「最ッッ低……っ!」
わかりやすく憎しみの込められた金切り声が、放課後の廊下に響き渡った。道ゆく生徒たちが驚いたように振り向くのが視界の端に映る。
ああ、またこのパターンか……。何度も繰り返されてきたやり取りに、いい加減辟易してしまう。
「あんたなんかと付き合うんじゃなかったッ!」
頭がキーンとするような甲高い声が耳をつんざく。つい数分前まで彼女だった相手は目に涙を溜めて、憎しみのこもった目で俺のことを睨み付けていた。
走り去っていく彼女の背中が小さくなっていくのを眺めながら、俺は小さく舌打ちをこぼした。
「マジいってえ~~。カヨあいつ、よりによってグーパンしやがって」
教室に戻ってきた俺──南場眞絃は、打たれたばかりの左頬をさすりながら愚痴をこぼした。
染めたばかりの栗色の髪に、幼く見られがちな自慢のぱっちり二重。その下で頬は赤く腫れてしまっている。これではせっかくのイケメンが台無しだ。
ドカッと勢いよく席に着くと、前に座っていた上原が待ってましたと言わんばかりに振り返る。緩いパーマの掛けられた黒い髪は、いつ見てもマリモみたいだ。
「まーた派手にやられたなあ。うはは、それぜってー青くなるやつじゃん」
「なに撮ってんだよ! 消せバカっ!」
ここぞとばかりに俺の顔にカメラを向けてくる上原を怒鳴りつけた。
写真部だかなんだか知らないが、コイツの撮影癖には呆れてしまう。
何度勝手に盗撮されたことか。そのたびにキレまくっているのに、ちっとも響いてないらしい。
「つかマジでカヨのヤツ、どんな馬鹿力してんだよ。今朝まで鞄ひとつ持てませーん、みたいな素振り見せてたくせによお」
「女子ってマジでこえーぞ。南場もいい加減懲りればいいのに」
「なにがだよ、今回に関しては俺に落ち度はないね」
しれっとそう返せば、上原は「聞いてやろうじゃん」とわくわくした様子で俺の机の上に両腕を置いた。
「他校の女子と連絡先交換して、ちょっと連絡取り合っただけだぜ? それを浮気だって決めつけて、そんなつもりないから堂々とあいつの前で画面開いてやってたってのにさあ」
俺としては完全なる潔白アピールのつもりだったのに、トーク画面を勝手に横から覗き込むなり、みるみるうちに眉を吊り上げて「誰それ!?」なんて激昂されてしまったのだ。
誰それも何も、ただの他校の女子だ。まあ、これから距離が縮まる可能性もゼロパーセントではないけど。
「あわよくばワンチャン狙ってるおまえの思考がバレたんじゃないのか?」
「はあ~? そりゃあカヨより胸もでかいし小柄で可愛いし、あっちがその気なら……まあ?」
「うわあ最低。そういう汚い思考を一瞬で見抜いたんだよカヨちゃんは」
上原がメガネの奥で呆れたように目を細める。
俺の思考はけっして汚くなんかないはずだ。だってどうせなら『より良い女子』と付き合いたいに決まってる。きっと男なら誰しも思っているに違いない。
そう考えていると、ふっと近くから人の気配を感じた。
「──そもそも彼女が嫌だって言ったんなら、その時点でやめるべきじゃない?」
すぐそばから聞こえてきたのは、上原のものじゃないもうひとつの声。妙に落ち着き払った声に嫌な予感を感じながら、俺は視線を右上に移した。
「恋人を不安な気持ちにさせてまで他の女子と連絡取りたいなんて、南場ってすごくアグレッシブなんだね」
「金光涼矢……」
出たな疫病神。その姿を見るなり、俺は隠しもせずにチッと舌打ちを吐き出す。
爽やかを気取った黒髪に無駄に整った顔立ちのそいつは、隣に立っているだけで迫力が凄い。
実に刺々しく嫌味ったらしい言葉とは裏腹に、その表情は清々しくにこやかだ。
見下ろされているみたいで気分が悪い。隙のない笑顔を貼り付けた宿敵の登場に、耐え切れず俺は椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
「てめえに関係ねえだろが……。勝手に盗み聞きしてんな、きめえんだよ」
「ごめんね。でもそんなに大きな声で喋ってたら聞きたくなくても勝手に耳に入ってくるって」
「言い訳してんじゃねえ禿げろバーカ。……上原、あぐれっしぶってどういう意味だ」
こっそりと腰を屈めて問い掛けると、上原は「積極的とかそういう感じ」と小声で教えてくれた。
「あはは、英語苦手?」
「黙れ」
しかし会話は筒抜けだったらしい。クスクスと馬鹿にしたように笑われて、うんざりとした気持ちになりながら、俺は再び椅子に腰を下ろした。
金光のこの常に他人を見下したような態度が癇に障るが、何故かコイツは他の奴にはこういう絡み方をしない。
俺だけに意地が悪いとかそんな特別はまったく嬉しくない。
爽やか全開で他のクラスメイトとコミュニケーションをとっているのを目撃するたびに反吐が出そうになる。俺には喧嘩しか売ってこないくせに。
「でも南場はさ、ホント金光を見習った方がいいよ」
「はあ?」
味方のはずの上原が不意にそんなことを言い出すので、俺は大袈裟に顔をしかめた。
「おまえの女癖の悪さ、端から見てもやばいもん。はっきり言って世の中舐めすぎ!」
真面目腐った顔をした上原が、俺の顔に向かって人差し指を突き立てる。大体お前は、といつものように説教が始まったので、またその話かと飽き飽きして窓の方に顔を背けた。
女癖が悪いというか、確かに女の子をとっかえひっかえしている自覚はある。だって一度きりの人生だし、どうせなら自分が一番楽しく生きたい。
こんなマインドの俺だけど、性格はクソだけど顔だけはいい父親と、芸能を少しかじっていた母親の遺伝子によって容姿に恵まれたおかげか、それでも好意的に寄ってきてくれる女の子の方が多い。
真面目に付き合うなんてアホらしい。彼女たちはどうせ俺の顔が好きなだけだし、俺は色んな女の子と遊ぶのが好きだし、互いに楽しく遊べたらそれでいいじゃん。
