乙女ゲームで選ばれなかった王子の選択――攻略後ルートのはじまり――

 温室の空気は、先ほどまで張り詰めていた緊張が嘘のように、しんと静まり返っていた。
 
 ガラス越しに差し込む陽光だけが変わらず降り注ぎ、葉の影がゆらりと床へ揺れている。
 誰も言葉を発さないまま、ほんのわずかな沈黙が重くその場に落ちていた。

 その沈黙の中心に、私がいる――そんな奇妙な感覚だけが、胸の奥に残っている。

 私だけの世界――。

 その言葉を心の内でなぞった瞬間、胸の奥がひやりと沈んだ。
 同時に、こめかみのあたりが微かに脈打ち、耳の奥に残っていた時計の音が、ゆっくりと遠ざかっていく。

 ああ、この音は――自分が選ぶ側になるための音だったのか。

 鼓動に合わせるように頭の奥で反響していたそれが薄れていくたび、世界の重心が静かに私へと寄ってくる気がした。

 私が選ぶ者となった今、世界は私を中心に、永久の時を繰り返していくのだろう。
 望む世界も、望まない世界も、すべて。

 私がリリアーナを選ぶ世界。
 ユリアンに主席を奪われる世界。ライルに剣術大会で勝つ世界。
 エリオと何も交流しない世界。クレイン先生と妹の話で盛り上がる世界。

 そのひとつひとつが、まるで透明な扉のように頭の中へ並び、静かに私の判断を待っている。
 どれも手を伸ばせば届く距離にあるようで、胸の奥がざわりと騒いだ。

 先ほどまで聞こえていた時計の音が、さらに小さくなっていく。
 それは終わりではなく、役目を終えつつある音のように思えた。
 代わりに、自分の鼓動だけが、やけに大きく耳に残る。

「アルノーシュ、お前が選択するだけの世界なんて馬鹿げているぞ。そもそも、お前らしくないではないか」

 苛立ちを隠しきれないまま、ユリアンは吐き捨てるように言った。

「大体、俺がもしお前から主席を取ったとしても、他のお前が勝ち逃げするなら今と変わらないだろ。あー、くそ、言っていてムカつくから、一発殴らせろ」

 話が逸れ始めたユリアンと私の間に割って入るように、リリアーナが静かに声を上げた。

「暴力はだめよ」

 その声は強く張られているのに、どこか震えていて、彼女の焦りがにじんでいる。

「それに、アルノ殿下。最初は良くても、選択を繰り返すなんて、決していいことじゃないわ」

 一度言葉を切り、彼女は唇を噛んだ。
 指先がわずかに強張り、胸元を掴むように力がこもる。

「時間はループしているの。何回も、何十回も……ううん、それ以上の人生を見ることになる」

 幾度も繰り返した自分の人生の記憶と、これからの私の未来が重なったのだろう。
 喉の奥が締め付けられるように痛む。それでも彼女は視線を逸らさない。
 何とか説得しようと、必死に言葉を繋げていく。

「そんなの、私がそうだったように……心優しい殿下なら、きっと耐えられなくなる」

 それは選択を止めたいからではない。
 これ以上、私が傷つく姿を見たくない――ただその一心から出た言葉なのが分かる。

 その張り詰めた空気の端で、話についていけず、完全に置いていかれている男が一人いた。

「……っ。……っだ。……そうだ、そうだ!」

 ライルは半分も理解していない顔のまま、それでもリリアーナの必死さだけは受け取ったらしく、力強く頷く。

 ユリアンの低い声が、湿った空気に重く落ちた。

「考え直せ。その選択肢とやらの甘言に、騙されるな」

 その言葉にかぶせるように、荒い息遣いが、扉の方から転がり込んできた。

「――そうだよ。ゲームのサ終がないのは嬉しいけど……新イベントも無いのは、嫌じゃないか……」

 肩で息をしながら、エリオが温室の入口に手をつく。
 額にはうっすらと汗が滲み、胸が早く上下している。
 その後ろには、落ち着かない様子のクレイン先生が立っていた。

