音がして、急に声が上がり、儀式が中断される。おでこにふわりとしたかたまりがぶつかり、僕たちは強制的に離れた。