最初はそんなノリで付き合い出した女の子も、慣れてくると次第にわがままを言うようになるから面倒臭いんだけど。
「──……おい、聞いてんのか南場!」
「あーうん、聞いた聞いた。反省してまーす」
「それに比べて女子に対する紳士的な対応は、金光の右に出る者はいないだろ」
言いながら上原の視線が、俺の横に立っている金光に向けられる。
まだいたのかよコイツ。ずっと突っ立ってて暇か。早く帰れよ。
ぎろっと睨みつけてやったが、金光はニコニコと気味の悪い笑みを返してくるばかりだ。
「どこか紳士だよ。ただ全員振ってるだけじゃねえか。むしろ女の敵だろ」
金光はとにかくモテる。冗談でなく三日に一度は女の子に呼び出されているのを目にするぐらいだ。言い寄られておいて誰とも付き合わないなんて、俺からしたらどうかしてる。
俺のレベルに釣り合う女子はいないとでも言いたいのだろうか。むしろ軽率でも付き合ってあげてる俺の方が幾分か優しいはずだと俺は思う。
はんと鼻を鳴らして笑う俺の前で、「それが違うんだなあ~」と頬杖をつきながら上原が言った。
「金光は振るときも絶対に女の子を泣かせないって有名なんだよ。金光に告白した女子は、みんな満足そうな顔をして帰っていくらしい」
「なんだそれ。金でも渡してんじゃねえの」
「ふふ、南場の発想って面白いね」
ムカつく張本人に横からクスクスと揶揄うように笑われたので、俺は下からメンチを切るように覗き込んだ。
「あ? 喧嘩売ってんのかてめえ」
「はいはい、すぐダル絡みしない。とにかく南場はその女癖直さないと、いつか痛い目見るからな」
「あーハイハイ。だいじょぶ、タイマンなら余裕で勝てる。俺空手やってたし」
「そういう問題じゃないんだけどなぁ……」
俺が答えると、上原はがっくりと肩を落とした。心配性で慎重な上原とも、なにを考えているのかわからない不気味な金光とも違う。
俺は後悔しない人生を歩みたい。好きなときに好きな子と遊んで、自分のやりたいことをやる。そうやって十七年間生きてきたし、今更生き方を変えるつもりもない。
だからごめんな上原。本音はあんまり反省してないけど、形だけ心の中でそんな風に詫びを入れておいた。
*
「あ~~もう、なんだあのプリント! 嫌がらせとしか思えねえ」
いつのまにか窓の外は暗くなっている。二時間ほど補習のために狭い教室に缶詰めに状態だったせいだ。俺はポケットに手を突っ込みながら、重い身体を引きずるようにだらだらと廊下を歩いた。
「こんな時間になっちまったし……今日はマユちゃんとデートのはずだったのにさあ……」
帰ろうとしたら数学の教師に待ち伏せされていたせいで、急遽女の子との約束を断るはめになってしまった。
今から連絡したら夕飯ぐらい一緒にできるだろうか。そしてあわよくばその後……。
そうと決まれば話は早い。スマホを取り出してトーク画面を開いた俺は、異常な数の通知がきていることに気付いてぎょっとする。
「なんだよカヨか……しつこいなアイツ」
昼に別れたばかりだというのに、百件を超えるメッセージが届いていた。既読をつけないように中身だけ見ると、『さっきはごめん』『やっぱりヨリ戻したい』『返事して』という内容のものがほとんどだった。
気味が悪いな。こうなる前に別れておけばよかった。
去る者追わず。それが俺のモットーだし、あんな風にぶん殴られておいて忘れたふりをして付き合うなんて不可能だ。
「ブロックブロック。そんなことより俺はマユちゃんに用があんだよ」
カヨのトークを削除して、マユちゃんのトークを開く。早速文字を打ち込もうとした俺は、後ろから「南場くん」というか細い声が聞こえて動きを止めた。振り向くと腰辺りまでの長い黒髪が特徴的な女子生徒が立っている。
「話があるんだけど、今いいかな?」
気恥ずかしそうに首を傾げる彼女の肌は色白で、顔立ちは可愛らしく俺好みだ。こんな儚げな美人が同じ学校にいたことに驚きを隠せない。しかも俺に好意があるときた。こんな魅力的な誘いに乗らないなんて男じゃない。
「いーよ。別のとこ移動する?」
「うん。……じゃあこっち、着いてきて」
俺はスマホをポケットに戻して、浮かれた足取りで先を歩いていく彼女の後を追った。
てっきり外に出るために玄関にでも行くのかと思ったが、彼女は下駄箱を素通りして廊下の奥へと進んでいく。いつもなら施錠されているはずの勝手口を難なく開けると、上靴のまま土を踏んで、迷いなく中庭を通り抜けていった。
(どこまで行くんだろう。っていうかこっちにあるのって多分……)
俺の予想は当たっていた。彼女が俺を連れてきたのは、今はもう使われていない旧校舎の前だった。
俺が入学する随分前から立ち入り禁止になっているらしい旧校舎の窓やドアには、『KEEP OUT』という黄色のテープが至る所に貼られている。旧校舎には入ってはいけないというのが、俺らの中での暗黙の了解だった。
(……えっ、なんで鍵開いてんだ?)
以前クラスメイトが肝試し感覚で旧校舎に忍び込もうとしたが、どこも鍵がかかっていて入れなかったとぼやいていたのを覚えている。それなのに俺の前で彼女はたった今、まるで最初から鍵が開いていることを知っていたみたいにすんなりと扉を開いた。
「なあ、ここって勝手に入っていーの?」
問いかけてみるが返事はない。初めて足を踏み入れる旧校舎は、九月だというのに身震いしてしまうほどひんやりとしていた。電気は通っていないのか、近くにあるスイッチを押してみても明かりが灯ることはない。
前が見えないので、スマホのライトで照らしながら歩いた。初めて訪れて何がどこにあるのか見当もつかない俺とは違って、女の子は勝手知ったるような足取りで階段を上っていく。
(しかし全然人気がねえな……。ここならエロいことし放題じゃね?)
