乙女ゲームで選ばれなかった王子の選択――攻略後ルートのはじまり――

 時計の音が、容赦なく頭の内側に鳴り響いている。
 規則正しいはずのその音が、今は刃物のように神経を削り、思考の隙間へ無遠慮に食い込んでくる。

 よく分からない過去の断片が、波のように押し寄せては頭の中をかき乱していく。
 よく分からない二択の「選択肢」という不可解なルールが、私の前に冷たく立ちはだかる。

 今までは、リリアーナが選び続けてきた世界だった。
 その事実を思い出した瞬間、喉の奥がきゅっと締めつけられる。
 
 彼女がどれほどの重みを背負い、どれほど孤独に耐えてきたのか――今になって、遅すぎるほど鮮明に理解してしまう。

 ――そして今回は、私が選ぶ世界。
 
 その認識が胸の奥に落ちた瞬間、冷たいものが背筋を走り抜けた。

 四月に入り、妹のクラリッサの態度がおかしかったのは、リリアーナが選択側から外れたことで、すべての者から好かれるという“フィルター”が失われたせいだろう。
 理屈ではそう理解できるのに、胸の奥はすんなりと納得してくれない。

 クラリッサの豹変ぶりは凄まじかった。
 だが、エリオもまた――私たちが知っているエリオとは、どこか違っていた。
 その小さな変化を思い出すたび、胸の奥が鈍く疼く。
 
 二人はリリアーナと一学年違うことで接点が少なくなる分、歪みの影響を強く受けたのかもしれない。
 そう考えると、彼らの変化すらも自分の選択に結びついていく気がして、ぞわりとした感覚が背筋を撫でた。

 原理は分からない。
 それでも、選択する者となった今――自分が“特別な存在”になってしまったのだという感覚だけは、否応なく胸に残る。

 喜びではない。誇りでもない。
 胸の奥でざわつく、重くて冷たい責任のようなものとして、確かにそこに残っていた。

「私のせいでアルノ殿下が……」

 リリアーナが、紙のように白い顔で、今にも壊れてしまいそうな表情を浮かべている。
 その顔を見た瞬間、胸の奥が締め付けられた。
 
 そんな悲壮な顔はしないでほしい。
 君が自分を責める必要はない。

 そう思う自分がいるのに、素直な言葉は喉の奥で止まる。
 なぜなら――。
 
「そう、ここは私が君を選ぶこともできる世界だ」

 自分でも驚くほど静かな声だった。
 リリアーナが唖然とし、わずかに震える肩が力を失ったように沈む。

 去年は、リリアーナが「誰も選ばない」ことを選んだ世界だった。
 その事実を思い出した瞬間、喉の奥に、わずかな苦味が広がる。

 けれど――主導権が私に移った今なら。
 私の意思ひとつで、リリアーナと結ばれる未来を“選び取れる”のではないか。

 そう考えた途端、胸の奥が熱を帯びた。

 このまま選択に身を任せ、リリアーナに関わる事柄を選び続けていけば、私は彼女と一緒にいられるのではないか。
 皆を出し抜き、私とリリアーナが幸せになる世界を、私自身の手で選び取れるのではないか。

 胸の奥に、知らず知らずのうちに潜んでいたどす黒い欲望の影が、じわりと広がる。
 それは冷たい泥のように心臓へまとわりつき、同時に抗いがたい高揚をもたらした。

 私が――選べるのだ。

 自分でも気づかぬうちに、口元がゆるんでいた。
 穏やかな微笑というより、どこか張り付いたような、薄氷のように危うい笑みだった。

「アルノ殿下……なぜ笑っているんです? 私の話を聞いて、殿下にもいろんな世界の断片が流れ込んだなら、この選択の世界が歪なのは、分かっていますよね?」

 喉の奥がひりつくように乾く。
 それでも私は視線を逸らさず、彼女の瞳をまっすぐ見つめた。

「私と君が結ばれる世界は、歪だと思うか?」

 問いを投げた瞬間、空気が凍る。
 リリアーナは、どう声をかけていいのか分からず、揺れる瞳が頼りなく彷徨っている。

 その姿を見た瞬間、胸の奥が小さく締め付けられた。

 そのとき、酷い頭痛に耐えるように眉間を深く寄せたユリアンが、重い足取りで温室の扉を開けて入ってきた。
 普段の涼やかな余裕は影を潜め、顔色は青白く、呼吸もわずかに乱れている。

 その異様な様子に、温室の空気がさらに冷え込んだ気がした。

「二人とも、ここに居たか。この鳴り止まないカチカチという音は何だ。怒涛のように流れてきた、この記憶は何なんだ」

 流れ込んだ記憶から、この騒動の中心にいるのが私とリリアーナだと察して、ここへ来たのだろう。
 声は落ち着いているが、その奥に焦燥が滲んでいる。
 
 そんなユリアンとは対照的に、その後ろから張りつめた空気を気にも留めていない様子で、ライルがひょいと顔を出した。
 その無邪気さが、逆にこの場の異様さを際立たせる。
 
