「これはこれは……まさかの展開?」
上原は教室に入ってくるなり、早速目を丸くしながら声を掛けてきた。
その視線の先は、金光に肩を組まれている俺の姿を捉えている。
わかりやすくニヤニヤとした表情をしているのを見てイラッとくる。
この顔はぜったいに変な勘違いをしているに違いない。
「なんだ、南場ってやっぱり金光のこと好きだったんだ。仲良くなれたみたいでよかったじゃん」
「やっぱりって何だよ! 俺はコイツのことなんか少しも好きじゃねえっ!」
「ええ、そんなにくっついて全然説得力ないけど……」
ガルガルしながら言い返したが、「あらまあ」みたいな顔で笑われてしまった。
怒りと屈辱でぷるぷると握り締めた拳が震えてしまう。
昨日まで激しく嫌悪していた相手にこんなことを許すなんて、俺だって正直信じたくもない。
だけどそばにいないと怪奇現象に見舞われて命の危機に瀕するとくれば、己のプライドなど捨てるしかないんだ。
「これは不可抗力なの! コイツにくっついてないと死ぬかもしれないんだから、仕方ねえだろうが」
「お、そういう感じ? くっついてないと死ぬってぐらい好きなんだ?」
「ちげえよばかっ! どうしたらそんな脳内お花畑になれんだよおめーは……!」
こういうときの上原ほど相手に回して面倒臭いものはない。
そのニヤニヤ顔をなんとか崩してやろうと続けて言い返そうとすると、制するようにぐいっと身体を引っ張られた。
よろめいた俺は、呆気なく金光の腕の中にぽすんと収まる。
「なにすんだよ。つーかおまえも上原の誤解とくの手伝えよ」
「誤解ってなんのこと?」
「だからコイツが俺とおまえが仲良いとかクソみたいなことほざいてるから」
「仲良いのは事実だよね。昨日だって南場、俺に抱きついてきてたし?」
にっこりとしたわざとらしい笑顔で金光が発した言葉に、「おお……!」と上原が感心したように頷き始める。
だめだ、金光に話題を振った俺がバカだった。
すぐに後悔して、すぐそばにある無駄に整った顔をぎろりと睨み付ける。
「キモいこと言ってんじゃねえ、誰が好き好んでおまえなんかと……」
「ていうかごめん、俺ちょっとトイレ」
俺の言葉を遮った金光は、唐突にそんなことを告げると、ぱっと俺の身体から手を離した。
その途端に誰かに見られているような不気味な気配を感じて、ぶるりと身震いする。
背筋に冷たいものが走って、教室を出て行こうとする金光の背中に向かって、慌てて声を掛けた。
「おっ、俺も行く」
「おおっ、なになに? 連れションとか仲良すぎん?」
「だからちげーのっ‼︎」
やいのやいのと野次を飛ばしてくる上原を撒いて、廊下の先を歩く金光の隣になんとか追いついた。
まだ登校して来て三十分も経っていないのに、すでにとんでもなく疲れた。
「はあ……もう散々なんだけど。おまえのせいで変な勘違いされてサイアク」
「正直に言えばいいのに。霊に狙われてるって」
「言えるわけねーだろ! あんなの実際に体験してないと信じてもらえなくね? どうせ頭おかしいと思われて終わりだよ」
「確かにそうか」
現状、あんな恐怖を共に体験した金光としか俺の身に起きていることを共有することができない。それがすごくもどかしかった。
しかも唯一の救いが、よりによって特に苦手な部類に入るこの男なんて……。
せめて可愛い女の子だったらよかったのに。
げんなりとしながら深い溜息を吐くと、いつのまにか金光が隣で不自然に立ち止まっていた。
「なに?」
隣を見上げながら問い掛けると、金光は気まずそうな様子で視線を泳がせる。
「いや? さすがにトイレの中までついてこられるのは恥ずかしいなあって。南場がいいならいいけど」
「……っ、はやく行ってこいよ! 三十秒な!」
俺は無理やり金光をトイレの中に押し込むと、自分はくるりと身を翻して壁に背中をくっつけた。