前を歩く彼女の短いスカートがひらひらと揺れるたびに、俺の頭をいかがわしい妄想が占めていった。
頬が緩みかけたそのとき、階段を上り切った先の壁にライトを当てた俺は、思わず「うおっ」と声をあげる。
「……ビビったー。なんだこのシミ」
驚いたのは、茶色のシミのようなものが壁にべったりと染み付いていたからだ。
(ってかなんか人の顔に見えるくね? 気味わりーな)
眉毛が二つ、目が二つ、鼻と口が一つずつ。苦しそうに叫んでいるみたいな顔が浮かび上がってくるように見えてきて、ライトをさっと別の方向に向ける。
そういえば旧校舎にまつわる噂を前に聞いたことがある。一番謎なのが、誰も使っていないのに一向に取り壊されないということだ。その理由は未だにわかっていない。
「──なあ、どこまで行くん? つーかそっち行き止まりじゃない?」
考えごとをしながら歩いていた俺は、はっと気付いて前を歩く女の子に声を掛けた。連れられるまま、いつのまにか三階まで来てしまった。俺の声にようやく足を止めた彼女は、廊下の端にあった教室の扉をがらっと開ける。
手招かれるままに中に入ると、教室の中はがらんとしていた。あるはずの机も椅子もなにひとつない。ただ教壇の向かい側に、壁の中央をぶち抜いたかのように、大きな鏡が置かれていた。
明らかに異質な存在に目を奪われる。一体ここは何の目的で作られた教室なんだろう。表札を見たが真っ白になっていて、その答えはわからなかった。
「ねえ南場くん、ひとつ聞いてもいい?」
鏡の前で立ち止まった彼女から声が掛けられる。教室の入口で立ち止まっていた俺は、なんとなく中には入らずにその場から言葉を返した。
「ん、なにー?」
「きみにとって、『好き』ってどんなもの?」
突拍子もない質問に、一瞬固まってしまった。女の子は俺に背を向けたままだから、その表情は読めない。
「なにそれ~? 俺いま何か試されてる?」
「まあそんな感じ。正直に答えてね」
「えーむず。おっけ、真面目に考えるからちょい待って」
俺は扉にもたれかかり、腕を組んで思考を巡らせてみた。
彼女が言う『好き』っていうのは、多分恋愛的な意味を指すのだろう。
女の子が喜びそうな答えなら知っている。宝物みたいに大事だとか、言葉なんかじゃ言い表せないぐらい好きだとか、多分そういうことを言ったら満足してもらえるに違いない。
だけど俺の本音は真逆のところにあるし、そんなことは一ミリも思っていない。
「うーん……そうだな、消耗品みたいなモンかな。女の子に好きって言ってもらえんのってちょー嬉しいし、一緒にいて楽しいーって思うけど……」
頭にぼんやりと浮かんでいるイメージを、なんとか言語化しようと言葉を紡ぐ。
「どんだけ燃え上がっても一瞬で冷めるんだよね。好きって言っとけばとりあえず喜んでくれるから、使い捨ての都合のいいツールって感じで使ってるかなぁ。一途に誰かのことを好きになるとか馬鹿馬鹿しすぎて、そういうヤツら見てると反吐が出るし」
言い終わってから、ぱちっと夢から覚めるみたいに意識が覚醒した。
(あれ? 俺はなに女の子相手に本音をぶちまけてんだ……?)
正直に答えてねなんて言われたって、馬鹿正直に本当のことを言うつもりなんか少しもなかった。
それなのに今俺は、とんでもないことを口にしたような気がする。腹の底に隠していた本心を、全て曝してしまったような。
「そっか。やっぱりきみはfgyせkbで────…………」
「え? なに?」
ザーッとノイズが走ったみたいに彼女の声が聞き取れなくなって、身を乗り出して聞き返す。
あれ? この部屋、こんなに狭かったっけ……。
ふと頭に疑問が浮かんで、眉根をひそめた。教室に入ったときはもっと距離をとっていたはずの鏡も女の子も、いつのまにか俺が数歩進めば届く距離にある。
俺が近付いたのか? いや、俺はずっと入口から一歩も動いていない。
それに何だ、悪寒のようなこの感覚は。発熱したときとはまた違う、なにかが迫りくるような本能的な恐怖。
違和感を覚えた俺が一歩後退ろうとしたそのとき。ずっと俺に背を向けていた女の子が、ゆっくりと俺の方を振り向いた。
「ひっ……!」
その顔を目にした瞬間に思いがけず情けない声が漏れて、尻餅をつきそうになるのを壁に手を付いて堪える。
青白く染まった顔は目に見えて生気がなかった。白目まで真っ赤に染め上げられた瞳で、目の前の彼女はニタリと不気味に微笑んでいた。
「……っ」
頭の中で警鐘が鳴っている。間違いなく今まで生きてきた中で一番やばい。そう感じ取って全身の細胞が震えている。
俺は勢いよく教室を飛び出して、真っ暗な廊下を駆け出した。スマホを持つ手がガタガタと震えている。それでも必死に自分の前を頼りない光で照らしながら、必死に全力で足を動かす。
(なんなんだよあれ……っ! あれってオバ……お、オバ……だよな!?)
最悪なことに、さっき見てしまった女の子の顔が脳裏に焼き付いて離れなくなった。振り切るようにぶんぶんと頭を左右に振りながら、廊下を駆け抜ける。そうしてしばらく走り続けた後に違和感に気付いた。
(待て待て、階段がない……)
確かに上ってきたはずの階段がなくなっている。そればかりか、さっきからどれだけ走っても廊下の端に辿り着かない。
ライトで照らした廊下の先は真っ暗で、無限に続く暗いトンネルのようだ。走っても走っても教室の窓が流れていくだけの、同じ景色の繰り返し。息を切らす俺の声だけがうるさく響く。
あ、これ詰んだ──頭が真っ白になりかけた次の瞬間、後ろからそっと肩に手が置かれた。ひんやりとした冷たい感触に、背筋をゾクゾクとしたものが駆け上がる。背後に人の気配を感じて、恐怖に唇を引き結んだ。
「南場? ……あー、やっぱり南場だ」
「…………金光?」
顔を覗き込まれてビクッと肩を上げたのも束の間、見慣れた顔にほっと胸を撫で下ろす。
どうやら俺の肩を叩いたのはさっきの女の子ではなく、この男だったらしい。全身にびっしょりと汗をかき、心臓を激しく鳴らす俺とは対照的に、金光は光らせたスマホを片手にいつもの緩やかな笑みを浮かべている。
「なんでおまえがここに……」
言いかけた俺の頭に、一つの可能性が思い浮かぶ。
「もしかしておまえも、あの女子に呼び出されたのか⁉︎」
「……うん、そうだよ。南場も?」
「くっそーやっぱりか……俺だけだと思ってたのに、結局金光も一緒なのかよ……!」
途端に悔しさが込み上げてきて、ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱した。
