青春のプレリュード

次の日____。
朝登校すると前田はもう自席に座っていて、いつもの友達と会話をしている。
今までクラス内にいても目線が行く事が無かったのに、やけに前田を追ってしまう気がする。
「青井くんおはよ、昨日大丈夫だった?」
野球部マネージャーの久下さんが席に着いた俺に挨拶をしてくれた。
「おはよ、ありがとね、大丈夫だよ。まだ来年もあるし」
「そっか…。今日は練習くる?」
「うん、ちゃんと行く」
「わかった、んじゃ部活で」
久下さんに気を使わせてしまって申し訳ない気持ちはあるけど、昨日より澱んだ気持ちは無くなり、なんならワクワクしてる自分がいる。
授業中も教室の前の方に座る前田の事を眺めていた。
あんな太い腕で、あんな繊細な音出すんだよなーっと筋肉を観察しているうちに目が合ってしまったが、前田はいつもの仏頂面で黒板に目を戻した。
(…昨日の前田は夢か?)

お昼時間にお弁当を仲の良い奴らとクラスで食べ終え、一人でトイレに向かう、水道で手を洗っていると、前田が現れた。
「…お前また俺の事見てた?」
「……違う!たまたま目ぇ合っただけ!」
「ふーん。あっそ。そうだ、連絡先交換しとこう」
前田はイタズラな顔をしたあと、真顔に戻りスマホにQRを表示する。
「……アイコン可愛い」
前田のアイコンは綺麗な猫だった。
「可愛いだろー?俺ん家の猫、プーしゃん」
「めっちゃ綺麗だし、めっちゃ可愛い!俺猫好きなんだ」
「なるほどな」
「なるほど?」
「猫好きなやつに悪いやつはいないから」
よく分からなかったけど、捨てセリフのように言って頭をポンポンと触られ前田は去っていった。
頭頂部がジワジワと熱を帯びる。
(…俺いま頭触られた?)
鏡で自分の顔を見ると、夏の練習の時並に顔が赤く火照っていて、感じたことの無い感情で胸がいっぱいになった。

***

放課後の部活中、スタメンたちの球拾いや打撃投手を黙々とこなす。
「怪我さえしなければ、あそこにいたのは俺かもしれない」という感情と、昼間に感じた初めての感情がぐるぐると頭の中で渦巻いている。
周りの部員から「青井、ナイスボール!」と気を遣った声をかけられるのも、今の俺には逆に刺さる。

部活からの帰り道、体も心もクタクタの状態でスマホを開くと、前田から猫が笑っているだけのスタンプが送られてきていた。
意図も読めず「?」と送るとすぐ電話がかかってきた、内心ドキっとしながらも応答する。
「青井?部活終わった?」
「うん、終わったけど…」
「今からうち来ねぇ?」
「…はっ?えっ?なんで?」
「鍛えるんだろ、俺ん家学校から近いから、住所送るわ」
俺の返事を待たずに電話を切られ、トーク画面に住所が送られてくる。
(……結構強引なタイプだな)
地図アプリに住所を入力すると、ここから歩いて五分ほどの場所だった。
見上げるような高層マンション。エントランスのインターホンで部屋番号を押すと、画面越しの前田は無言のままオートロックを解除した。
(……やっぱり冷たいヤツかもしれない)
昨日感じた優しさと、今日感じた感情が嘘のようにぶっきらぼう差を感じる。
部屋の前に着き、インターホンを鳴らすと少し長い髪を後ろで括っている前田が出てきた。
「いらっしゃい、お前猫大丈夫でしょ?」
「……う、うん。猫大丈夫。おっお邪魔します…」
「ははっ、緊張すんなよ」
緊張するだろ!
なんかマンション高級そうだし、オシャレだし、玄関からリビングまで歩いても何かわからないいい匂いしかしない。
「俺部活終わりで汚い…」
「別に男一人暮らしだから気にしねぇよ。まぁ気ぃ使わないでゆっくりしてくれ」
「えっ、お前一人暮らしなの?」
「一人暮らしってか両親が海外で仕事してるから、滅多に家帰ってこないだけ」
「……かっけぇ」
「かっけぇってなんだよ」
「いや、なんか泥臭い俺とは住む世界違うなって…」
「お前が泥臭いのは部活終わりだからだろ?、ほらこれ着替えろよ」
前田から渡されたのは新品のTシャツとスウェットのズボン。
「……これは?」
「今からトレーニングするから、俺の使ってなかったヤツ、そのままやるの嫌だろ」
「……やっぱお前は優しいヤツだな」
「……やっぱ?」
「いや、こっちの話。ありがとう、お言葉に甘えて」
荷物を置かせてもらい、目の前で着替えるの恥ずかしいと思いつつも、教えてもらう手前ワガママ言えず、素早く着替える。
「……うーん、別に変な筋肉の付き方はして無さそうだなー」
見られてた事に対しまた顔が赤くなりそうになる。
「そうだな、まずは身体デカくすることからはじめるか」
「でかく…?」
「そう。腕を太くするって事。太すぎても、今の可愛さ無くなりそうだから適度にな」
「かっ…かわいいってなんだよ!」
「えっ?お前可愛いキャラで通ってるんじゃないの?」
「なっ、なんだよその設定!俺そんなキャラ設定してねぇ!」
「女子共がよく、グラウンド見ながら『青井くん可愛い〜』って言ってるの耳にするからさ。てっきり自覚あんのかと思ってた」
「ねぇわ! 幻聴だろそれ!」
からかうように笑う前田にこれ以上ペースを握られてたまるかと、俺はあえて大声を出す。
「はいはい。じゃあ、その『可愛さ』を残しつつ、戦える体にするためのメニュー、組みますかね。……よし、行くか」
「え? どこに?」
「下。うちのマンション、住民専用のジムがついてるんだよ。そこでまずは基礎トレ」
「……まじかよ」
どこまで住む世界が違うんだ、この男は。
絶望的な格差にクラクラしながら、俺は前田の後ろを付いてエントランス階のさらに奥へと向かった。
案内されたジムは、ガラス張りでホテルのような高級感があった。夕暮れの街並みが見渡せる空間に、最新のトレーニングマシンが並んでいる。幸い、今は貸し切り状態だった。
「じゃあ青井、まずは自重から。腕立て伏せな。正しいフォームじゃないと変な筋肉つくから、俺がフォーム見る」
床に手をつき、言われた通りに体を沈める。だが、三本目の指を怪我した過去や足の庇い癖のせいか、どうしても体幹がブレてしまう。
「あー、腰が落ちてる。ほら、ここキープ」
不意に、前田の大きな手のひらが俺の腰と腹の下に滑り込んできた。
グッと下から体を支えられる。ダイレクトに伝わる前田の手の熱に、一瞬で心臓が跳ね上がった。
「っ、うおっ!?」
「動くな、体幹意識して。腕を曲げたとき、胸が床につくスレスレまで。……あと十回」
「ま、前田、近い……!」
「トレーナーなんだから当たり前だろ。ほら、声出す余裕あんならあと五回!」
教室でのクールな姿はどこへやら、トレーニング中の前田はドSな鬼教官だった。
逞しい腕でガッチリとホールドされ、俺は心拍数的な意味でも、筋肉的な意味でも、完全に限界を迎えさせられた。

