「私は選択する」
「アルノ殿下……! 駄目っ……アルノくん……!」
リリアーナが、切羽詰まった表情で私の前に立ちはだかった。
大きく見開かれた瞳は激しく揺れ、今にも涙が零れ落ちそうに潤んでいる。声は細く震え、必死に私を引き留めようとしていた。
伸ばしかけた手が宙を掴み、行き場を失った指先が小さく震える。
私はその姿を、瞼の裏に刻みつけるように見つめる。そして、ゆっくりと目を閉じた。
静かに息を吸い込み、胸いっぱいに湿った温室の空気を満たす。
深く、長く吐き出すと、心の奥に絡みついていた迷いが、わずかにほどけていくのを感じた。
「私は――」
ほんの一瞬だけ、世界から音が消えた気がした。
「――――選択を拒否することを、選択する」
言葉が落ちた直後、静まり返っていた時計が、狂ったように鳴り響いた。
カチ、カチ、カ――カカチチカカカカチ――。
動かない針を、見えない力が無理やり前へ押し出そうとするかのような、不自然で焦燥を孕んだ音だった。
次の瞬間、破裂にも似た轟音が温室を震わせる。
硝子が砕け散り、時計は粉々になって床へ降り注いだ――気がした。
「アルノ……くん……?」
理解が追いつかないというように、リリアーナが私を見つめていた。
その瞳には戸惑いと、わずかな希望とが入り混じっている。
私は小さく息を吐き、静かに微笑んだ。
「私は君が……リリアーナが好きだ」
再び口にした告白は、先ほどよりも重く、深かった。
胸の底から引き上げた、逃げ場のない本音だった。温室の湿気が肺に絡みつき、吐く息がわずかに震える。それでも私は視線を逸らさない。
これ以上、自分の心に嘘をつくつもりはなかった。
後悔はない。
そう思う一方で、胸の奥が鈍く軋む。
「選択に任せれば、それが手に入るというのは、とても魅力的だった。とても。とても。今でも前言撤回したい。してもいいかな」
「未練たらたらじゃないか」
張り詰めた空気を破るように、ユリアンが小さく息を吐いた。そして肩の力を抜き、呆れたように笑う。
その声音には責める色はない。ただ「相変わらずだな」という、長年の友としての軽さがあった。
「けれど、ここ数日、私が体験したほんの少しの選択肢でさえ、私の思考とは離れていた」
私はゆっくりと言葉を紡ぐ。
選択肢の中には、本来の私なら決して思いつかないはずの答えが、当たり前のように並んでいたことを思い出す。
「私が思うはずのない選択肢も、ルートによっては現れる。それが、リリアーナを苦しめていたものなのだと理解した」
言葉にするたび、胸の奥がざらりと掻きむしられる。
自分の考えと、ほんのわずかしか違わない選択肢でさえ、思考の軌道を少しずつずらされていく。
気づけば、“自分が選んだはずの答え”が、知らない色を帯びている。
その感覚に気づいた瞬間、喉の奥がひりついた。
――この重みを、彼女はずっと一人で抱えていたのだ。
流れ込んだ記憶を辿るたび、曖昧だった感覚は輪郭を持ち、確信へと変わっていく。
これは個人の精神の問題ではない。世界そのものが、そう振る舞うように組み上げられているのだという冷たい理解が、背筋を撫でた。
「自分が、自分でないものにされる」
私の言葉に、リリアーナは息を詰まらせる。
視線を落とし、かすかに唇を噛む。彼女もまた、その感覚を知っているのだ。
「自分だけではない。リリアーナの反応から推測するに、周囲もまた、当然のように用意されたシナリオを受け入れてしまうのだろう」
言葉にするたび、リリアーナが味わってきた感覚が、遅れて胸に落ちてくる。
選び続ける重圧。
自分の意思が揺らぐ恐怖。
周囲が疑いもせず“それが正しい”と受け入れていく違和感。
理解した瞬間、足元が崩れるような不安が胸に広がった。
「そして、私でなくても、誰でも同じ役を演じられるのだと――そう気づいたとき、私はひどく恐ろしくなった」
欲望のまま選択肢を選べば、リリアーナと結ばれることはできるだろう。
だが、そこにある彼女の微笑みは、本当に彼女の意思だろうか。
私に微笑み、寄り添ってくれるリリアーナは、選択肢を選んだ時点で、私が好きなリリアーナではないのだ。
そして、それは私も同じだ。
用意された選択肢をなぞる限り、それは私の意思ではない。
閉じられた一年間という物語の中で、決められた分岐を辿るだけの存在。
一見すれば、私は自由に選んでいる。
だが、用意された二択以外を選べない時点で――それは意志を持つ人間ではなく、選ばされるだけの装置だ。