最近はずっとこんなことばかりだ。好きでもないのに金光とセット扱いされたり、金光に相手にされなかった女子が『南場くんでいっか』なんて話しているのを聞いてしまったり、本当にこの男は憎たらしい。
「南場。その女子っていうのは、どこに?」
「え? ……あーっ、そうだ! おまえ知らねえのか⁉︎ あいつやべえんだよ! いきなり訳わからん言語話してきて、振り向いたと思ったら、顔もこう、映画に出てきそうな感じの、オ、オ、オバ……」
「オバ?」
「オバ……」
この先を口にすることすら怖い。言い淀む俺を見て、金光はきょとんとした顔で首を傾げている。
むしろここまで言ってるんだから察しろよ。こんな状況でも通常運転の金光を見ていると、なんだか気が抜けてくる。
ふっと一瞬緊張をほどいた瞬間だった。不意に後ろに気配を感じて振り向くと、さっき俺が撒いてきたはずの女の子が少し離れた場所に立っていた。
「う、うわーっ! ででで、でたーーっ!」
驚きと恐怖がごちゃ混ぜになったよくわからない感情で胸が満たされて、大きな声を出さずにはいられなかった。
耳障りなキーンとした音が耳の中に入ってくる。なりふり構ってなどいられなくて、反射的にそばにいた金光の身体にきつく抱き着いた。
細身に見える金光は意外とがっしりとしていて、コアラのように両手と両足を絡みつく俺の腰を片手で支えてくれた。
「勘弁してぇ……無理なんだって俺、家でホラー番組やってたら即変えるしCM観るだけで夜トイレ行くの怖くなるんだってば……マジ無理、ムリムリムリ」
一瞬見ただけだから女の子の表情はよくわからなかった。だけどきっとまだあの気味の悪い笑顔を浮かべているに違いない。
なにか喋っていないと怖くて落ち着かない俺と違って、金光はずっと黙り込んで彼女を見つめている。触れた身体から金光の心臓の音が伝わってくるが、動揺している様子は少しもない。
「……南場、心当たりは?」
「えっ? なに、なんのこと?」
「この子、おまえに怒ってるみたい」
真面目な顔をして金光がそう言った。
「はあ? なんでそんなことわかんだよ。また俺のことからかってんのか」
「違うよ。細かい説明は今は省くけど、たった今そう『聞こえた』んだ」
「聞こえただぁ? さっきからキーンって音以外何も聞こえねえけど……」
金光には違う声が聞こえているとでもいうのか。意味がわからなくて視線を彷徨わせていた俺は、不意に顔を向けた先にある物を見つけて目を丸くした。
「うわぁーーっ! なんか増えたぁーーっ⁉︎」
「全身鏡だね」
冷静に返されてとっても癪だが、そんなことは今はどうだっていい。さっきまではただの壁だった場所に、金光と俺の二人を映し出せるほどの大きな鏡が現れた。
それは俺が最初に女の子に連れられてやってきた教室にあったものと同じ鏡だった。
「……まずいな。このままだと取り込まれる」
言葉を失っていると、金光が唐突にそんな不穏なことを言い出した。
俺は頭の中をクエスチョンマークで埋めるばかりで、すぐに反応することができない。
「逃げるよ」
「はっ⁉︎」
言うなり俺のことを抱きかかえたまま、金光が走り出す。いや、六十キロ近くある俺を抱えて走れるってバケモノかよ。
金光と共に風を切りながら、やっぱりどこにも階段が存在しないことを再確認する。どれだけ廊下の先に進んでも、出口らしい出口すら見当たらない。
「おいっ、どうすんだよこれ。どっかその辺の教室にでも逃げ込んで──」
【ニ ガ サ ナ イ】
今度は俺にもはっきりと声が聞こえた。機械で合成されたような、色んな声が合わさったようなおどろおどろしい声。
耳にした途端にぶるっと背中が震える。金光のことを掴んでいた腕が緩んでしまって、俺は大きく体勢を崩した。
「うわぁっ!」
身体が宙に浮いたその瞬間、まるでその時を待っていたとでも言うように、無数の黒い腕が鏡の中から俺のもとに伸びてきた。
いくつもの湿った手が、俺の両手と両足を拘束する。あっという間に身体の自由を奪われて、後ろ向きのまま引っ張られた。顔だけ振り向いた先にあるのは、黒い影が渦巻いている鏡だ。
「南場!」
声が聞こえて、無数の手の隙間から目を向ければ、金光が俺に向かって手を伸ばしていた。がむしゃらに暴れてみるが、掴まれている腕はびくともしない。
金光の手が黒い手に触れた瞬間に、唸り声と共にバチッと何かが弾けるような音がした。すぐ後にチカッと稲妻のようなものが光ったかと思えば、ぐんっと強い引力で金光の方に身体が引き戻される。
「〜〜っ、ぐっ……」
瞬きをした次の瞬間には、目の前が真っ暗になっていた。
*
次第に意識が覚醒する。薄目を開けると、無機質な天井と壁、それから教室の窓が視界に映った。
少しの間気を失っていたみたいだ。
どこかにぶつけたのか、身体がズキズキと痛む。
「……南場?」
すぐ近くから声がして視線を向けると、鼻先が触れる距離に金光の顔があった。
よく見れば俺は金光に抱き締められるような形で倒れ込んでいる。
「うわぁあっ、なっ……キショいことすんなボケッ!」
勢いよく金光から距離をとって、壁に背中をくっつけながら威嚇をする。
身体を押し退けられた金光は、顔をしかめながら緩慢な動作で起き上がった。
「助けてあげたのにその態度はないんじゃない?」
「うるせえ、おまえなんかいなくても俺ひとりでどうにかしてたっ!」
「無理だと思うなぁ。あのまま鏡に取り込まれて、今頃南場はあの世行きだったかも」
「……っ、ろ、ろくでもないこと言うんじゃねえ! だいたいお前なにしたんだよ、あのときおまえがあの手に触ったら、アイツら苦しそうな声出して弾かれてたし……」
それに、あの黒い手は何故か金光のことは狙わずに、俺にしか興味がないようだった。
まるで金光には近寄らないと決めているみたいに。
「それは多分、これのせいじゃないかな」
金光はそう言うと、襟元から服の中に手を突っ込んだ。チャリンと音を立てて取り出したのは、華奢なゴールドチェーンのネックレスだ。小ぶりのひし形のフレームの中央には、淡い紫色の石が埋め込まれている。
「じいちゃんの形見なんだ。俺もよく知らないけど、強い念が込められているみたい。実際、これを持ってると霊が寄ってこない」
「実際? おまえなんか見えんのか?」
「まぁね。実家が寺で、幼い頃からそういうのに好かれやすいんだ」
「…………マジか」
返す言葉がなくなってしまった。
ドラマやアニメの中では聞いたことがあったが、まさか身近にそういう人間がいたとは。
「うわ……っ⁉︎」
話をしていると不意に何かが割れるような音がして、思わず声を上げた。