***

「……し、死ぬ……まじで死ぬ……」
一時間後。前田の部屋のリビングに帰還した俺は、ソファではなく床にへたり込んでいた。
生まれたての小鹿のように腕がプルプルと震えている。
「大げさだな。初日だからかなり軽めにしたんだけど」
「あれで軽めとか嘘だろ……。野球部の冬トレよりきつかったわ……」
「使ってる筋肉が違うんだよ。ほら、プロテイン飲むか?」
「いや、プロテインは部活の後にも飲んできたから、もうお腹タプタプ……」
「そっか。じゃあ、飯にするか。動けないならそこで大人しく待ってて」
前田は悔しいくらいによく似合うエプロンを手際よく身につけると、キッチンへ向かった。
しばらくすると、トントンとリズミカルな包丁の音と、出汁の優しい香りがリビングに漂ってくる。
床に転がったままその音を聞いていると、なんだかひどく落ち着くような、贅沢な気持ちになってきた。
「おい、できたぞ。座れるか?」
差し出された手に掴まり、なんとかダイニングテーブルの椅子に這い上がる。
目の前に並べられた料理を見て、俺は思わず目を見開いた。
「うわ……すご……っ!」
大盛りのツヤツヤした白米。湯気が立つ具だくさんの豚汁。そしてメインは、絶妙な焼き色のついた鶏胸肉の生姜焼きだった。副菜にはブロッコリーとゆで卵のサラダまで添えられている。
「彩りとかは適当だけど。アスリート飯。胸肉はパサパサしがちだから、タレにしっかり漬け込んで片栗粉で旨味を閉じ込めた。タンパク質とビタミン、あと糖質もしっかり摂れ」
「お前……本当に高校生? 嫁の間違いじゃなくて?」
「うるさい、黙って食え」
前田は少し照れくさそうに顔を背け、自分の分の席に着いた。
「……いただきます!」
箸を持つ手がまだ少し震えていたが、胸肉を一切れ口に運んだ瞬間、その柔らかさとジューシーさに衝撃が走った。生姜の風味と甘辛いタレが、疲れた体に染み渡っていく。
「うっま……!! なにこれ、めちゃくちゃ美味い!」
「口に合ってよかった。米、おかわりあるからな」
「食う! 3杯はいける!」
さっきまでの疲れなんてどこかへ吹き飛んで、俺は夢中で白米を口に掻き込んだ。
バカみたいにウマイと連呼する俺を、前田は呆れたように、でも、どこか愛おしそうな目でじっと見つめていた。
「……青井」
「んぐっ? なに?」
「明日も、うち来る?」
不意にトーンの落ちた前田の声に、もぐもぐと動かしていた口が止まる。
箸を持ったまま見つめ返すと、前田の綺麗な瞳が、夕暮れの街の明かりを反射して少し潤んでいるように見えた。
「来るなら、明日も作って待ってるけど」
心臓が、今日一番の音を立ててドクン、と跳ねた。
これはただの「肉体改造」の約束のはずなのに。
前田の特製ご飯の温かさと、彼の優しい視線のせいで、俺の胸の奥にある『譜面』には、もう次の旋律が書き込まれようとしていた。