金光の言う通りだ。高校生にもなって連れションなんて心底情けない。こうやって金光のトイレ待ちをしているのも屈辱的でしょうがない。
せめて誰にも見られませんように……。
祈りながら廊下で待機していると、不意に視界を黒いものが横切ったような気がした。
瞬きを繰り返すが、廊下には誰もいない。見間違いだろうか。
そんな風に結論付けた俺が、再び視線を上げると──。
「……ヒッ」
誰もいない廊下の向こう側に、黒いモヤモヤとした物体が浮かんでいるのを見た。
物体の身体には、無数の目玉がくっついている。
俺が声を上げると、赤い瞳がぎょろりと一斉に俺の方を向いた。
「か、金光っ‼︎」
俺は咄嗟にそう叫んで、無我夢中でトイレの中に駆け込む。
洗面台で手を洗っていた金光は弾かれたように顔を上げて、鏡越しに俺を見た。
「うわ、びっくりした。どうかした?」
「いま、変なのが廊下の向こう側に……っ」
「……まだ俺から離れて一分も経ってないのにな。南場、想像よりずっとまずい状況かもね」
金光が険しい表情をするのが、事態がどれほど深刻かを物語っている。
「そんな……ずっとこうやって怯えながら生活すんのかよ俺……」
ほんの一日前までは普通の生活を送っていたのに。
急にこんなことになって訳が分からない。
なるべく考えないようにしたいのに、気を抜くと頭の中は不安で埋め尽くされそうになる。
無意識のうちに視線が下がっていたのだろう。金光が俺の肩に手を置いたことで、ハッとして顔を上げた。
「大丈夫。俺がいるから」
さっきまでの難しい表情が嘘のように、柔らかな眼差しが向けられる。
穏やかなトーンの声が耳に入って、少しだけ緊張が解れたような気がした。
「俺がそばにいるうちは南場に手出しはできないだろ。心配いらないよ」
「でもずっと一緒ってわけにもいかないじゃんか。ひとりになったときのこと考えると怖ぇよ」
「そうだね。じゃあ南場がよければ、しばらく俺の家に泊まっていったら?」
もうここまでくれば、プライドもへったくれもなかった。
金光の世話になんかなりたくないのに、頼れるものが金光しかないんだから腹を括るしかない。
「……そうしよっかな」
まさか俺が素直に頷くとは思っていなかったのだろう。
金光はほんの一瞬目を見開いてから、満足そうに目尻を下げた。
それにしても、金光って結構世話好きだったんだな。
たいして仲良くもなければ、馬の合わない俺に対してこんなに世話を焼いて、家にまで招き入れるなんて。
*
木目の濃い天井にくすんだ色の壁が印象的な、畳敷きの和室。黒い机と椅子がひとつずつ並び、壁際には低い棚とハンガーラック、それからローベッドが置かれている。
どこか古めかしい印象を受けるそこは、爽やかな金光に抱いていたイメージと真逆だった。
「実家が寺って本当だったんだな」
「意外だよね。あ、荷物適当にその辺に置いていいよ」
「おー……」
俺は言葉を返しながら、部屋の隅に寄せて鞄を置いた。「座って」と促されて、ローベッドの縁に腰掛ける。
金光は畳に座布団を敷いて、俺の向かいに腰を下ろした。
「なんだよ」
手もち無沙汰でスマホを触っていると、金光がじっと俺を見上げていることに気づいた。
「ん? なんかしゅんとしてる南場可愛いなーって」
「はあ? キショ……しゅんとしてねえわ。普通に疲れただけだし」
「まあ確かに、なかなか濃い一日だったよね」
「謎の女に声掛けられてから、まだ一日しか経ってねえとか信じらんねえ……」
昨日の今頃はちょうど、意識を失っていた俺達が旧校舎で目を覚ました頃だろう。
あれから俺の生活が一変するなんて、夢にも思っていなかった。
「てかおまえのそのネックレス、じいちゃんから貰ったって言ってたけど、じいちゃんに言ったらもうひとつ作ってくれたりしない?」
俺は金光の首元を顎でしゃくりながら言った。
すると彼は、「あー……」と困ったような顔をして言い淀む。