驚いて音のする方を振り返ると、俺の真後ろで窓ガラスが割れたところだった。散らばった破片が不自然に宙に浮き、俺を目掛けて降り注いでくるのがスローモーションのように映る。
「な、なんで急にガラスが……っ⁉︎」
「──南場、こっち!」
動揺してなにもできずにいると、金光に力強く引き寄せられた。するとガラスは俺達の身体を綺麗に避けて、ドスドスと床に勢いよく刺さる。
さーっと血の気が引いた。今のは確実に俺に狙いが定められていた。
金光がいなかったら、今頃俺は……。
「……厄介なのに目を付けられてるね。とにかく、しばらくは俺のそばを離れない方がいいと思う」
「はあ⁉︎ なんで俺がおまえなんかと……」
「じゃあ離れる?」
金光はにこやかに笑いながら、俺の後ろを指差した。おそるおそる振り向くと、割れたガラスの隙間から、無数の赤い目がこちらを覗き込んでいる。
「ひっ……‼︎」
「離れたらきっとすぐにまた襲われるだろうなぁ。それでも俺といるのは嫌?」
「……っ」
いつも俺がコイツに無駄に啖呵を切っているせいだろうか。ここぞとばかりに金光が意地悪な気がする。
「南場が選んで。死ぬか、俺と一緒にいるか」
細められた瞳の奥に愉悦が滲んでいるように見えて、首元にナイフを突き立てられているような恐怖を感じた。
最初から俺の選択肢なんてひとつしかないようなものなのに。
よりによって一番気に食わないこの男に命を握られるなんて、最悪な気分だ。
俺は屈辱的な気分になりながら、小さく首を縦に振ることしかできなかった。
わかりやすく憎しみの込められた金切り声が、放課後の廊下に響き渡った。道ゆく生徒たちが驚いたように振り向くのが視界の端に映る。
ああ、またこのパターンか……。何度も繰り返されてきたやり取りに、いい加減辟易してしまう。
「あんたなんかと付き合うんじゃなかったッ!」
頭がキーンとするような甲高い声が耳をつんざく。つい数分前まで彼女だった相手は目に涙を溜めて、憎しみのこもった目で俺のことを睨み付けていた。
走り去っていく彼女の背中が小さくなっていくのを眺めながら、俺は小さく舌打ちをこぼした。
「マジいってえ~~。カヨあいつ、よりによってグーパンしやがって」
教室に戻ってきた俺──南場眞絃は、打たれたばかりの左頬をさすりながら愚痴をこぼした。
染めたばかりの栗色の髪に、幼く見られがちな自慢のぱっちり二重。その下で頬は赤く腫れてしまっている。これではせっかくのイケメンが台無しだ。
ドカッと勢いよく席に着くと、前に座っていた上原が待ってましたと言わんばかりに振り返る。緩いパーマの掛けられた黒い髪は、いつ見てもマリモみたいだ。
「まーた派手にやられたなあ。うはは、それぜってー青くなるやつじゃん」
「なに撮ってんだよ! 消せバカっ!」
ここぞとばかりに俺の顔にカメラを向けてくる上原を怒鳴りつけた。
写真部だかなんだか知らないが、コイツの撮影癖には呆れてしまう。
何度勝手に盗撮されたことか。そのたびにキレまくっているのに、ちっとも響いてないらしい。
「つかマジでカヨのヤツ、どんな馬鹿力してんだよ。今朝まで鞄ひとつ持てませーん、みたいな素振り見せてたくせによお」
「女子ってマジでこえーぞ。南場もいい加減懲りればいいのに」
「なにがだよ、今回に関しては俺に落ち度はないね」
しれっとそう返せば、上原は「聞いてやろうじゃん」とわくわくした様子で俺の机の上に両腕を置いた。
「他校の女子と連絡先交換して、ちょっと連絡取り合っただけだぜ? それを浮気だって決めつけて、そんなつもりないから堂々とあいつの前で画面開いてやってたってのにさあ」
俺としては完全なる潔白アピールのつもりだったのに、トーク画面を勝手に横から覗き込むなり、みるみるうちに眉を吊り上げて「誰それ!?」なんて激昂されてしまったのだ。
誰それも何も、ただの他校の女子だ。まあ、これから距離が縮まる可能性もゼロパーセントではないけど。
「あわよくばワンチャン狙ってるおまえの思考がバレたんじゃないのか?」
「はあ~? そりゃあカヨより胸もでかいし小柄で可愛いし、あっちがその気なら……まあ?」
「うわあ最低。そういう汚い思考を一瞬で見抜いたんだよカヨちゃんは」
上原がメガネの奥で呆れたように目を細める。
俺の思考はけっして汚くなんかないはずだ。だってどうせなら『より良い女子』と付き合いたいに決まってる。きっと男なら誰しも思っているに違いない。
そう考えていると、ふっと近くから人の気配を感じた。
「──そもそも彼女が嫌だって言ったんなら、その時点でやめるべきじゃない?」
すぐそばから聞こえてきたのは、上原のものじゃないもうひとつの声。妙に落ち着き払った声に嫌な予感を感じながら、俺は視線を右上に移した。
「恋人を不安な気持ちにさせてまで他の女子と連絡取りたいなんて、南場ってすごくアグレッシブなんだね」
「金光涼矢……」
出たな疫病神。その姿を見るなり、俺は隠しもせずにチッと舌打ちを吐き出す。
爽やかを気取った黒髪に無駄に整った顔立ちのそいつは、隣に立っているだけで迫力が凄い。
実に刺々しく嫌味ったらしい言葉とは裏腹に、その表情は清々しくにこやかだ。
見下ろされているみたいで気分が悪い。隙のない笑顔を貼り付けた宿敵の登場に、耐え切れず俺は椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
「てめえに関係ねえだろが……。勝手に盗み聞きしてんな、きめえんだよ」
「ごめんね。でもそんなに大きな声で喋ってたら聞きたくなくても勝手に耳に入ってくるって」
「言い訳してんじゃねえ禿げろバーカ。……上原、あぐれっしぶってどういう意味だ」
こっそりと腰を屈めて問い掛けると、上原は「積極的とかそういう感じ」と小声で教えてくれた。
「あはは、英語苦手?」
「黙れ」
しかし会話は筒抜けだったらしい。クスクスと馬鹿にしたように笑われて、うんざりとした気持ちになりながら、俺は再び椅子に腰を下ろした。
金光のこの常に他人を見下したような態度が癇に障るが、何故かコイツは他の奴にはこういう絡み方をしない。
俺だけに意地が悪いとかそんな特別はまったく嬉しくない。
爽やか全開で他のクラスメイトとコミュニケーションをとっているのを目撃するたびに反吐が出そうになる。俺には喧嘩しか売ってこないくせに。
「でも南場はさ、ホント金光を見習った方がいいよ」
「はあ?」
味方のはずの上原が不意にそんなことを言い出すので、俺は大袈裟に顔をしかめた。
