青春のプレリュード

前田とのトレーニングを始めて、三週間。
鏡を見るたび、明らかに身体つきが変わってきたのを自分でも実感していた。
線の細かった体幹がカチッと安定し、それに比例するように部活中のプレーも上昇傾向にある。怪我をする前よりも、確実にバットが振れている感覚があった。
「お疲れっしたー」
部活終わり。誰もいなくなった部室で、汗を拭いながら帰り支度をしていた時のことだ。同じ二年のショート仲間である星野に、不意にガシッと腕を掴まれた。
「……ん? なんだよ星野」
「青井。お前、なんか身体つき変わった……?」
「えっ?」
ギクリとして動きが止まる。
「なんかさ……全体的に、しっかりしたっていうか。デカくなったな」
「……あ、ああ、まぁ、筋トレとか頑張ってるからな」
「いや、筋トレは前からだろ。なぁ、メニュー変えた? 何かやってる?」
二人で話していると、ガラッと部室のドアが開き、マネージャーの久下さんが大量のバスタオルを抱えて入ってきた。
「あ、やっぱり? 青井くん、最近プレーのキレも変わったよね。私もちょっと気になってたんだ」
「とっ……特別なことはしてないよ! 部活終わりとかに、ちょっと個人的に鍛えてるだけで!」
「……怪しい」
「うん。青井が嘘つくときの顔してるわ、これ」
「嘘つくときの顔ってなんだよ!」
二人がジリジリと目を細めながら、俺を挟むようにして詰め寄ってくる。野球部の狭い部室が、急に尋常じゃない圧迫感に包まれた。
「……わかった! わかったって! 話すからそんな目で見るな!」
「ほら〜。やっぱり何か隠してたじゃねぇか。白状しろよ」
「……実は、トレーナーに鍛えてもらってて」
「トレーナー? どっかのジムにでも行ってんの?」
純粋に目を輝かせて問いかけてくる久下さんの視線に耐えかねて、俺はついに「クラスの前田に教えてもらってる」と正直に吐き出した。
「前田? あいつ吹部だろ? 普段喋んないから知らなかったけど、あいつそんなにすげぇんだな」
「確かに。前田くんって、楽器吹いてるときの姿勢とか体幹がめちゃくちゃ綺麗だなって思ってたけど。そんな特技があったんだ」
「というわけで! 俺が変わったとしたら全部前田のおかげ! この話は終わり! 恥ずかしいからもう聞くな!」
「別に恥ずかしいことじゃねぇだろ。なんなら前田のイメージ変わって俺は好感触だわ。なぁ青井、俺も今度混ぜてよ。前田に鍛えてもらいたい!」
星野のその言葉に、俺の脳裏に、あのマンションの薄暗いジムの風景がフラッシュバックした。
俺の腰を支える前田の手の熱。二人きりで食べる、前田の手料理。
(……そんなの、絶対に嫌だ)
「……それはダメ!!」
「なんでだよ! 減るもんじゃねぇだろ!」
「前田は俺の専属トレーナーだから!! 絶対にダメ!!」
反射的に、大声を張り上げていた。
自分でも驚くほどの拒絶。星野が呆気にとられたように目を丸くした、その時だった。
コンコン、と開け放たれていた部室のドアが小気味よく鳴った。
「誰が専属トレーナーだって?」
「ぶふっっ!?」
心臓が口から飛び出るかと思った。
ドアの枠に肩を預け、トロンボーンのケースを抱えた前田が、いつもの仏頂面のままこちらを見ていた。
「ま、前田……!? なんでここにいんだよ!」
「お前が電話出ないからだろ。……ほら、帰るぞ」
「お、おう! ……んじゃ、星野、久下さん、お疲れ!」
前田の姿を見た瞬間、さっきまでの威勢はどこへやら、俺はカバンをひったくるように持って部室を飛び出した。前田の後ろを付いていく俺の背中に、部室からの視線が突き刺さる。
……。
「久下さん。なんかさ……青井、変だよな」
「変、とは?」
パタパタとタオルを畳みながら、久下さんは特に驚いた様子もなく問い返した。
「んー……上手く言えないけど。入学してからずっと一緒に野球やってきて、あんな顔する青井、初めて見たっていうか。なんというか……」
「はぁ……。星野くんってさ、青井くんと同レベルでモテないでしょ」
「はあ!? なんで今そんな話になんの!?」
「それが分かれば、全部がわかるわよ」
久下さんはふっと意味深に微笑むと、最後の一枚を畳み終えた。
「んじゃ、私も帰るから。部室、ちゃんと綺麗にして鍵閉めて帰ってね」
「……なんか今日の久下さん、冷たくない?」
夕暮れの部室に、星野の虚しい呟きだけが残された。

***

部室を飛び出し、並んでスーパーへと向かう帰り道。
気まずさに耐えかねて俺がうつむいていると、隣を歩く前田がぽつりと口を開いた。
「なぁ、青井。今週末、暇?」
「え? 今週末? 部活もテスト前期間に入るから、選抜メンバー以外は休みになるし……まぁ、暇ですけど」
「……商店街の祭りでさ。うちの部活が演奏会やるんだよ。だから、来ねぇかなって」
「……それって、俺のこと誘ってんの?」
思わず足を止めて覗き込むと、前田は一瞬だけ目をごまかすように泳がせ、いつもの仏頂面で頭を掻いた。
「変な言い方すんな。暇なら、来るかなと思っただけだろ」
「……おっおう、行くよ! そういえば、お前の演奏って初日に屋上で聴いたっきりだしな。ちゃんと聴いてみたい」
「わかった。家にチラシあるから、後で渡すわ」
歩き出した前田の耳の裏が、夕暮れの光のせいか、ほんのり赤く見えた。