そう思った瞬間、自分の輪郭が溶けていくような不安が、胸の底に広がった。
そして、装置なのは皆も同じ。
「選択肢を重ねるたび、周囲の在り方も少しずつ歪んでいくのが分かった。流れ込んだ記憶の中で、皆も物語を進めるための役割に押し込められていく」
それは、見ているだけで胸の奥が重くなる光景だった。
「――全ての者が、意思を持つ人間ではなく、用意された動きをなぞる存在として」
温室に沈黙が落ちる。
誰も口を開かない。ただ、息を呑む気配だけが伝わる。
集まる視線の重さを受け止めながら、私はまっすぐ前を見据えた。
「そんな気持ちを、一年×αという途方もない時間、背負い続けてきたリリアーナに――私は、これ以上、同じ苦しみを背負わせたくない」
ゆっくりと息を吐き、揺れていた感情を胸の奥に押し込み、逃げ場を断ち切るように背筋を伸ばす。
「覚えていないのに、忘れられない。そんな矛盾を、もう誰にも味わってほしくない」
その言葉は、皆に向けたものでもあり、同時に自分自身への戒めでもあった。
「それに……この一年で結ばれたとしても、その先が無いのなら意味がない。それは、終わりのない停滞だ」
その言葉に、リリアーナの瞳が揺れる。
そう、その先は無い。
一年間を繰り返す選択肢の世界を選ぶということは、その先の未来が、永久に来ないということ。
「リリアーナと結ばれるのがゴールじゃない。その先も、私は、リリアーナと幸せになりたいんだ」
何が敵なのかは分からない。敵と言っていいのかさえ分からない。
けれど頭の中に現れる選択肢は、確実に私たちの未来を阻むものだ。
私は空へ向かって声を放った。
見えない何かへ挑むように。世界そのものへ宣言するかのように。
「だから――選択をするこの世界を、私は拒否する!」
声が温室に響き渡る。
リリアーナも、他の皆も、無言のまま空を見上げていた。
「リリアーナが長い時間をかけて抗い、勝ち取ったこの世界を。
変わり、成長していくこの世界を――」
一つ深く息を吸い、はっきりと言い切る。
「私は、受け入れる!」
その瞬間――
砕け散ったはずの時計の破片が、淡い光を帯び、
静かに宙へと舞い上がり、きらめきながら消えていったように見えた。
「アルノ殿下……! 駄目っ……アルノくん……!」
リリアーナが、切羽詰まった表情で私の前に立ちはだかった。
大きく見開かれた瞳は激しく揺れ、今にも涙が零れ落ちそうに潤んでいる。声は細く震え、必死に私を引き留めようとしていた。
伸ばしかけた手が宙を掴み、行き場を失った指先が小さく震える。
私はその姿を、瞼の裏に刻みつけるように見つめる。そして、ゆっくりと目を閉じた。
静かに息を吸い込み、胸いっぱいに湿った温室の空気を満たす。
深く、長く吐き出すと、心の奥に絡みついていた迷いが、わずかにほどけていくのを感じた。
「私は――」
ほんの一瞬だけ、世界から音が消えた気がした。
「――――選択を拒否することを、選択する」
言葉が落ちた直後、静まり返っていた時計が、狂ったように鳴り響いた。
カチ、カチ、カ――カカチチカカカカチ――。
動かない針を、見えない力が無理やり前へ押し出そうとするかのような、不自然で焦燥を孕んだ音だった。
次の瞬間、破裂にも似た轟音が温室を震わせる。
硝子が砕け散り、時計は粉々になって床へ降り注いだ――気がした。
「アルノ……くん……?」
理解が追いつかないというように、リリアーナが私を見つめていた。
その瞳には戸惑いと、わずかな希望とが入り混じっている。
私は小さく息を吐き、静かに微笑んだ。
「私は君が……リリアーナが好きだ」
再び口にした告白は、先ほどよりも重く、深かった。
胸の底から引き上げた、逃げ場のない本音だった。温室の湿気が肺に絡みつき、吐く息がわずかに震える。それでも私は視線を逸らさない。
これ以上、自分の心に嘘をつくつもりはなかった。
後悔はない。
そう思う一方で、胸の奥が鈍く軋む。
「選択に任せれば、それが手に入るというのは、とても魅力的だった。とても。とても。今でも前言撤回したい。してもいいかな」
「未練たらたらじゃないか」
張り詰めた空気を破るように、ユリアンが小さく息を吐いた。そして肩の力を抜き、呆れたように笑う。
その声音には責める色はない。ただ「相変わらずだな」という、長年の友としての軽さがあった。
「けれど、ここ数日、私が体験したほんの少しの選択肢でさえ、私の思考とは離れていた」