「おまえの女癖の悪さ、端から見てもやばいもん。はっきり言って世の中舐めすぎ!」
真面目腐った顔をした上原が、俺の顔に向かって人差し指を突き立てる。大体お前は、といつものように説教が始まったので、またその話かと飽き飽きして窓の方に顔を背けた。
女癖が悪いというか、確かに女の子をとっかえひっかえしている自覚はある。だって一度きりの人生だし、どうせなら自分が一番楽しく生きたい。
こんなマインドの俺だけど、性格はクソだけど顔だけはいい父親と、芸能を少しかじっていた母親の遺伝子によって容姿に恵まれたおかげか、それでも好意的に寄ってきてくれる女の子の方が多い。
真面目に付き合うなんてアホらしい。彼女たちはどうせ俺の顔が好きなだけだし、俺は色んな女の子と遊ぶのが好きだし、互いに楽しく遊べたらそれでいいじゃん。
最初はそんなノリで付き合い出した女の子も、慣れてくると次第にわがままを言うようになるから面倒臭いんだけど。
「──……おい、聞いてんのか南場!」
「あーうん、聞いた聞いた。反省してまーす」
「それに比べて女子に対する紳士的な対応は、金光の右に出る者はいないだろ」
言いながら上原の視線が、俺の横に立っている金光に向けられる。
まだいたのかよコイツ。ずっと突っ立ってて暇か。早く帰れよ。
ぎろっと睨みつけてやったが、金光はニコニコと気味の悪い笑みを返してくるばかりだ。
「どこか紳士だよ。ただ全員振ってるだけじゃねえか。むしろ女の敵だろ」
金光はとにかくモテる。冗談でなく三日に一度は女の子に呼び出されているのを目にするぐらいだ。言い寄られておいて誰とも付き合わないなんて、俺からしたらどうかしてる。
俺のレベルに釣り合う女子はいないとでも言いたいのだろうか。むしろ軽率でも付き合ってあげてる俺の方が幾分か優しいはずだと俺は思う。
はんと鼻を鳴らして笑う俺の前で、「それが違うんだなあ~」と頬杖をつきながら上原が言った。
「金光は振るときも絶対に女の子を泣かせないって有名なんだよ。金光に告白した女子は、みんな満足そうな顔をして帰っていくらしい」
「なんだそれ。金でも渡してんじゃねえの」
「ふふ、南場の発想って面白いね」
ムカつく張本人に横からクスクスと揶揄うように笑われたので、俺は下からメンチを切るように覗き込んだ。
「あ? 喧嘩売ってんのかてめえ」
「はいはい、すぐダル絡みしない。とにかく南場はその女癖直さないと、いつか痛い目見るからな」
「あーハイハイ。だいじょぶ、タイマンなら余裕で勝てる。俺空手やってたし」
「そういう問題じゃないんだけどなぁ……」
俺が答えると、上原はがっくりと肩を落とした。心配性で慎重な上原とも、なにを考えているのかわからない不気味な金光とも違う。
俺は後悔しない人生を歩みたい。好きなときに好きな子と遊んで、自分のやりたいことをやる。そうやって十七年間生きてきたし、今更生き方を変えるつもりもない。
だからごめんな上原。本音はあんまり反省してないけど、形だけ心の中でそんな風に詫びを入れておいた。
*
「あ~~もう、なんだあのプリント! 嫌がらせとしか思えねえ」
いつのまにか窓の外は暗くなっている。二時間ほど補習のために狭い教室に缶詰めに状態だったせいだ。俺はポケットに手を突っ込みながら、重い身体を引きずるようにだらだらと廊下を歩いた。
「こんな時間になっちまったし……今日はマユちゃんとデートのはずだったのにさあ……」
帰ろうとしたら数学の教師に待ち伏せされていたせいで、急遽女の子との約束を断るはめになってしまった。
今から連絡したら夕飯ぐらい一緒にできるだろうか。そしてあわよくばその後……。
そうと決まれば話は早い。スマホを取り出してトーク画面を開いた俺は、異常な数の通知がきていることに気付いてぎょっとする。
「なんだよカヨか……しつこいなアイツ」
昼に別れたばかりだというのに、百件を超えるメッセージが届いていた。既読をつけないように中身だけ見ると、『さっきはごめん』『やっぱりヨリ戻したい』『返事して』という内容のものがほとんどだった。
気味が悪いな。こうなる前に別れておけばよかった。
去る者追わず。それが俺のモットーだし、あんな風にぶん殴られておいて忘れたふりをして付き合うなんて不可能だ。
「ブロックブロック。そんなことより俺はマユちゃんに用があんだよ」
カヨのトークを削除して、マユちゃんのトークを開く。早速文字を打ち込もうとした俺は、後ろから「南場くん」というか細い声が聞こえて動きを止めた。振り向くと腰辺りまでの長い黒髪が特徴的な女子生徒が立っている。
「話があるんだけど、今いいかな?」
気恥ずかしそうに首を傾げる彼女の肌は色白で、顔立ちは可愛らしく俺好みだ。こんな儚げな美人が同じ学校にいたことに驚きを隠せない。しかも俺に好意があるときた。こんな魅力的な誘いに乗らないなんて男じゃない。
「いーよ。別のとこ移動する?」
「うん。……じゃあこっち、着いてきて」
俺はスマホをポケットに戻して、浮かれた足取りで先を歩いていく彼女の後を追った。
てっきり外に出るために玄関にでも行くのかと思ったが、彼女は下駄箱を素通りして廊下の奥へと進んでいく。いつもなら施錠されているはずの勝手口を難なく開けると、上靴のまま土を踏んで、迷いなく中庭を通り抜けていった。
(どこまで行くんだろう。っていうかこっちにあるのって多分……)
俺の予想は当たっていた。彼女が俺を連れてきたのは、今はもう使われていない旧校舎の前だった。
俺が入学する随分前から立ち入り禁止になっているらしい旧校舎の窓やドアには、『KEEP OUT』という黄色のテープが至る所に貼られている。旧校舎には入ってはいけないというのが、俺らの中での暗黙の了解だった。
(……えっ、なんで鍵開いてんだ?)
以前クラスメイトが肝試し感覚で旧校舎に忍び込もうとしたが、どこも鍵がかかっていて入れなかったとぼやいていたのを覚えている。それなのに俺の前で彼女はたった今、まるで最初から鍵が開いていることを知っていたみたいにすんなりと扉を開いた。
「なあ、ここって勝手に入っていーの?」
問いかけてみるが返事はない。初めて足を踏み入れる旧校舎は、九月だというのに身震いしてしまうほどひんやりとしていた。電気は通っていないのか、近くにあるスイッチを押してみても明かりが灯ることはない。
前が見えないので、スマホのライトで照らしながら歩いた。初めて訪れて何がどこにあるのか見当もつかない俺とは違って、女の子は勝手知ったるような足取りで階段を上っていく。
(しかし全然人気がねえな……。ここならエロいことし放題じゃね?)