「今はもういないんだ。じいちゃんの後を継いで父さんが坊さんやってるけど、父さんはそういうの疎くて」
「……そっか」
唯一残された頼みの綱も外されてしまった。
やっぱり俺には金光を頼る以外に生きていく方法はないらしい。
まるで先の見えないトンネルのようだと思った。
「てか父さんが坊さんってことは、金光もいずれ継ぐってこと?」
「ううん、兄さんが継ぐことになってる。俺はそういうの向いてないから」
金光は肩を竦めて苦笑いをした。
「それっておまえが霊感ある話となんか関係あんの?」
「はは、鋭いね。そういえば説明がまだだったっけ」
「何から話そっか」と微笑んだ金光は、片手で制服のネクタイを緩めた。じっとその姿を見下ろして、静かに続けられる言葉を待つ。
「信じてもらえるかわからないけど、俺は昔からこの世に存在しないものの姿が見えるんだ」
少し前だったら、まず信じなかったに違いない。金光の言葉を聞いてまず俺はそう思った。
だけど実際にあんな怪異と遭遇して、こんな状況になってしまった今は、さすがに信じざるを得ない。
「物心ついたときからずっとそうだったから、それがおかしいことだって気付いていなかった。そのせいで周りに見えたものや聞こえたことをそのままペラペラ喋って、気味悪がられることも少なくなかった」
穏やかな声で、淡々と金光が言葉を続ける。語られた姿は、冷静で落ち着いている今の金光からは想像もできない。
「そういえば昨日の……あのときはなんて聞こえたんだよ」
──この子、おまえに怒ってるみたい。
旧校舎で女の子のオバケと対峙したとき、金光は確かにそう言っていた。
「『笑うな』って」
「……笑うな?」
思いもよらない返答に、思わず目を丸くした。
「俺、あのとき笑ってた?」
「いや、俺に抱き着いてぶるぶる震えながら怯えてた」
「……だぁあーーっ!! だからそのことはもう忘れろって!」
余計なことを口にする金光を大声で牽制すると、「本当いじり甲斐があるなあ」と言って笑われた。
でも金光の言うように、確かに俺は恐怖に青ざめるばかりであの女の子のことを一度も笑ったりしていない。
それなら一体、どうしてそんなことを言っていたんだ?
「理由はわからないけど……とにかくあの様子だと、また南場を鏡の中に取り込もうと企んでるに違いない。なるべく俺も南場に付き添うようにするから、南場もなにかあったらすぐに逃げて、俺を呼んで」
「……わかった」
原因もわからずに呪われているなんて気味が悪いし、腑に落ちない。
逃げることしかできない現状だってもどかしい。
本当にこのままでいいんだろうか。
そんなモヤモヤが胸に渦巻くが、今の俺には立ち向かえる度胸はなかった。
「……あ」
ぐう、と間抜けな音が腹から鳴って、俺は思わず声を漏らした。
そういえば昼間も怪奇現象が気になって、なかなか食事が手に付かなかったのだ。
「お腹減ったよね。そろそろ夕飯できる頃だと思うけど──」
金光が言いかけるのと同時に、一階から「涼矢、メシ~!」と野太い声が聞こえてきた。
「うちの父さん、結構気難しいんだよね。態度悪かったりしたらごめん」
「多分へーき。俺意外とおっちゃんに好かれるタイプなんだよね」
自慢ではないが、口が巧いことは自負している。女の子を口説くことで鍛えられてきたからだ。
自信満々に胸を張る俺を見て、金光は「本当に大丈夫かなぁ」と心配そうな様子だった。
*
「あ~~美味かった。腹いっぱい」
部屋に戻ってきた俺はそう言いながらローベッドの縁にどっかりと腰を下ろした。久しぶりに感じる満腹感が腹と胸を満たしている。
金光の心配をよそに、俺と金光と金光の父ちゃんとの夕飯は大成功に終わった。
「それはよかった。でもびっくりしたよ、あの父さんがあんなに一瞬で打ち解けるなんて思わなかった」
「だから言っただろ? 俺の手にかかればお茶の子さいさいってわけよ」
気難しいと言っていたからどんな人なのかと思っていたが、想像以上に金光の父さんは気さくな人だった。
