末永くお鈍いもふしてあげます

 夏の夜は、燻製(くんせい)みたいな匂いと生臭さとカエルの大合唱で、騒々しい。
「分かってたけど、ここまでとはな」
「カエル、すごい鳴いてるね」
 水田に住むカエルたちが口々に鳴き声を上げ、わめき立てている。
「悪ぃな、お願いに付き合わせて」
「約束は守り合うものだし」
 「そのうち、一緒に山菜採りに行くんだから!」と純夜は握った手を揺らした。
「お、おう!」
 光輝の手が汗ばんでいる。汗で滑ってしまい、彼は何度も繋ぎ直していた。
「ここ。純夜と一緒に見たくて」
 小さな池の前で足が止まる。暗闇の池の上を小さな光が漂っていた。
 目で追っていると、飛び回る光は、暗闇に溶けて、いつの間にか消えてしまう。また、光りはじめ、スイスイと飛んでいく。その繰り返しだ。
「わぁ……きれい」
「きれいだろ。ホタルってやつ」
 夏の夜の幻想的な風景。二人はしばらくホタル鑑賞を楽しみ、胸を踊らせていた。
「あのさ、まさかとは思うが、ハードル、水田に埋めたの、純夜じゃねえよな?」
「え? 僕じゃないよ!」
 純夜は大声を上げて驚いた。池中に声が響き渡り、舞う光が一瞬、ほとんど消え、暗がりに包まれる。
「うそ、疑われてた?」
「うん。純夜、ずっとうわさ、されてたぞ」
「そう言えばあの時、みんなが言ってたうわさ話で、あの、残像メガネって……」
「大丈夫。あれは気にしなくていい」
 「なんかしてきたら、ぶん殴るから心配するな」と光輝は親指を立てて、片目をつむった。
「なに、光輝、知ってるの!」「純夜が気に留めることじゃない」「やだ、なんかしてくるんでしょ、怖いじゃん」「俺が一位を取り続ける限り、あれは純夜に近づけやしないぜ」と噛み合わない会話が続く。
 むぅーと純夜はほおを膨らませた。
「花火、知ってるよ。実は光輝がやってるんでしょ!」
「え?」
「光線、出せるって話!」
 光輝の目が大きく見開かれる。動揺している様子だ。
 あぁ、また困らせた。
「あ、流れ」
 誰かの声、途端、耳を塞がれ、目の前が真っ暗になる。
 何も聞こえない。何も見えない。
 無音の闇。額に体温。
「どうしたの、おまじないする?」
 世界に音が戻る。額はくっつけられたままだ。
 「知らねぇーのか。あれ、えいせーってんだよ、えいせい」と声が過ぎていく。
 額が下へ下へとずり落ちていって、肩口で止まる。肩に頭を寄せる彼の姿はまるで詫びるように、許しを乞うようで。その体は。
 震えている。
 抱きしめ返すと震えが収まっていく。
「今年も夏祭り、行こうよ」
 ぐりぐりと頭が肩口をくすぐり、「うん」とのどが鳴った。
「これは二人の約束」
 肩口に埋まる頭を押し返して、もう一度、額と額を合わせる。両の手を合わせ合って、おまじないをする。
「言っとくけど、花火、俺じゃないからな」
 ふふと肩が小刻みに震える。
「ごめん、変なこと言って、悪かった」
 「うーん、まあ、その」と光輝は目を泳がせる。
 「うん」と意を決したように、彼は顔を上げて言った。
「光線、出せる」
「ホント!?」
「でも、昔、純夜を泣かせたから、すっごく嫌な思い出で、見せたくない」
 「あと、俺は花火師じゃないからな」と彼は念押してくる。
「もうすっかり分かりましたってば!」
 重ねた手を押し合いながら、二人は笑い合った。
「夏祭りの花火、ぜーったい一緒に見ようね!」
「最後だからな、いい思い出に」
「そう、高校生活、最後!」
 来年からはお互い大学生になるけれど、高校までのものとは、まるきりちがくなる。高校生までが子どもで。
 子どもだった場所から、境界線を越えて、大人への階段をのぼっていく予感が、純夜にはあった。
 子どもから大人へ。大人になる前の最後の夏祭り。こんな遊び、許されるのは、子どもである間だけだ。
 純夜は本気でそう思っていた。
「受験生なのは分かってるけど」
 子どもでいられる最後の、この夏は特別で、もう永遠に戻らない。
 まちがえて、迷って、仲直りして、おまじないをかけて、笑い合える時間は、この先、もうずっと来ないかもしれない。
 ホタルが視界の隅で、消えては現れる、光の明滅を繰り返す。
 蛍火みたく、弱々しく、短く光る数々の日々。これから大人として過ごしていく、死ぬまでの時を考えたら。
 なんて、すごく、儚い。
 子どもとして振る舞って過ぎ去ってきた時間と、子どもとしていられる残された時間を思うと、胸が苦しく、切なくなる。
「こんなんで僕、大人になれるかな」
 器用じゃなくて、人一倍の努力を重ねても上手くいかないことがいっぱいあって、みんなにたくさん助けられながら、純夜は生きてきた。
 守られていたのは、子どもだからだ。
「大人に」
 不安が胸を()く。
「なれる」
 光輝が指の間に指を押し入れ、力強く、純夜の手を握ってくる。
「夏祭り。特別なおまじない、かけてやるから」
 ぐりぐりと額を擦りつけられる。尚も離れない手。このままでは、額と握りしめられた手から伝う体温が溶け合って、一つになってしまいそうだった。
「楽しみにしてろよ」
 ゆっくりと目の前が薄暗闇に戻る。
 光輝の笑顔はやっぱり陽の匂いがする。心が解れる。
 彼は純夜にとって、本当に、いつでもまぶしい、太陽の光、みたいだった。