前を歩く彼女の短いスカートがひらひらと揺れるたびに、俺の頭をいかがわしい妄想が占めていった。
頬が緩みかけたそのとき、階段を上り切った先の壁にライトを当てた俺は、思わず「うおっ」と声をあげる。
「……ビビったー。なんだこのシミ」
驚いたのは、茶色のシミのようなものが壁にべったりと染み付いていたからだ。
(ってかなんか人の顔に見えるくね? 気味わりーな)
眉毛が二つ、目が二つ、鼻と口が一つずつ。苦しそうに叫んでいるみたいな顔が浮かび上がってくるように見えてきて、ライトをさっと別の方向に向ける。
そういえば旧校舎にまつわる噂を前に聞いたことがある。一番謎なのが、誰も使っていないのに一向に取り壊されないということだ。その理由は未だにわかっていない。
「──なあ、どこまで行くん? つーかそっち行き止まりじゃない?」
考えごとをしながら歩いていた俺は、はっと気付いて前を歩く女の子に声を掛けた。連れられるまま、いつのまにか三階まで来てしまった。俺の声にようやく足を止めた彼女は、廊下の端にあった教室の扉をがらっと開ける。
手招かれるままに中に入ると、教室の中はがらんとしていた。あるはずの机も椅子もなにひとつない。ただ教壇の向かい側に、壁の中央をぶち抜いたかのように、大きな鏡が置かれていた。
明らかに異質な存在に目を奪われる。一体ここは何の目的で作られた教室なんだろう。表札を見たが真っ白になっていて、その答えはわからなかった。
「ねえ南場くん、ひとつ聞いてもいい?」
鏡の前で立ち止まった彼女から声が掛けられる。教室の入口で立ち止まっていた俺は、なんとなく中には入らずにその場から言葉を返した。
「ん、なにー?」
「きみにとって、『好き』ってどんなもの?」
突拍子もない質問に、一瞬固まってしまった。女の子は俺に背を向けたままだから、その表情は読めない。
「なにそれ~? 俺いま何か試されてる?」
「まあそんな感じ。正直に答えてね」
「えーむず。おっけ、真面目に考えるからちょい待って」
俺は扉にもたれかかり、腕を組んで思考を巡らせてみた。
彼女が言う『好き』っていうのは、多分恋愛的な意味を指すのだろう。
女の子が喜びそうな答えなら知っている。宝物みたいに大事だとか、言葉なんかじゃ言い表せないぐらい好きだとか、多分そういうことを言ったら満足してもらえるに違いない。
だけど俺の本音は真逆のところにあるし、そんなことは一ミリも思っていない。
「うーん……そうだな、消耗品みたいなモンかな。女の子に好きって言ってもらえんのってちょー嬉しいし、一緒にいて楽しいーって思うけど……」
頭にぼんやりと浮かんでいるイメージを、なんとか言語化しようと言葉を紡ぐ。
「どんだけ燃え上がっても一瞬で冷めるんだよね。好きって言っとけばとりあえず喜んでくれるから、使い捨ての都合のいいツールって感じで使ってるかなぁ。一途に誰かのことを好きになるとか馬鹿馬鹿しすぎて、そういうヤツら見てると反吐が出るし」
言い終わってから、ぱちっと夢から覚めるみたいに意識が覚醒した。
(あれ? 俺はなに女の子相手に本音をぶちまけてんだ……?)
正直に答えてねなんて言われたって、馬鹿正直に本当のことを言うつもりなんか少しもなかった。
それなのに今俺は、とんでもないことを口にしたような気がする。腹の底に隠していた本心を、全て曝してしまったような。
「そっか。やっぱりきみはfgyせkbで────…………」
「え? なに?」
ザーッとノイズが走ったみたいに彼女の声が聞き取れなくなって、身を乗り出して聞き返す。
あれ? この部屋、こんなに狭かったっけ……。
ふと頭に疑問が浮かんで、眉根をひそめた。教室に入ったときはもっと距離をとっていたはずの鏡も女の子も、いつのまにか俺が数歩進めば届く距離にある。
俺が近付いたのか? いや、俺はずっと入口から一歩も動いていない。
それに何だ、悪寒のようなこの感覚は。発熱したときとはまた違う、なにかが迫りくるような本能的な恐怖。
違和感を覚えた俺が一歩後退ろうとしたそのとき。ずっと俺に背を向けていた女の子が、ゆっくりと俺の方を振り向いた。
「ひっ……!」
その顔を目にした瞬間に思いがけず情けない声が漏れて、尻餅をつきそうになるのを壁に手を付いて堪える。
青白く染まった顔は目に見えて生気がなかった。白目まで真っ赤に染め上げられた瞳で、目の前の彼女はニタリと不気味に微笑んでいた。
「……っ」
頭の中で警鐘が鳴っている。間違いなく今まで生きてきた中で一番やばい。そう感じ取って全身の細胞が震えている。
俺は勢いよく教室を飛び出して、真っ暗な廊下を駆け出した。スマホを持つ手がガタガタと震えている。それでも必死に自分の前を頼りない光で照らしながら、必死に全力で足を動かす。
(なんなんだよあれ……っ! あれってオバ……お、オバ……だよな!?)
最悪なことに、さっき見てしまった女の子の顔が脳裏に焼き付いて離れなくなった。振り切るようにぶんぶんと頭を左右に振りながら、廊下を駆け抜ける。そうしてしばらく走り続けた後に違和感に気付いた。
(待て待て、階段がない……)
確かに上ってきたはずの階段がなくなっている。そればかりか、さっきからどれだけ走っても廊下の端に辿り着かない。
ライトで照らした廊下の先は真っ暗で、無限に続く暗いトンネルのようだ。走っても走っても教室の窓が流れていくだけの、同じ景色の繰り返し。息を切らす俺の声だけがうるさく響く。
あ、これ詰んだ──頭が真っ白になりかけた次の瞬間、後ろからそっと肩に手が置かれた。ひんやりとした冷たい感触に、背筋をゾクゾクとしたものが駆け上がる。背後に人の気配を感じて、恐怖に唇を引き結んだ。
「南場? ……あー、やっぱり南場だ」
「…………金光?」
顔を覗き込まれてビクッと肩を上げたのも束の間、見慣れた顔にほっと胸を撫で下ろす。
どうやら俺の肩を叩いたのはさっきの女の子ではなく、この男だったらしい。全身にびっしょりと汗をかき、心臓を激しく鳴らす俺とは対照的に、金光は光らせたスマホを片手にいつもの緩やかな笑みを浮かべている。
「なんでおまえがここに……」
言いかけた俺の頭に、一つの可能性が思い浮かぶ。
「もしかしておまえも、あの女子に呼び出されたのか⁉︎」
「……うん、そうだよ。南場も?」
「くっそーやっぱりか……俺だけだと思ってたのに、結局金光も一緒なのかよ……!」
途端に悔しさが込み上げてきて、ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱した。
最近はずっとこんなことばかりだ。好きでもないのに金光とセット扱いされたり、金光に相手にされなかった女子が『南場くんでいっか』なんて話しているのを聞いてしまったり、本当にこの男は憎たらしい。
「南場。その女子っていうのは、どこに?」
「え? ……あーっ、そうだ! おまえ知らねえのか⁉︎ あいつやべえんだよ! いきなり訳わからん言語話してきて、振り向いたと思ったら、顔もこう、映画に出てきそうな感じの、オ、オ、オバ……」
「オバ?」
「オバ……」
この先を口にすることすら怖い。言い淀む俺を見て、金光はきょとんとした顔で首を傾げている。
むしろここまで言ってるんだから察しろよ。こんな状況でも通常運転の金光を見ていると、なんだか気が抜けてくる。