どうやらかなりの人見知りらしく、最初は仏頂面をしていたが、打ち解ければ明るい一面も見せてくれた。
「にしてもおまえの父ちゃんいいヤツだなぁ。料理も上手いし」
「どうも。あとで伝えておくよ。きっと次からも張り切って作ると思う」
「おまえ全然友達連れてこないんだって? 『あいつ友達いたんか……!?』︎って目ぇ丸くしてて笑ったわ」
「家が寺なんて知られたら、いろいろ面倒臭いからね。積極的に教えようとはしなかったかな」
「あんだよ、モテるって言いたいのかよ。いいよなぁ、なーんにもしなくても好かれる男はさぁ」
頭の後ろで手を組みながら嫌味ったらしく吐き出したのに、視線を向けた先の金光は、何故か柔らかい目をして俺の方を見ていた。
「ありがと、南場」
「は? なにが?」
礼を言われるような覚えなんてない。訝しむように目を細めると、金光はますます目元を緩めた。
「久しぶりに父さんの楽しそうな顔見れて嬉しかった。ずっと心配かけてきたから、ちょっとは親孝行できた気がする」
悪態のひとつでもついてやろうと思ったのに、その顔を見たら何も言えなくなってしまった。
(どっちかっていうと、礼を言わなきゃいけないのは俺の方なんだけど……)
無理やり上がり込んで夕飯まで邪魔させてもらって、さっきだって初対面の金光の父ちゃん相手にペラペラと自分語りをしていただけだ。
そんなものでこんなに喜ぶなんて、金光って案外単純なのだろうか。
──いや、そんなことよりも。
「……別に、俺だって」
自分に向けられる穏やかな表情がなんだかむず痒くて、視線を逸らしてしまった。
「ちょっとはおまえのこと、見直してやったっていうか……まあ金光がいないと現状生きていけないし? 感謝ぐらいはしてるよ」
そっぽを向きながら言い終えると、突然ベッドがぎしっと揺れた。
驚いて顔を戻すと、いつのまにか隣に金光が座っている。
目を丸くしているうちに、するすると金光の腕が俺の背中に回された。
「……うわっ、なに⁉︎」
隣から抱き締められるみたいな体勢になって困惑してしまう。
そんな俺にお構いなしに、金光はこつんと頭を俺の肩に乗せてくる。
「んー? 接触してる方が安心しない?」
「しねえわっ! 近ぇよバカ、苦しいから離れろっ!」
俺が必死に声を荒げているのに、金光は一向に離れる気配がない。
そのうち俺も抵抗する気が失せて、腕の中でがくりと肩を落とした。
「おまえ嫌じゃないの? むさ苦しい男同士でくっつくとか家に泊めるとかさあ、仲良くもない俺相手によく許せるよな」
「嫌じゃないよ。そもそも南場じゃなかったらこんなことまでしてないし」
「はあ? よく言うよ、俺のこと嫌いだからって前から意地悪なこと言うくせにさぁ」
ずっと抱えてきた鬱憤をここぞとばかりに晴らそうと文句を垂れると、金光はきょとんとした顔で俺の顔を覗き込んだ。
「俺、別に南場のこと嫌いじゃないよ」
いやいやそんなわけねえだろ、とでも言ってやるつもりだった。
だけど目が合った金光が、さも「当たり前だけど」みたいな顔をしていたので、俺は返す言葉を失くしてしまった。
「……っ、あっそ。つかもう眠いから寝るわ。布団どこ?」
「俺布団で寝るから、南場ベッド使いなよ」
「え、いいの? よっしゃ、ありがたく使わせてもらいまーす」
遠慮なんていう言葉は俺の辞書には載っていない。俺は待ってましたと言わんばかりにベッドに飛び乗ると、「んじゃおやすみ~」と言い残して、布団を被って金光に背を向けた。
畳の上に布団を敷いた金光が照明を落として、あっという間に室内が静まり返る。
──南場じゃなかったらこんなことまでしてないし。
──別に南場のこと嫌いじゃないよ。
それでも俺の頭の中には、さっき金光に言われた言葉がずっとリフレインしていた。
……なんだったんだ、あれは。いつもみたいにからかってんのか?