「なぁ、まったく覚えのないことから、なんとなく覚えてることまで、すごく思い出すんだけど……これはどういう事だよ」

 皆にも断片的とはいえ記憶が流れ込んでいるのなら、説明の手間は省ける。
 この異様な感覚を、私だけが抱えているわけではないという事実が、わずかながら救いだった。

「その違和感は、偶然じゃない」

 私が静かに告げると、皆の視線が一斉にこちらへと集まる。
 温室の空気が、ひやりと張り詰めた。

 時計の音が耳の奥で鳴り続ける中、私は喉の奥の渇きを無理やり飲み込む。

「その記憶は、私たちとは違う私たちがリリアーナと向き合い、そのうちの誰かと結ばれる世界線が、確かに存在していた証だ」

 説明を最後まで聞くより早く、ユリアンの目が見開かれる。
 理解の速さゆえの驚愕だった。

「だが、そのすべての世界は、結果がどう転んでも、四月を迎える前に必ず終わり、また一年前の同じ時へ引き戻されていたらしい」
 
「ループだと……。確かに……そう思わなければ理解できない記憶があるな」

 ユリアンは眉間を押さえながら低く呟く。
 混乱しているはずなのに、声には理性が残っていた。
 
「俺には……よく分かんねぇや……。てかループってなんだ? 世界線? 日付変更線の親戚?」

 緊張した空気の中でも調子を崩さないライルに、ユリアンは小さく息を吐く。
 苛立ちというより、呆れを含んだ溜息だった。

「黙っていろ。あとで説明してやる」

 短く言い捨てる声音には、わずかな救いがあった。
 いつも通りのやり取りが挟まったことで、張りつめていた思考がほんのわずかに緩む。

 胸の奥に小さな安堵が落ちる。
 だが、その安堵はすぐに現実の重みへと押し潰された。

「私たちの世界は閉じていた。何を選んでも四月から始まり、どんな結末を迎えても三月の終わりで途切れる。抗うことも、積み重ねることも許されない――そんな繰り返しだ」

 言葉にするほど、その異様さが際立つ。
 積み重ねられない時間。意味を持てない努力。

「けれど前回――」

 流れ込む記憶をひとつひとつ掬い上げるように整理しながら、私は辿り着いた結論を口にする。
 確証はない。だが、間違っているとも思えない。

 だからこそ、その突破を成し遂げた彼女を認めずにはいられなかった。

「その出口のないループを、リリアーナが越えた」

 言葉が落ちた瞬間、温室の空気がさらに重くなる。
 ユリアンは眉を寄せたまま黙り込み、ライルも珍しく軽口を飲み込んだ。

 リリアーナだけが、ぎゅっと唇を噛みしめて俯いている。
 本来なら、誇られるべき成果のはずだ。
 それなのに彼女は、それを重荷のように抱え込んでいる――その気配が痛いほど伝わってきた。

「……リリアーナ、すごいじゃないか」

 ユリアンはそう言って、ゆっくりと息を吐く。
 その声には確かな安堵が滲んでいたが、軽く称賛する響きはなかった。状況を測ろうとする冷静さが混じっている。

「ならば、この蘇ってくる曖昧な記憶は異常ではあるが……ループ自体は終わったと考えていいということだろう。つまり、この先は何も心配する必要はない――そういう理解でいいんだな?」
 
「違うの……。無くなっていないの」

 リリアーナの声は細く、しかしはっきりとしていた。

 瞳が大きく揺れ、縋るような光が一瞬だけ浮かんでは消える。
 温室の空気がわずかに冷えた気がして、私は喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。
 
 それでも言葉を絞り出すように、リリアーナは細く震える喉を押さえるようにして、ユリアンを見上げる。

「全部アルノ殿下に移ったの……」
「移る……?」

 ユリアンが低く反復する。

 リリアーナは静かに頷いた。
 その小さな動きひとつに、張りつめた緊張がにじむ。

「私は、あの閉ざされた世界で、ずっと二択の選択肢に迫られてた。選んで、選んで、選び抜いて……やっと終わったと思ったのに、気づけばまた四月から。そんなループを、何とかして抜け出したはずだった」

 言葉を重ねるたび、彼女の声はかすかに震える。
 それでも逃げずに、すべてを語ろうとしている。

「それなのに――」

 そこで一度、言葉が途切れた。
 リリアーナは息を整える。まるで胸の奥に沈んでいた重石を、無理やり持ち上げるかのように。

「今度は、アルノ殿下に選択肢が出ているらしいの」

 荒唐無稽なその言葉を、ユリアンは瞬時に理解したらしい。
 鋭く息をのむ音が、静かな温室に小さく響く。

 何を言われているのか完全には掴めていないライルは、口を開きかけて言葉を探し――やがて諦めたように頷いた。

「――では、この世界は全て、アルノーシュの選択通り……あいつの意思を中心に動くということか?」

 胸の奥で、何かが静かに噛み合う。
 
 歯車がゆっくりと回り出すように、ずれていた世界の輪郭がぴたりと一つに収まっていく感覚。
 理解と同時に、冷たいものが血管を伝って全身へ広がる。

 ぞわり、と背骨をなぞる震え。
 喉の奥がひりつく。

 そう。
 ここは、私の選択が世界を形作る場所。

 指先を伸ばせば触れられるほど近くに、未来がある。
 リリアーナと結ばれるという未来さえ、その中に確かに含まれている。

『ああ、すべて私の想い通りになる。私は、この世界を受け入れる』
『この世界で、最愛の人と結ばれるなら、引く理由などない』

 その選択肢が浮かんだ瞬間、心臓が大きく跳ねる。
 鼓動が耳の奥で反響し、血の巡りが熱を帯びる。

 胸の内側が燃えるように熱いのに、同時に底冷えする静けさが同居している。
 甘美さと危うさが絡み合い、抗いがたい誘惑となって私を包む。

 どちらを選んでも――。

 行き着く先は、私の描いた未来になる。