私はゆっくりと言葉を紡ぐ。
選択肢の中には、本来の私なら決して思いつかないはずの答えが、当たり前のように並んでいたことを思い出す。
「私が思うはずのない選択肢も、ルートによっては現れる。それが、リリアーナを苦しめていたものなのだと理解した」
言葉にするたび、胸の奥がざらりと掻きむしられる。
自分の考えと、ほんのわずかしか違わない選択肢でさえ、思考の軌道を少しずつずらされていく。
気づけば、“自分が選んだはずの答え”が、知らない色を帯びている。
その感覚に気づいた瞬間、喉の奥がひりついた。
――この重みを、彼女はずっと一人で抱えていたのだ。
流れ込んだ記憶を辿るたび、曖昧だった感覚は輪郭を持ち、確信へと変わっていく。
これは個人の精神の問題ではない。世界そのものが、そう振る舞うように組み上げられているのだという冷たい理解が、背筋を撫でた。
「自分が、自分でないものにされる」
私の言葉に、リリアーナは息を詰まらせる。
視線を落とし、かすかに唇を噛む。彼女もまた、その感覚を知っているのだ。
「自分だけではない。リリアーナの反応から推測するに、周囲もまた、当然のように用意されたシナリオを受け入れてしまうのだろう」
言葉にするたび、リリアーナが味わってきた感覚が、遅れて胸に落ちてくる。
選び続ける重圧。
自分の意思が揺らぐ恐怖。
周囲が疑いもせず“それが正しい”と受け入れていく違和感。
理解した瞬間、足元が崩れるような不安が胸に広がった。
「そして、私でなくても、誰でも同じ役を演じられるのだと――そう気づいたとき、私はひどく恐ろしくなった」
欲望のまま選択肢を選べば、リリアーナと結ばれることはできるだろう。
だが、そこにある彼女の微笑みは、本当に彼女の意思だろうか。
私に微笑み、寄り添ってくれるリリアーナは、選択肢を選んだ時点で、私が好きなリリアーナではないのだ。
そして、それは私も同じだ。
用意された選択肢をなぞる限り、それは私の意思ではない。
閉じられた一年間という物語の中で、決められた分岐を辿るだけの存在。
一見すれば、私は自由に選んでいる。
だが、用意された二択以外を選べない時点で――それは意志を持つ人間ではなく、選ばされるだけの装置だ。
そう思った瞬間、自分の輪郭が溶けていくような不安が、胸の底に広がった。
そして、装置なのは皆も同じ。
「選択肢を重ねるたび、周囲の在り方も少しずつ歪んでいくのが分かった。流れ込んだ記憶の中で、皆も物語を進めるための役割に押し込められていく」
それは、見ているだけで胸の奥が重くなる光景だった。
「――全ての者が、意思を持つ人間ではなく、用意された動きをなぞる存在として」
温室に沈黙が落ちる。
誰も口を開かない。ただ、息を呑む気配だけが伝わる。
集まる視線の重さを受け止めながら、私はまっすぐ前を見据えた。
「そんな気持ちを、一年×αという途方もない時間、背負い続けてきたリリアーナに――私は、これ以上、同じ苦しみを背負わせたくない」
ゆっくりと息を吐き、揺れていた感情を胸の奥に押し込み、逃げ場を断ち切るように背筋を伸ばす。
「覚えていないのに、忘れられない。そんな矛盾を、もう誰にも味わってほしくない」
その言葉は、皆に向けたものでもあり、同時に自分自身への戒めでもあった。
「それに……この一年で結ばれたとしても、その先が無いのなら意味がない。それは、終わりのない停滞だ」
その言葉に、リリアーナの瞳が揺れる。
そう、その先は無い。
一年間を繰り返す選択肢の世界を選ぶということは、その先の未来が、永久に来ないということ。
「リリアーナと結ばれるのがゴールじゃない。その先も、私は、リリアーナと幸せになりたいんだ」
何が敵なのかは分からない。敵と言っていいのかさえ分からない。
けれど頭の中に現れる選択肢は、確実に私たちの未来を阻むものだ。
私は空へ向かって声を放った。
見えない何かへ挑むように。世界そのものへ宣言するかのように。
「だから――選択をするこの世界を、私は拒否する!」
声が温室に響き渡る。
リリアーナも、他の皆も、無言のまま空を見上げていた。
「リリアーナが長い時間をかけて抗い、勝ち取ったこの世界を。
変わり、成長していくこの世界を――」
一つ深く息を吸い、はっきりと言い切る。
「私は、受け入れる!」
その瞬間――
砕け散ったはずの時計の破片が、淡い光を帯び、
静かに宙へと舞い上がり、きらめきながら消えていったように見えた。