あのまま対峙していたら、変な勘違いでも起こすところだった。
まさか本気なわけないよな。だって俺が金光に好かれるような要素、ひとつもないし。
上原は教室に入ってくるなり、早速目を丸くしながら声を掛けてきた。
その視線の先は、金光に肩を組まれている俺の姿を捉えている。
わかりやすくニヤニヤとした表情をしているのを見てイラッとくる。
この顔はぜったいに変な勘違いをしているに違いない。
「なんだ、南場ってやっぱり金光のこと好きだったんだ。仲良くなれたみたいでよかったじゃん」
「やっぱりって何だよ! 俺はコイツのことなんか少しも好きじゃねえっ!」
「ええ、そんなにくっついて全然説得力ないけど……」
ガルガルしながら言い返したが、「あらまあ」みたいな顔で笑われてしまった。
怒りと屈辱でぷるぷると握り締めた拳が震えてしまう。
昨日まで激しく嫌悪していた相手にこんなことを許すなんて、俺だって正直信じたくもない。
だけどそばにいないと怪奇現象に見舞われて命の危機に瀕するとくれば、己のプライドなど捨てるしかないんだ。
「これは不可抗力なの! コイツにくっついてないと死ぬかもしれないんだから、仕方ねえだろうが」
「お、そういう感じ? くっついてないと死ぬってぐらい好きなんだ?」
「ちげえよばかっ! どうしたらそんな脳内お花畑になれんだよおめーは……!」
こういうときの上原ほど相手に回して面倒臭いものはない。
そのニヤニヤ顔をなんとか崩してやろうと続けて言い返そうとすると、制するようにぐいっと身体を引っ張られた。
よろめいた俺は、呆気なく金光の腕の中にぽすんと収まる。
「なにすんだよ。つーかおまえも上原の誤解とくの手伝えよ」
「誤解ってなんのこと?」
「だからコイツが俺とおまえが仲良いとかクソみたいなことほざいてるから」
「仲良いのは事実だよね。昨日だって南場、俺に抱きついてきてたし?」
にっこりとしたわざとらしい笑顔で金光が発した言葉に、「おお……!」と上原が感心したように頷き始める。
だめだ、金光に話題を振った俺がバカだった。
すぐに後悔して、すぐそばにある無駄に整った顔をぎろりと睨み付ける。
「キモいこと言ってんじゃねえ、誰が好き好んでおまえなんかと……」
「ていうかごめん、俺ちょっとトイレ」
俺の言葉を遮った金光は、唐突にそんなことを告げると、ぱっと俺の身体から手を離した。
その途端に誰かに見られているような不気味な気配を感じて、ぶるりと身震いする。
背筋に冷たいものが走って、教室を出て行こうとする金光の背中に向かって、慌てて声を掛けた。
「おっ、俺も行く」
「おおっ、なになに? 連れションとか仲良すぎん?」
「だからちげーのっ‼︎」
やいのやいのと野次を飛ばしてくる上原を撒いて、廊下の先を歩く金光の隣になんとか追いついた。
まだ登校して来て三十分も経っていないのに、すでにとんでもなく疲れた。
「はあ……もう散々なんだけど。おまえのせいで変な勘違いされてサイアク」
「正直に言えばいいのに。霊に狙われてるって」
「言えるわけねーだろ! あんなの実際に体験してないと信じてもらえなくね? どうせ頭おかしいと思われて終わりだよ」
「確かにそうか」
現状、あんな恐怖を共に体験した金光としか俺の身に起きていることを共有することができない。それがすごくもどかしかった。
しかも唯一の救いが、よりによって特に苦手な部類に入るこの男なんて……。
せめて可愛い女の子だったらよかったのに。
げんなりとしながら深い溜息を吐くと、いつのまにか金光が隣で不自然に立ち止まっていた。
「なに?」
隣を見上げながら問い掛けると、金光は気まずそうな様子で視線を泳がせる。
「いや? さすがにトイレの中までついてこられるのは恥ずかしいなあって。南場がいいならいいけど」
「……っ、はやく行ってこいよ! 三十秒な!」
俺は無理やり金光をトイレの中に押し込むと、自分はくるりと身を翻して壁に背中をくっつけた。