ふっと一瞬緊張をほどいた瞬間だった。不意に後ろに気配を感じて振り向くと、さっき俺が撒いてきたはずの女の子が少し離れた場所に立っていた。
「う、うわーっ! ででで、でたーーっ!」
驚きと恐怖がごちゃ混ぜになったよくわからない感情で胸が満たされて、大きな声を出さずにはいられなかった。
耳障りなキーンとした音が耳の中に入ってくる。なりふり構ってなどいられなくて、反射的にそばにいた金光の身体にきつく抱き着いた。
細身に見える金光は意外とがっしりとしていて、コアラのように両手と両足を絡みつく俺の腰を片手で支えてくれた。
「勘弁してぇ……無理なんだって俺、家でホラー番組やってたら即変えるしCM観るだけで夜トイレ行くの怖くなるんだってば……マジ無理、ムリムリムリ」
一瞬見ただけだから女の子の表情はよくわからなかった。だけどきっとまだあの気味の悪い笑顔を浮かべているに違いない。
なにか喋っていないと怖くて落ち着かない俺と違って、金光はずっと黙り込んで彼女を見つめている。触れた身体から金光の心臓の音が伝わってくるが、動揺している様子は少しもない。
「……南場、心当たりは?」
「えっ? なに、なんのこと?」
「この子、おまえに怒ってるみたい」
真面目な顔をして金光がそう言った。
「はあ? なんでそんなことわかんだよ。また俺のことからかってんのか」
「違うよ。細かい説明は今は省くけど、たった今そう『聞こえた』んだ」
「聞こえただぁ? さっきからキーンって音以外何も聞こえねえけど……」
金光には違う声が聞こえているとでもいうのか。意味がわからなくて視線を彷徨わせていた俺は、不意に顔を向けた先にある物を見つけて目を丸くした。
「うわぁーーっ! なんか増えたぁーーっ⁉︎」
「全身鏡だね」
冷静に返されてとっても癪だが、そんなことは今はどうだっていい。さっきまではただの壁だった場所に、金光と俺の二人を映し出せるほどの大きな鏡が現れた。
それは俺が最初に女の子に連れられてやってきた教室にあったものと同じ鏡だった。
「……まずいな。このままだと取り込まれる」
言葉を失っていると、金光が唐突にそんな不穏なことを言い出した。
俺は頭の中をクエスチョンマークで埋めるばかりで、すぐに反応することができない。
「逃げるよ」
「はっ⁉︎」
言うなり俺のことを抱きかかえたまま、金光が走り出す。いや、六十キロ近くある俺を抱えて走れるってバケモノかよ。
金光と共に風を切りながら、やっぱりどこにも階段が存在しないことを再確認する。どれだけ廊下の先に進んでも、出口らしい出口すら見当たらない。
「おいっ、どうすんだよこれ。どっかその辺の教室にでも逃げ込んで──」
【ニ ガ サ ナ イ】
今度は俺にもはっきりと声が聞こえた。機械で合成されたような、色んな声が合わさったようなおどろおどろしい声。
耳にした途端にぶるっと背中が震える。金光のことを掴んでいた腕が緩んでしまって、俺は大きく体勢を崩した。
「うわぁっ!」
身体が宙に浮いたその瞬間、まるでその時を待っていたとでも言うように、無数の黒い腕が鏡の中から俺のもとに伸びてきた。
いくつもの湿った手が、俺の両手と両足を拘束する。あっという間に身体の自由を奪われて、後ろ向きのまま引っ張られた。顔だけ振り向いた先にあるのは、黒い影が渦巻いている鏡だ。
「南場!」
声が聞こえて、無数の手の隙間から目を向ければ、金光が俺に向かって手を伸ばしていた。がむしゃらに暴れてみるが、掴まれている腕はびくともしない。
金光の手が黒い手に触れた瞬間に、唸り声と共にバチッと何かが弾けるような音がした。すぐ後にチカッと稲妻のようなものが光ったかと思えば、ぐんっと強い引力で金光の方に身体が引き戻される。
「〜〜っ、ぐっ……」
瞬きをした次の瞬間には、目の前が真っ暗になっていた。
*
次第に意識が覚醒する。薄目を開けると、無機質な天井と壁、それから教室の窓が視界に映った。
少しの間気を失っていたみたいだ。
どこかにぶつけたのか、身体がズキズキと痛む。
「……南場?」
すぐ近くから声がして視線を向けると、鼻先が触れる距離に金光の顔があった。
よく見れば俺は金光に抱き締められるような形で倒れ込んでいる。
「うわぁあっ、なっ……キショいことすんなボケッ!」
勢いよく金光から距離をとって、壁に背中をくっつけながら威嚇をする。
身体を押し退けられた金光は、顔をしかめながら緩慢な動作で起き上がった。
「助けてあげたのにその態度はないんじゃない?」
「うるせえ、おまえなんかいなくても俺ひとりでどうにかしてたっ!」
「無理だと思うなぁ。あのまま鏡に取り込まれて、今頃南場はあの世行きだったかも」
「……っ、ろ、ろくでもないこと言うんじゃねえ! だいたいお前なにしたんだよ、あのときおまえがあの手に触ったら、アイツら苦しそうな声出して弾かれてたし……」
それに、あの黒い手は何故か金光のことは狙わずに、俺にしか興味がないようだった。
まるで金光には近寄らないと決めているみたいに。
「それは多分、これのせいじゃないかな」
金光はそう言うと、襟元から服の中に手を突っ込んだ。チャリンと音を立てて取り出したのは、華奢なゴールドチェーンのネックレスだ。小ぶりのひし形のフレームの中央には、淡い紫色の石が埋め込まれている。
「じいちゃんの形見なんだ。俺もよく知らないけど、強い念が込められているみたい。実際、これを持ってると霊が寄ってこない」
「実際? おまえなんか見えんのか?」
「まぁね。実家が寺で、幼い頃からそういうのに好かれやすいんだ」
「…………マジか」
返す言葉がなくなってしまった。
ドラマやアニメの中では聞いたことがあったが、まさか身近にそういう人間がいたとは。
「うわ……っ⁉︎」
話をしていると不意に何かが割れるような音がして、思わず声を上げた。
驚いて音のする方を振り返ると、俺の真後ろで窓ガラスが割れたところだった。散らばった破片が不自然に宙に浮き、俺を目掛けて降り注いでくるのがスローモーションのように映る。
「な、なんで急にガラスが……っ⁉︎」
「──南場、こっち!」
動揺してなにもできずにいると、金光に力強く引き寄せられた。するとガラスは俺達の身体を綺麗に避けて、ドスドスと床に勢いよく刺さる。
さーっと血の気が引いた。今のは確実に俺に狙いが定められていた。
金光がいなかったら、今頃俺は……。
「……厄介なのに目を付けられてるね。とにかく、しばらくは俺のそばを離れない方がいいと思う」
「はあ⁉︎ なんで俺がおまえなんかと……」
「じゃあ離れる?」
金光はにこやかに笑いながら、俺の後ろを指差した。おそるおそる振り向くと、割れたガラスの隙間から、無数の赤い目がこちらを覗き込んでいる。
「ひっ……‼︎」
「離れたらきっとすぐにまた襲われるだろうなぁ。それでも俺といるのは嫌?」
「……っ」
いつも俺がコイツに無駄に啖呵を切っているせいだろうか。ここぞとばかりに金光が意地悪な気がする。
「南場が選んで。死ぬか、俺と一緒にいるか」
細められた瞳の奥に愉悦が滲んでいるように見えて、首元にナイフを突き立てられているような恐怖を感じた。
最初から俺の選択肢なんてひとつしかないようなものなのに。
よりによって一番気に食わないこの男に命を握られるなんて、最悪な気分だ。
俺は屈辱的な気分になりながら、小さく首を縦に振ることしかできなかった。


