シンカスル悪夢

シンカスル悪夢⑨
 

きっとオリンピック選手も顔負けなくらいの速度で命からがら脱兎の如く駆け出していた。

 
何せ…命が懸かっているのだから。
 

少し安心して後ろを振り返るが…アイツの姿は見えていない。
 
 
気配も感じられない…
 
 
肩で息をしながら、ひとりごとのように呟いた。
 


「に…逃げきったのか?」



 
すると…背後から……


 
ぬめりとした存在感に、肌が…ゾワリと粟立つ。
 

 
「ホ~ラ…ツカマエタ」
 
 
いつの間にか…アイツは、彼の目の前に立っていた。
 
 

「何にが…したいんだよ!お前は!」

 
 
「……………………」
 

 
アイツは…黙って、こちらを見据えていやがる。
 
 
「フン、何か、言えよ!」 
 
フッと影が消えた…と思った瞬間。
 
 

「キミガ…ボクノエモノヲウバウカライケナインダ、ソレトモ…ハジメテダカラコワイノカイ?」
 
 
再び…背後から表れて彼の頬にヒタヒタと冷たい何かを幾度も当ててくる。
 
 
おそらく金属性の刃物類だろうと、彼は…推測していた。

 
 
「キミハオボエテイナイ…ソレナノニ、コレデオワリハツマラナイナ。」
 
 

…彼の頬が熱くなる。 

 
 
アイツがヒタヒタと頬に当てていた刃物を軽く滑らせる。
 
 
彼の右頬には斜めに…一筋の赤い線が引かれたみたいになっていた。
 
 
「あ、熱ツッ!」
 
 

 
最初は滴り落ちる血の温度をまざまざと感じられた…

痛みは後からズキズキと襲ってくる。
 
 
ボタボタと血が地面へと滴り落ちる。
 
 
「クスクス…クスクス…マタネ。
 
キミハ…キミダケハ…ニガサナイカラネ。」
 
 
アイツがニタリと笑うと現実世界へと引き戻される。


 
「はぁはぁ…ゆ、夢か!?」 
 
べとべとした粘性の高い汗が身体中を覆い不快感をさらに増しているのだった。 
 
何気なく右頬に手を当てるとピリッとした静電気的な痛みが走る。
 

その手には…真っ赤な血がべったりとついていた。
 
 
今…目の前にした手を濡らす血も、頬をズキズキとピリピリと走る電気的な痛みも夢の中でみる夢みたいに、現実感をまるで伴わない虚無感に捕われてしまっていた。
 
 
頭の中でこだまするアイツの気味の悪い笑い声が渦を巻いて響いてくる…
 

 
 
『止めろォォ!…止めてくれェェッ!!』
 
 
彼が…そう叫び声を上げていた頃には頬の痛みさえも忘れるほどにうなされていた。

 
 
『俺は…アイツを知っているのか?』


 
 
『それとも、アイツが俺を誰かと勘違いしているのか?』
 



 
『そもそも…アイツって、一体、何なんだよ。』
 
 






『………わからない…………分からない……………解らない………………判らない…………………ワカラナイ………………………わかるわけ無い!!』
 
 

こんこんと湧きだす湖のように…彼の心を果てる事の無い疑問と不安が精神を蝕み始めていた。
 

 
 
……と言うのが、彼の言うアイツが現れるキッカケとなる悪夢の始まりなのだと聞かされた。
 
 
それにしても…理解不能と言うのか、現実離れし過ぎている。
 
 
中山医師が…私に託した訳にも素直に頷ける。
 
 
しかし…ここまでとは。


以前…薬物依存症の末期患者を診た事があるが、それ以上に…やっかいな症状に見受けられた。
 
 
どうやって治療していくのが最善なのか、否、治療法など存在するのだろうか?と思案していると………


 
意識を失って…ガクリと弱々しく、しなだれかかる彼の身体に突如として異変が起き始めた。

 
ビクンビクンと身体を大きく揺らすと…彼の左腕の包帯がドス黒い血でジトリと濡れてきた。


否…それは止めどなくジワリ…ジワリと染み溢れてきた。
 
 
『オイオイ…な、何が起きているんだ。』
 
 
二階堂は…事態が理解出来ずに焦る。


とにもかくにも…彼の左腕の包帯を新しく巻き直そうとシュルシュルと解いてみる。


 
…すると、彼の腕の内側を切れ味の良い透明な刃物を押し当てて、そっと滑らせたかのように皮膚がピリピリと音をたてて…スーッと切り裂かれていく、衣服の仕立て布でも切るようにだ。
 
 
ブシューッと勢い良く…血が傷口から吹き出してきた。
 
 
庭先や花壇に水を撒く時にビニール製のホースの口を指で押して水流を強くした時のような勢いである。
 
 
二階堂は身体中…血塗れになりながら、必死で止血し、麻酔無しで傷口の縫合を始めた。
 
 
『取り敢えず…緊急用の治療道具も一式、持ってきておいて正解だったな。

しかし…どういう事なんだ!?』
 
 
二階堂は、一通りの処置を無事に終え、ポツリと溜め息をつくと………
 

 
今度は…彼の右手の甲を五寸釘でも打ち付けたような穴が空く。
 
 
ゴプゴプと…またもや鮮血が吹き出してきた。
 
 
『何なんだよッ…これは悪魔か…何かの祟りなのか。 
そんな事があってたまるものか!!』
 

 
だが…その証拠とばかりに、彼の身体中に残された無数の傷跡から今までの話も…たった今、目の当たりにした事も、全てが嘘や虚言…妄想の類でない事をまざまざと思い知らされた。
 
 
 
確かに…自ら傷をつけて他人からの興味を引こうとするような病は、過去に前例があるが……
 
 
彼の背中につけられた熊や何かの獣の爪によると思われる引っ掻き傷は……
 
 
否…引っ掻くと言うよりも寧ろ肉を研ぎ澄まされた鋭い爪でザックリ!と抉り取られ引き裂かれたと言う感じの傷跡は自作自演では到底…無理だろう!?
 
 
 
次第に…彼は眠るという行為そのものがストレスであり恐怖に感じられていた。
 
 
もしかすると…すでに私が彼を診察しに行った時点で…生きるという事が、あの残忍で卑劣な悪魔によって恐怖………

否…堪え難い苦痛でしかなくなっていたのかも知れない。
 
 
その為に…彼は三~四日程度を睡魔との戦いという名の根比べをするのだ。


結果として…不眠で過ごし、疲れ果て意識を途切れさせ…気を失う事でようやく眠りに就くのだった。