末永くお鈍いもふしてあげます

 倒れた代依の体を揺する。けれども反応がない。
「よい兄、よい兄、起きて!」
 どうしよう、よい兄が。
 そうだ、電話。救急車を呼ばなきゃ。
 震えながら立ち上がり、ガタガタと震えながら受話器を取り、震えの止まらない指で数字を押した、瞬間だった。
「いてッ!」
 ビリッと電流のようなものが指に走った。それきり、ボタンを押してもうんともすんとも言わなくなってしまった。
「なんで、あぁ、こんなときに……!」
 あれ、なんか、静かになったような。
「冷蔵庫の電気、消えてる」
 開けっぱなしにされていた冷蔵庫のなかの電気が消えていた。純夜は天井から垂れる紐を引いて電気を点けてみる。
 一向に点く気配がない。
「うそ、停電……?」
 そんな、こんなときに、なんで。
「このままじゃ、よい兄が」
 ほおを涙が伝う。鼻から苦いものがこみ上げる。
「泣いてちゃダメだ。外に助けを呼びに行こう」
 純夜は倒れて意識のない兄を目に留めてから、不安と恐怖でふらつく足で玄関を目指した。
 玄関まで遠い。外に出たからと行ってすぐに誰か、捕まる保障もない。
 半開きのドアの前になんとかしてたどり着く。倒れるようにしてドアを押し開けかけ、思いきり息を吸いこみ……。
「誰か」
金屯(かなとん)さん?」
 手袋をした男の手がドアを押さえた。
 「純夜くんかな? 代依くんはどうしたの?」とその男はかぶっていた帽子のツバを上げた。
「安否確認、ここだけ来なかったから」
「あ、あに、よいにぃ、たおれてて」
「お兄さん、倒れちゃったんだね。救急車を呼ぼう」
「電話……」
「あぁ、君はここで待ってて」
 男はキャップをかぶり直し、純夜から離れたところで、ケータイを取り出し、電話をかけている。
「救急車、すぐに来るって。悪いけど、運送用の車で救護者を送るのはさすがにマズいからさ」
 男は軽快な小走りで純夜の元に戻ってきた。
「あ、あり、ありがと、うございます」
「純夜くん、まずは落ち着こう。深呼吸、深呼吸」
 純夜は男の言うとおり、深呼吸を繰り返した。
「お兄さん、息はあるね」
「本当ですか!? よかった……」
 玄関前まで代依を運び、救急車が来るまで玄関で、男と純夜は二人で並んで待っている。
「町内全域で大停電で」
「はぁ……」
 最悪が重なったわけか。
「あんなになって倒れる前に頼って欲しかったんだけどな」
「え?」
「今年の町会はちょっと強引だったから、運送、わざと断って、調整したつもりだったんだけど」
「もしかして、疾風神速さん? ……速人くんのお父さん?」
「はい。速人の父で、運送業してます」
「速人くんは、その……お元気ですか?」
「心配ありがとう。息子、体が弱いんですけど」
 遠くで聞こえるサイレンの音がだんだんと近づいてくる。
 「君たちと一緒に卒業は叶わないかもしれないけど」と彼は立ち上がった。
「息子が生きていてくれるだけで、私はうれしくて」
 夏の日差しのように、その背が輝いて見える。
「今の話はすべて内緒で」
 ケータイが鳴った。後光のような光が失せる。
 速人の父が純夜から離れていき、電話に出て、誰かと話し出す。
「あぁ、(きらめき)さん? 純夜くん、無事です。代依くんが倒れていて、ええ、多分、過労かと。救急車、追いかけますので、また連絡します。ええ、あとはお任せしますね」
 通話を終えた速人の父が小走りで戻ってきて告げた。
「純夜くん、君は家で待っていて。病院は(きらめき)さんが付き添ってくださるそうだから」
「ぼ、ぼく、でも」
「家で待っていてあげて。帰る家に待っている人がいる方が、代依くんも安心する」
 救急車が到着し、救急隊員から離れているように言われ、遠くから様子を見守ることしか純夜にはできない。
 代依がストレッチャーに載せられて運ばれていく。間もなく、疾風神速のトラックも救急車のあとを追って、通りからいなくなり、純夜だけが一人、その場に残された。
 嵐が過ぎ去ったような静けさ。体中の異常事態が解け、緊張が切れて、ついに純夜の足が言うことを聞かなくなり、その場に座りこんでしまう。
 落ち着かなくてはいけないのに。
 心臓が痛いほど鳴っている。
 僕のせいだ。兎神さまに願ったから、不幸がよい兄にうつってしまった。
 なんで、気づかなかったんだろう。一番、身近な人に不幸が降りかかることに。
 過労なんて、僕を安心させるための、うそかもしれない。もし、よい兄がもっと大変な状態だったら……?
 泣きたいのに、泣けない。苦しいのに、苦しめない。
 純夜は落ち着くどころか、膨らむ不安や負の感情にますます飲みこまれていき、自分が分からなくなっていく。
 なんで、光輝だけ、距離を取ればいいと思ったんだ? 僕がいるだけで、僕の大切な人、みんなが不幸になるのに。
「いた、純夜!」
 道の向こうから息せき切らした光輝が飛びこんでくる。純夜は逃げようとして倒れる。
「こ、来ないで!」
「落ち着けよ。兄貴、ただの過労だって」
「僕のせいだ!」
 純夜は口を戦慄かせ、叫んだ。
 手を差し伸べようとした光輝が、驚いて見下ろしている。
「僕のせいでみんな不幸に」
「ちげーだろ。よく考えろ、純夜」
 光輝を仰ぎ見れば、彼はいつになく怒っていた。
「誰が純夜のせいって言ったんだ。言ってみろ、俺がそいつをぶん殴ってやる」
「なんで僕なんかのために暴力、振るうんだよ、やめて!」
「自分なんかって言うの、やめろ」
「僕のせいなのは本当だし」
 二人は玄関前で激しく言い合いになった。
「何がどう、純夜のせいなのか、言ってみろ」
「僕が、ちゃんとできないから、よい兄に負担がかかって倒れちゃったんだ。電話も壊したし、停電になったし、みんなみんな、不幸になる!」
「はあ? 倒れたのは純夜のせいじゃねえだろ。それに停電は仕方ねえじゃねえか」
「だって、だって、僕が!」
 一人で森に行くなって言いつけを破って、兎神さまに勝手に願ってしまって。僕がぜんぶ、思いつきで突っ走ってしまった結果、招いた事態だ。
「純夜が自分自身をそうやって傷つけるの、俺でも許せない」
 衝撃が純夜の頭を殴った。彼は言葉を失った。
 光輝の握りしめられたこぶしは震えている。彼はものすごく怒っていて、怒りをこらえているようだった。
「ごめん。言いすぎた」
 「ブレーカー、上げて、家んなか、確認してくる」と光輝は家に上がろうとして、ふり向いた。
「純夜も兄貴が倒れて気が動転してんだよ。休めよ」
 光輝が行ってしまう。純夜はその場にへたり込んだままで、光輝の怒りに触れて、肌にヒリヒリした感覚が残るのを感じながら、ぼう然としていた。