 どうやら二人も、流れ込んできた記憶の奔流をなんとか紐解き、ここまで駆けつけたらしい。

 ふらつくエリオの肩を支えながら、クレイン先生もまた、フラッシュバックした記憶を整理していたのだろう。
 状況を理解した様子で、静かに口を開いた。

「そうですよ。妹が結婚する年齢にならないのは喜ばしいですが、花嫁姿は見たいじゃないですか」

「そうだ、そうだ」

 ライルが深く考えもせず同調する。

「お前らは黙ってろ。殴るぞ」

 ユリアンの一言が、空気を一刀両断した。
 一蹴され、ライルとクレイン先生は揃って口を噤む。

 その三人の前に立つリリアーナの声が、細く震える。
 それでも彼女は、私を心底心配して、必死に説得しようとしていた。
 
「お願い、アルノ殿下。私みたいにならないで」

 思い出したくない記憶が、胸の奥でざわめいているのだろう。
 必死に保っていた理性の糸が、いまにも切れそうに張り詰めているのが分かる。

「選択を繰り返したら、いつかあなたも、こんな苦しい想いをすることになるわ」

 彼女はぎゅっと指を握りしめ、そっと瞼を閉じる。
 その脳裏には、終わりのない四月と、何度も崩れ落ちた自分の姿が重なる。

「……覚えてなくても、忘れることなんてできないのよ」

 その言葉は、断言というより、胸の奥から絞り出した告白だった。

 苦しさを知っているからこそ、ここまで必死に止めようとしてくれる、心優しいリリアーナ。
 彼女は強くあろうとしているのに、ふとした瞬間、どうしようもなく脆く見えてしまうことがある。
 その矛盾が、どうしようもなく愛おしかった。

 温室の柔らかな光に縁取られた横顔。
 震えを堪えるように結ばれた唇。
 指先に宿る小さな緊張。
 
 そのすべてを見ているうちに、胸の奥が静かに満ちていくのを感じる。

 二学年の時に彼女を好きになった気持ちは、もしかしたら選択肢に導かれた結果だったのかもしれない。
 けれど、その世界に囚われ続ける運命を、リリアーナは断ち切ってくれた。
 その瞬間、私もまた、自由になったのだ。

 自由とは、軽やかであると同時に、底知れない深さを持っている。
 私はその解き放たれた心で、改めてリリアーナを見つめた。

 誰に対しても分け隔てなく微笑む彼女は、確かに美しい。
 それでも――その笑顔が、私にだけ向けられるものであってほしいと、願わずにはいられなかった。

 伏せがちに揺れるその瞳も、淡く色づいた頬も、指を通せばほどけてしまいそうな柔らかな髪も――
 視線が吸い寄せられるたび、喉が乾き、鼓動が早まる。
 他の誰にも渡したくないと、思ってしまう自分が確かにここにいた。

 私は一度、静かに息をついた。
 温室の空気が肺の奥まで満ち、やがてゆっくりと吐き出される。

「私は、リリアーナが好きだ」

 突然の私の告白に、全員が固まる。
 時間そのものが、ほんの一瞬だけ立ち止まったようだった。

「正直に言う。私は、他の誰がどうなろうと、リリアーナと結ばれたい」

 胸の奥で、何かが強く鳴った。

『私は、リリアーナと結ばれる』
『私は、リリアーナと永久の時を生きる』

 時計の音が、カチ。カチ。と正確な間隔で鳴っている。
 その規則正しさが次第に遠のき、代わりに自分の鼓動だけが耳の奥で大きく響いていた。

 選ぶという行為の重さが、静かに肩にのしかかる。
 それでも、もう迷いはなかった。

「私は、選択するよ――――」

 その瞬間、時計が爆ぜた。

 硝子が砕けるような鋭い音が温室に反響し、時間そのものが裂けたかのように、空気が震えた。