金光の言う通りだ。高校生にもなって連れションなんて心底情けない。こうやって金光のトイレ待ちをしているのも屈辱的でしょうがない。
せめて誰にも見られませんように……。
祈りながら廊下で待機していると、不意に視界を黒いものが横切ったような気がした。
瞬きを繰り返すが、廊下には誰もいない。見間違いだろうか。
そんな風に結論付けた俺が、再び視線を上げると──。
「……ヒッ」
誰もいない廊下の向こう側に、黒いモヤモヤとした物体が浮かんでいるのを見た。
物体の身体には、無数の目玉がくっついている。
俺が声を上げると、赤い瞳がぎょろりと一斉に俺の方を向いた。
「か、金光っ‼︎」
俺は咄嗟にそう叫んで、無我夢中でトイレの中に駆け込む。
洗面台で手を洗っていた金光は弾かれたように顔を上げて、鏡越しに俺を見た。
「うわ、びっくりした。どうかした?」
「いま、変なのが廊下の向こう側に……っ」
「……まだ俺から離れて一分も経ってないのにな。南場、想像よりずっとまずい状況かもね」
金光が険しい表情をするのが、事態がどれほど深刻かを物語っている。
「そんな……ずっとこうやって怯えながら生活すんのかよ俺……」
ほんの一日前までは普通の生活を送っていたのに。
急にこんなことになって訳が分からない。
なるべく考えないようにしたいのに、気を抜くと頭の中は不安で埋め尽くされそうになる。
無意識のうちに視線が下がっていたのだろう。金光が俺の肩に手を置いたことで、ハッとして顔を上げた。
「大丈夫。俺がいるから」
さっきまでの難しい表情が嘘のように、柔らかな眼差しが向けられる。
穏やかなトーンの声が耳に入って、少しだけ緊張が解れたような気がした。
「俺がそばにいるうちは南場に手出しはできないだろ。心配いらないよ」
「でもずっと一緒ってわけにもいかないじゃんか。ひとりになったときのこと考えると怖ぇよ」
「そうだね。じゃあ南場がよければ、しばらく俺の家に泊まっていったら?」
もうここまでくれば、プライドもへったくれもなかった。
金光の世話になんかなりたくないのに、頼れるものが金光しかないんだから腹を括るしかない。
「……そうしよっかな」
まさか俺が素直に頷くとは思っていなかったのだろう。
金光はほんの一瞬目を見開いてから、満足そうに目尻を下げた。
それにしても、金光って結構世話好きだったんだな。
たいして仲良くもなければ、馬の合わない俺に対してこんなに世話を焼いて、家にまで招き入れるなんて。
*
木目の濃い天井にくすんだ色の壁が印象的な、畳敷きの和室。黒い机と椅子がひとつずつ並び、壁際には低い棚とハンガーラック、それからローベッドが置かれている。
どこか古めかしい印象を受けるそこは、爽やかな金光に抱いていたイメージと真逆だった。
「実家が寺って本当だったんだな」
「意外だよね。あ、荷物適当にその辺に置いていいよ」
「おー……」
俺は言葉を返しながら、部屋の隅に寄せて鞄を置いた。「座って」と促されて、ローベッドの縁に腰掛ける。
金光は畳に座布団を敷いて、俺の向かいに腰を下ろした。
「なんだよ」
手もち無沙汰でスマホを触っていると、金光がじっと俺を見上げていることに気づいた。
「ん? なんかしゅんとしてる南場可愛いなーって」
「はあ? キショ……しゅんとしてねえわ。普通に疲れただけだし」
「まあ確かに、なかなか濃い一日だったよね」
「謎の女に声掛けられてから、まだ一日しか経ってねえとか信じらんねえ……」
昨日の今頃はちょうど、意識を失っていた俺達が旧校舎で目を覚ました頃だろう。
あれから俺の生活が一変するなんて、夢にも思っていなかった。
「てかおまえのそのネックレス、じいちゃんから貰ったって言ってたけど、じいちゃんに言ったらもうひとつ作ってくれたりしない?」
俺は金光の首元を顎でしゃくりながら言った。
すると彼は、「あー……」と困ったような顔をして言い淀む。
「今はもういないんだ。じいちゃんの後を継いで父さんが坊さんやってるけど、父さんはそういうの疎くて」
