青春のプレリュード

「おっ…お母さんに相談する!!」

我ながら子供っぽいとは思ったが、あの時の俺にはそう言ってその場をやり過ごすのが精一杯だった。
帰り道、いまだ熱の冷めない身体を動かしながら、夜風を浴びて頭を冷やす。
なんだか、特別に感じてしまった数時間だった。もしあのまま二つ返事で了承していたら、流れで毎日、前田と同じ時間を過ごすことになりそうだ。
いや、それはそれで俺は嬉しい……のか?
でも、確実に心臓が持たない。
「…自分の感情が全然分かんねぇ…」

家に帰るとお母さんは何故かニヤニヤしながら出迎えてくれた。
「…何?なんでそんなニコニコしてるの」
「いやぁ〜、ついにうちの春斗が事前に連絡もせず夕飯いらないなんて〜何かあったんじゃないかと思って!」
普通母親なら怒るだろと思いながらも、なんだかワクワクしてるお母さんに今日会ったことを説明する。
「あらら、めちゃめちゃいい子じゃない!うちと違って立派だわ〜、明日からご飯いらないなら言ってよね〜。私は大賛成!」
「そんな頻繁には行かねぇよ!前田にも悪いし、てか母親なら迷惑かけるからやめなさい!とか言うだろ普通」
「ん〜?私はあんたが楽しいのが1番よ!」
「……楽しい?俺楽しそう??」
「ふふっ、母親ナメんなよ!顔みたら分かるわよお子ちゃま!」
「んなっ!なんだよそれ!!」
「まぁまぁ、でも流石に毎日は食費もかかふだろうから、行く時はお金持って一緒に買い物とか行きなさい?いくらか渡すから」
「…わかった」
「…春斗?」
「なに?」
「前田君のこと大事にしなさいよ。今度うちにも連れてきて!」
「…わかったよ!」

自分の部屋に逃げ込み、ベッドに大の字になる。
『大事にしなさいよ』という言葉が、前田のあの優しい視線と重なって、胸の奥で何度も何度もリフレインしていた。

***

次の日も学校へ行くと前田はいつも通りだった。
朝から昼休みまでは一言も話さないし、目も合わない。
元々つるんでるグループも違うし。
だけど、なんだか心が落ち着かない。やっぱ前田からしたら、俺みたいな泥臭い奴と仲良くしてるのを見られたくない、とかあるんだろうか。
イツメンと弁当を食べ終え、教室の自席で頬杖を付きながらそんな事を考えてると、目線の先にいた前田が近づいてくる感覚に陥った。
あれ?なんか近づいてね?
バチッと目が合う。距離が縮まるにつれて、前田の姿がどんどん大きく見えてくる。
「青井?」
「うわっ!なに!」
「何じゃねぇよ、今目ぇ合ってたし。何をブツブツ言ってんだよ」
「えっ?俺なんか話してた?」
「俺の事見ながらずーっと口パクパクしてた。魚かお前は」
「魚じゃねぇし、何も話してねぇ!」
「ふーん。んでお前今日どうするの?」
「…あー、そのー、お母さんに話したら、行ってもいいけど、お金持って一緒に買い物しなさい!って言われた」
「別にそんなん気にしないでいいのに、でもまぁお前と買い物すんのも悪くなさそうだな」
「…なんでだよ」
「別に?…それでお前の気持ちはどうなの?来るの?来ないの?」
覗き込むように訊ねてくる前田に、俺はカッと顔が熱くなるのを感じながら、消え入りそうな声で答えた。
「……行く」
「んだよモジモジして気持ち悪いな、今日俺も部活行くから終わったら玄関な」
そういって前田はまた俺の頭をポンポンとして席へ戻って行った。
昼休みの喧騒の中、俺と前田が話していることに誰も気を留めていなかった。
だけど俺の周りだけ、まるで世界から切り離されたような、二人だけの静かな空間ができていた気がした。
『放課後』『玄関』『買い物』――。
前田が残した言葉が、頭の中で何度も何度も繰り返し鳴り響く。
そのせいが半分、そしてもう半分は、これから始まる何かへの緊張のせいで、部活中はなんだか集中しきれなかった。
「青井、上の空だぞ!」「すみません!」
先輩に怒られながらどうにか部活を終え、大急ぎで着替えて向かった校舎の玄関。そこには、トロンボーンのケースを肩にかけた前田が、すでに壁に背を預けて待っていた。
「遅い。魚は泳ぐのが遅いな」
「だから魚じゃねぇって! つか、前田、吹部なのに今日早ない?」
「今日は個人練習だけだから切り上げてきた。ほら、行くぞ。スーパー混む前に」
並んで歩く帰り道。お母さんから預かった三千円を見せると、前田は「いらねぇって」と眉をひそめたが、
「これ出さなきゃもう行くなってお母さんに言われた」と嘘混じりに言い張ると、「……じゃあ、ありがたく使わせてもらうわ」と受け取ってくれた。
近くのスーパーでの買い物は、妙にむず痒かった。
カゴを持った前田の後ろを付きながら、特売の鶏肉やブロッコリーを吟味する姿を眺める。
「何食べたい?」なんて聞かれて、「ハンバーグ」とバカ正直に答えたら、「却下。脂質が多い。今日は白身魚のホイル焼きな」と即答された。
んじゃ聞くなよと言いそうになったが、今は俺は弟子の位置なので黙っておいた。
そんな風に始まった俺の肉体改造は、気づけば俺たちの新しい日常になっていった。
月曜日も、火曜日も、水曜日も。
部活が終われば玄関で合流し、マンションのジムで体を追い込み、前田の作った美味い飯を食う。
「ほら青井、あと3回! 肘下げるな、背筋意識して!」
「んぐ、っあ……キツ、無理……っ!」
ジムの鏡に映る俺たちの姿。
必死にダンベルを上げる俺の背後に前田が立ち、その逞しい両腕で俺の体を包み込むようにしてフォームを矯正する。
前田の手が、胸に、肩に、脇腹に触れるたび。
筋トレの負荷とは全く違う理由で、俺の胸の奥はドクドクと激しいビートを刻んだ。
……うるさい。
この、前田に触れられた瞬間に跳ね上がる心臓の音。
毎日繰り返されるトレーニングの痛みと、前田の手のひらの熱。その2つが、俺の日常を心地よく支配していく。
「お前、ちょっと胸板厚くなってきたな」
ご飯を食べ終えたリビング。
ソファに座る前田が、何気なく俺の胸元に触れて、筋肉の付き具合を確かめるように指先を滑らせた。
「ふぇっ!? っ、あ、当たり前だろ! 誰のメニューだと思ってんだよ!」
「ふはっ、なんだよその変な声。……でも、頑張ってる成果、ちゃんと出てて嬉しいわ」
そう言って、前田は柔らかく目を細めて笑った。
その顔があまりにも優しくて、俺の心音は、もう限界を知らないほどのテンポで鳴り響いてしまう。
最初は「スタメンに這い上がるため」だけの筋肉だった。
だけど、毎日繰り返されるこの時間の中で、俺の心はもう、別の理由で前田を求めていることに、薄々気づき始めていた。