乙女ゲームで選ばれなかった王子の選択――攻略後ルートのはじまり――

 静かな温室を後にし、リリアーナは足早に教室へと戻った。

 湿った土と花の香りに満ちていた空間から一転し、扉の向こうには生徒たちの活気ある声が満ちている。

「やっぱりリリアーナだったんだ。登校は明日からじゃないの?」
「温室の花たちが気になっちゃって、午後から様子を見に来てたの」
「もう授業もないし、帰りに街まで買い物行かない? 今日、あの超豪華でボリューム満点のカクーゴ・シテクエ・ファット・パフェが半額なのよ」

 教室で女学生たちに囲まれながら、リリアーナは軽やかな笑みを浮かべ会話を返していた。
 
 やがて皆と一緒に帰ることになったらしく、彼女は鞄へ手を伸ばし、迷いのない動作で手際よく支度を始める。
 
 その様子を、教室の奥の席に座るユリアンが静かに見つめていた。
 
 久しぶりに目にするリリアーナの姿に、意識せずとも視線が引き寄せられる。
 喧騒の中心にいるはずの彼女が、周囲から切り取られたかのように、ひときわ鮮やかに映った。

 そこへ、廊下で再び合流したアルノーシュとライルが教室に入ってくる。
 
 ざわめきから一歩距離を置くように背筋を伸ばしていたユリアンは、二人に向かって軽く手を振った。
 それに気づいたアルノーシュが、園芸用品をロッカーに押し込んだばかりのライルを連れて歩み寄る。

「まだ残っていたのか、ユリアン」

「クラス委員として雑用があってな。お前は先に帰ったのかと思っていたぞ」
 
「実は……鞄を忘れて戻ってきたんだ」

 隣の机から鞄を取り出し、中身を整え始める私に、ユリアンは「お前らしくないな」と小さく笑った。
 同じく帰り支度を始めたライルが、離れた場所で楽しげに話すリリアーナの姿を見つける。

「リリアーナだ。一緒に帰るか聞いてみるか?」

「やめておけ。久方ぶりの友人との語らいを邪魔するのは野暮というものだ」

 そう言って、ユリアンはリリアーナへ視線を向ける。
 冷ややかで理知的な瞳が教室全体をゆるやかに見渡す。
 無駄な動きのない佇まいは、周囲とは明らかに異なる空気をまとっていた。

 指先で眼鏡のブリッジを軽く押し上げる――思考の焦点を合わせ直す、彼の癖だ。
 だが、その視線がリリアーナを捉えた瞬間だけ、気づかれぬほどわずかに空気がやわらいだ。
 
「麗しのリリアーナ嬢が和やかそうで、実に喜ばしいな」

 それを聞いたライルは、ぐっと前のめりになってリリアーナを見つめる。

「そうだな。まるで花のような……なんかこう……花だな」
 
 剣を構える時のような真剣さで言葉を探しているのは分かるが、どこか思考が追いついていないような、そんな感想だった。

 私が「声を掛けてみてはどうだ」と水を向けると、ユリアンは眼鏡の位置を直し、静かに首を振った。
 彼女と友人たちの時間を邪魔したくないのだろう。そういう気遣いをする男だ。冷たそうに見えて、ユリアンは思慮深い。その彼が、ふと疑問を口にする。