「……そっか」
唯一残された頼みの綱も外されてしまった。
やっぱり俺には金光を頼る以外に生きていく方法はないらしい。
まるで先の見えないトンネルのようだと思った。
「てか父さんが坊さんってことは、金光もいずれ継ぐってこと?」
「ううん、兄さんが継ぐことになってる。俺はそういうの向いてないから」
金光は肩を竦めて苦笑いをした。
「それっておまえが霊感ある話となんか関係あんの?」
「はは、鋭いね。そういえば説明がまだだったっけ」
「何から話そっか」と微笑んだ金光は、片手で制服のネクタイを緩めた。じっとその姿を見下ろして、静かに続けられる言葉を待つ。
「信じてもらえるかわからないけど、俺は昔からこの世に存在しないものの姿が見えるんだ」
少し前だったら、まず信じなかったに違いない。金光の言葉を聞いてまず俺はそう思った。
だけど実際にあんな怪異と遭遇して、こんな状況になってしまった今は、さすがに信じざるを得ない。
「物心ついたときからずっとそうだったから、それがおかしいことだって気付いていなかった。そのせいで周りに見えたものや聞こえたことをそのままペラペラ喋って、気味悪がられることも少なくなかった」
穏やかな声で、淡々と金光が言葉を続ける。語られた姿は、冷静で落ち着いている今の金光からは想像もできない。
「そういえば昨日の……あのときはなんて聞こえたんだよ」
──この子、おまえに怒ってるみたい。
旧校舎で女の子のオバケと対峙したとき、金光は確かにそう言っていた。
「『笑うな』って」
「……笑うな?」
思いもよらない返答に、思わず目を丸くした。
「俺、あのとき笑ってた?」
「いや、俺に抱き着いてぶるぶる震えながら怯えてた」
「……だぁあーーっ!! だからそのことはもう忘れろって!」
余計なことを口にする金光を大声で牽制すると、「本当いじり甲斐があるなあ」と言って笑われた。
でも金光の言うように、確かに俺は恐怖に青ざめるばかりであの女の子のことを一度も笑ったりしていない。
それなら一体、どうしてそんなことを言っていたんだ?
「理由はわからないけど……とにかくあの様子だと、また南場を鏡の中に取り込もうと企んでるに違いない。なるべく俺も南場に付き添うようにするから、南場もなにかあったらすぐに逃げて、俺を呼んで」
「……わかった」
原因もわからずに呪われているなんて気味が悪いし、腑に落ちない。
逃げることしかできない現状だってもどかしい。
本当にこのままでいいんだろうか。
そんなモヤモヤが胸に渦巻くが、今の俺には立ち向かえる度胸はなかった。
「……あ」
ぐう、と間抜けな音が腹から鳴って、俺は思わず声を漏らした。
そういえば昼間も怪奇現象が気になって、なかなか食事が手に付かなかったのだ。
「お腹減ったよね。そろそろ夕飯できる頃だと思うけど──」
金光が言いかけるのと同時に、一階から「涼矢、メシ~!」と野太い声が聞こえてきた。
「うちの父さん、結構気難しいんだよね。態度悪かったりしたらごめん」
「多分へーき。俺意外とおっちゃんに好かれるタイプなんだよね」
自慢ではないが、口が巧いことは自負している。女の子を口説くことで鍛えられてきたからだ。
自信満々に胸を張る俺を見て、金光は「本当に大丈夫かなぁ」と心配そうな様子だった。
*
「あ~~美味かった。腹いっぱい」
部屋に戻ってきた俺はそう言いながらローベッドの縁にどっかりと腰を下ろした。久しぶりに感じる満腹感が腹と胸を満たしている。
金光の心配をよそに、俺と金光と金光の父ちゃんとの夕飯は大成功に終わった。
「それはよかった。でもびっくりしたよ、あの父さんがあんなに一瞬で打ち解けるなんて思わなかった」
「だから言っただろ? 俺の手にかかればお茶の子さいさいってわけよ」
気難しいと言っていたからどんな人なのかと思っていたが、想像以上に金光の父さんは気さくな人だった。
