青春のプレリュード

夏が来る――。
雲ひとつない澄み切った青空。初夏の太陽が校庭の黒土を激しく照りつけ、陽炎を揺らしている。
眩しすぎる世界とは裏腹に、俺の心は重く澱んでいた。
「夏の都大会、選抜メンバー発表するぞ」
部室に集まった野球部員たちの間に、ぴりついた緊張が走る。
ホワイトボードに書き出される名前。一人、また一人と名前が埋まるたびに、歓喜と安堵の溜息が漏れた。
俺はショート一筋、推薦でこの高校に入った。春の大会は怪我で棒に振った。万全ではないが、痛みはもう引いている。今年こそは、あの舞台に。
けれど、最後まで俺の名前が呼ばれることはなかった。
「ドンマイ、青井。また次があるって」
「……ああ、わかってる」
肩を叩いていく仲間の手のひらが、今はただ熱くて鬱陶しい。
今日は解散。本当なら居残り練習をすべきなんだろうが、今の俺にはバットを握る気力も残っていなかった。
逃げ出すように向かったのは、人気のない屋上だった。
校庭とは違う乾いた熱気が肌をなでる。踊り場の屋根によじ登り、まだ熱を孕んだコンクリートに体を投げ出した。
空が、やけに遠い。
目を閉じると、微かに、けれど芯のある金管楽器の音が聞こえてきた。
(……なんだ、この音)
どこか寂しげで、それでいて包み込むような温かい響き。
音に誘われるように立ち上がり、影になった場所を覗き込む。そこには、シャツの袖を捲り上げ、トロンボーンを構えた一人の男子生徒がいた。
思わず足が止まる。
スライドを操る腕は、野球部の俺よりも逞しく、無駄のない筋肉が浮き出ている。なのに、そこから溢れる音色は驚くほど繊細で、優しかった。
「……なに? やりづらいんだけど。俺、なんかついてる?」
不意に音が止まり、彼が振り向いた。
逆光の中に現れたのは、見覚えのある端正な顔立ちだった。
「……前田、か。誰だか分からなかった」
「クラスメイトなのに?この距離で気づかないことある?」
「いや、ごめん。お前が楽器やってるなんて知らなくて」
同じクラスだが、接点はほとんどない。
けれど、楽器を構えている時の前田奏汰は、教室で見るクールな前田とはまるで別人のような、圧倒的な存在感を放っていた。
「……そっか。まぁ、普段話さないしな。お前は? ここで何してんの?」
「……うーん。……たそがれ、的な?」
「ふーん」
「えっ、興味なっ!」
「いや、あんま深入りされたくないのかなって思ってさ」
ぶっきらぼうな言い草だったが、その言葉には妙な優しさがあった。
「……お前、意外といい奴だな。いつも仏頂面だから気づかなかったよ」
「……俺、仏頂面か?」
「おう、結構。まぁ、顔がいいから『クールでかっこいい』って女子は騒いでるけどな」
「……興味ない」
前田は視線を落とし、トロンボーンを愛おしそうに撫でた。
俺はその横に、オレンジ色に染まり始めた空を仰いで寝転がった。前田も合わせるようにあぐらをかいて座る。
「……顔だけじゃなくて、羨ましいくらいの筋肉もあるくせに。どうやったらそんな風につくんだよ」
「筋肉? これは、ただトレーニングした結果だろ」
「俺にもそんな体があれば、スタメンになれたのかなぁ……」
ポツリと漏れた本音に、前田が「スタメン、落ちたんか」と静かに訊ねてくる。
「ベンチにも入ってねーよ!」と自嘲気味に叫ぶと、彼は少し間を置いて「……ごめん」と呟いた。
「なんでお前が謝るんだよ」
「……いや。選ばれない悔しさは、俺も知ってるから。中学の時、全国常連の強豪校でさ。毎回オーディションに落ちては、次は絶対って鍛えてた時期がある」
意外だった。完璧そうに見える彼も、かつては俺と同じように、何者にもなれない夜を過ごしていたのだ。
「……やるだけやった後悔の方が、俺は好きかな」
その言葉が、澱んでいた俺の心にすとんと落ちてきた。
前田の腕を見る。トロンボーンを支えるその腕は、努力の証そのものに見えた。
「なぁ、前田。俺の体、鍛えてよ」
「……はぁ? 俺が?」
「お前、理想的な筋肉の付き方してるし。頼むよ、この通りだ!」
「……暇な時なら、いいけど」
「マジ!? サンキュ! ありがとな! よーし、なんか元気出てきたわ!」
ガバッと起き上がった俺を見て、前田は呆れたように小さく吹き出した。
「……青井って、ほんと単細胞だな」
「ん? なんか言った?」
「別に。……んじゃよろしくな」
夕暮れの屋上。
差し出された前田の手を俺は強く握った。
まだ名前もついていない感情が、オーケストラの前奏のように静かに響き始めていた。