「それにしても、リリアーナは明日から登校の予定ではなかったか?」

「ああ、先ほど温室で鉢合わせたのだが、世話をしている草木が気になって様子を見に来たらしい。彼女のおかげで花々は見事に咲いていたよ」

 ユリアンはその話を胸の内で反芻するように、ゆっくりと瞼を閉じた。

「そうか。その様子を聞けただけで、俺は十分満足だ」

 満足げに息を吐く横顔は、すべてを理解し受け入れた大人のようにも見える。私の話から、温室でのリリアーナの様子を思い浮かべているのだろうか。
 
「けど、その場にはライルもいたし、花の話をする二人は特に楽しそうだったけどな」

「本当に楽しかった。ユリアンはあの場にいなくて残念だったな」

 私の何気ない一言と、ライルの裏表のない一言が、静かに空気を揺らした。

 次の瞬間、ユリアンは身体ごとライルへ向き直る。
 にこやかな表情のまま、指の関節を鳴らすようにゆっくりと拳を握り固めた。

「ははは。殴っていいか、ライル」
「なんでたよ! 大体、笑顔とセリフが合ってないだろ!」

 ライルは悲鳴めいた声を上げ、反射的に後退する。
 床を鳴らして距離を取るその動きは、冗談というより本能的な防衛に近い。

 それでもユリアンは歩みを止めない。穏やかな笑みのまま、じわじわと間合いを詰める。

「偶然温室に来なかったユリアンの運が悪いだけだろ」

 ライルの言葉に、ユリアンの動きがわずかに止まった。
 一拍遅れて、口元がひくりと引きつる。

「なんだ? 俺の運命力を侮辱しているのか? とりあえず気が済まないから殴らせろ」
「だからにこやかに拳作ってんじゃねぇよ」

 冗談めかした声色の裏で、ユリアンの拳は完全に戦闘態勢だ。
 対してライルは冷や汗を浮かべながら必死に距離を保とうと足を動かし、その様子は猫に追い詰められた小動物のようだった。

 不穏でありながらどこか安心感のあるやり取りを見て、リリアーナは思わず小さく笑った。
 こちらが見ているのに気づいたのか、教室を出る直前に微笑みながら私たちへ小さく手を振る。

 遠ざかる背中を見送りながら、私は先ほど話していたパフェのことを思い出す。

『そのお茶会に、私も混ぜてくれないか』
『リリアーナにも、友情を育む時間は必要だろう』

 また、脳裏に選択肢が浮かぶ。
 
 それは自分の思考というより、どこか外から差し込まれたみたいに不自然な気がした。
 胸の奥が、わずかに逆立つ。

 ――混ざるとは何だ。女子同士の集まりに私が付いていくなど、場違いにもほどがある。
 そもそも、今までそんな発想をしたこともないのに、なぜ突然こんな考えが浮かぶのか。

 それに、『友情を育む時間は必要だろう』という言い方も気に障る。
 まるで彼女を管理する立場にあるかのような響きではないか。失礼だ。

 最近、私の脳内に現れる選択肢は、私自身の思考から微妙にずれている気がする。
 私は本当に、そんなことを考えているのか。
 それとも――ずっと前から、無意識のうちにそうだったのか。

 違うと言い切りたい。だが、その確信が持てない。

 答えの出ない思考を胸の奥に押し留めるように、私は顔を上げた。

 廊下の奥へ消えていくリリアーナの背中が見えなくなるまで、三人は見送る。
 一瞬だけ、名残を惜しむような静けさが教室の入口に降りた。

「やはり気品あふれる微笑みだな。俺が惚れたのも、無理はない」

 ユリアンがぽつりと呟く。
 その声音には自負と、ほんのわずかな未練が混じっていた。
 
 だが――そんな空気を読む気配もなく、ライルがあっさり切り込んでくる。

「振られたくせに」

 その一言が投げ込まれた瞬間、温度の違う風が吹き抜けたように場の空気が変わった。
 ユリアンは一拍の間を置き、次いでにこやかに――だが明らかに怒気を帯びた笑みを浮かべて、ゆっくりと拳を握る。

「ライルも同じく振られ仲間だろ。なのにそんな言い方をするってことは、俺に殴られたいってことか」

「なんで突然殴りブームなんだよ。大体、俺にユリアンの拳なんて効かないの、知ってるだろ」

 先ほどまでの威勢はどこへやら、ライルは反射的に私の背後へと身を滑り込ませる。
 まるで主人の足元に隠れる子犬のように、こちらを盾にしながらキャンキャンと抗議の声を上げていた。

「俺が貧弱だと言いたいのか。ならば今すぐ殴りかかってやろう。と言いたいところだが……」

 振り上げた拳を下ろさず、ユリアンは指を開閉する。
 そこにはいつもの自信に満ちた余裕はなく、苛立ちと、説明のつかない戸惑いが滲んでいた。
 
 やがて小さく息を吐き、肩の力を抜く。
 
「そうなんだよ。最近、取るに足らない出来事ですら、感情の制御が追いつかなくなることがある。頭脳明晰な俺でも、この衝動の抑え方が分からないときた。この違和感を、持て余しているところだ」

 ――違和感。

 その言葉が、静かに私の胸の奥へと沈んだ。