どうやらかなりの人見知りらしく、最初は仏頂面をしていたが、打ち解ければ明るい一面も見せてくれた。
「にしてもおまえの父ちゃんいいヤツだなぁ。料理も上手いし」
「どうも。あとで伝えておくよ。きっと次からも張り切って作ると思う」
「おまえ全然友達連れてこないんだって? 『あいつ友達いたんか……!?』︎って目ぇ丸くしてて笑ったわ」
「家が寺なんて知られたら、いろいろ面倒臭いからね。積極的に教えようとはしなかったかな」
「あんだよ、モテるって言いたいのかよ。いいよなぁ、なーんにもしなくても好かれる男はさぁ」
頭の後ろで手を組みながら嫌味ったらしく吐き出したのに、視線を向けた先の金光は、何故か柔らかい目をして俺の方を見ていた。
「ありがと、南場」
「は? なにが?」
礼を言われるような覚えなんてない。訝しむように目を細めると、金光はますます目元を緩めた。
「久しぶりに父さんの楽しそうな顔見れて嬉しかった。ずっと心配かけてきたから、ちょっとは親孝行できた気がする」
悪態のひとつでもついてやろうと思ったのに、その顔を見たら何も言えなくなってしまった。
(どっちかっていうと、礼を言わなきゃいけないのは俺の方なんだけど……)
無理やり上がり込んで夕飯まで邪魔させてもらって、さっきだって初対面の金光の父ちゃん相手にペラペラと自分語りをしていただけだ。
そんなものでこんなに喜ぶなんて、金光って案外単純なのだろうか。
──いや、そんなことよりも。
「……別に、俺だって」
自分に向けられる穏やかな表情がなんだかむず痒くて、視線を逸らしてしまった。
「ちょっとはおまえのこと、見直してやったっていうか……まあ金光がいないと現状生きていけないし? 感謝ぐらいはしてるよ」
そっぽを向きながら言い終えると、突然ベッドがぎしっと揺れた。
驚いて顔を戻すと、いつのまにか隣に金光が座っている。
目を丸くしているうちに、するすると金光の腕が俺の背中に回された。
「……うわっ、なに⁉︎」
隣から抱き締められるみたいな体勢になって困惑してしまう。
そんな俺にお構いなしに、金光はこつんと頭を俺の肩に乗せてくる。
「んー? 接触してる方が安心しない?」
「しねえわっ! 近ぇよバカ、苦しいから離れろっ!」
俺が必死に声を荒げているのに、金光は一向に離れる気配がない。
そのうち俺も抵抗する気が失せて、腕の中でがくりと肩を落とした。
「おまえ嫌じゃないの? むさ苦しい男同士でくっつくとか家に泊めるとかさあ、仲良くもない俺相手によく許せるよな」
「嫌じゃないよ。そもそも南場じゃなかったらこんなことまでしてないし」
「はあ? よく言うよ、俺のこと嫌いだからって前から意地悪なこと言うくせにさぁ」
ずっと抱えてきた鬱憤をここぞとばかりに晴らそうと文句を垂れると、金光はきょとんとした顔で俺の顔を覗き込んだ。
「俺、別に南場のこと嫌いじゃないよ」
いやいやそんなわけねえだろ、とでも言ってやるつもりだった。
だけど目が合った金光が、さも「当たり前だけど」みたいな顔をしていたので、俺は返す言葉を失くしてしまった。
「……っ、あっそ。つかもう眠いから寝るわ。布団どこ?」
「俺布団で寝るから、南場ベッド使いなよ」
「え、いいの? よっしゃ、ありがたく使わせてもらいまーす」
遠慮なんていう言葉は俺の辞書には載っていない。俺は待ってましたと言わんばかりにベッドに飛び乗ると、「んじゃおやすみ~」と言い残して、布団を被って金光に背を向けた。
畳の上に布団を敷いた金光が照明を落として、あっという間に室内が静まり返る。
──南場じゃなかったらこんなことまでしてないし。
──別に南場のこと嫌いじゃないよ。
それでも俺の頭の中には、さっき金光に言われた言葉がずっとリフレインしていた。
……なんだったんだ、あれは。いつもみたいにからかってんのか?
あのまま対峙していたら、変な勘違いでも起こすところだった。
まさか本気なわけないよな。だって俺が金光に好かれるような要素、ひとつもないし。


