バトンタッチ

 
 翌朝。
 いつもより早く目が覚めた哉明(かなめ)は、部屋の窓から澄み切った朝の空を仰ぎ見た。隣に並んだ布団はもぬけの殻となっており、シンは既に布団から出たのだと気づく。座卓の上に置かれた旅館名の書いてあるメモ帳には、『アップしてくる』とだけ見慣れた文字で書かれていた。枕元に置いたスマートフォンの時計は、午前五時過ぎを告げている。
「はは…あいつ、朝から張り切ってんな」 
 欠伸と共に背筋を伸ばし、布団からもそもそと身体を出すと寝巻替わりの浴衣を脱ぎ、軽くストレッチして義足をつける。すっかり慣れた動作ではあるが、寝起きにすぐ動けない体質のためか緩やかに身動きを始めた。
 朝食の時間にはまだ早く、かといって二度寝する気にもなれず、哉明はゆっくりと立ち上がり洗面台で顔を洗い口を濯ぐ。軽く歯を磨いて身支度をすると、左腕につけたスマートウォッチの時刻とバッテリーを確認し部屋を抜け出た。入口の鍵を閉めてジャージのポケットに突っ込み、まだ人気のない旅館の談話室を通過する。
 廊下はしんと静まり真夏なのに涼しいくらいだが、既にフロントの灯りはついていた。  
 フロント係に挨拶をして、旅館の入口に向かう。昨晩はあっという間に眠ってしまい、館内を散策する体力もなかったが旅館の裏手は海のようだ。穏やかな海の波音を聞きながら、ゆっくりと外に出る。散歩がてら、旅館の周囲を歩いてみることにした。
(…昨日はクタクタで周りを見る余裕もなかったけど…明るい時間帯に見るとまた違うな)
 誰もいない海沿いの遊歩道をのんびり歩いていると、すぐ前方に見慣れた後ろ姿が見えた。哉明は声を掛けようか迷うが、相手が先に振り返り哉明の姿を見て手を振っている。
「おはよう、哉明」
「シン?おまえ、こんな朝早くからひとりでランニングしてたのか」
「あー…うん。なんか落ち着かなくて」
「ちゃんと休まないと駄目だろ?」
「へへ。大丈夫、風呂入った後すぐ寝れたからさ。たっぷり寝れたんだ」
「そっか。…なら、いいんだけど」
 哉明はぎこちなく笑い、シンの横まで歩み寄り並ぶ。昨夜と違いしっかりと立っている様子の彼を一瞥し、シンは肩に掛けたタオルで額の汗を拭った。
「ふふっ、そう言うおまえも外出てるじゃんか。そう言えば、おまえに見せたい場所見つけたんだ!オレは走るから、哉明は無理しないで歩いて来いよ」
「見せたい場所?」
「後を着いてくれば分かるから!」
 シンは何かをはぐらかすように顔を背け、こっちだと告げて走り出した。自分のペースで走っているつもりなのだろうが、明らかにいつもと違いスピードを緩めている。哉明は口元に笑みを浮かべつつ、少し早歩きでシンに追いつこうと前を進んだ。足を交互に前へ出し、海岸線沿いの歩道を風を切って歩く。シンの背中を追いながら、哉明は潮風に当たっていた。
「…いつの間にか追い越されちゃったなぁ」
 自分が現役時代のように走れる状態だったら、シンよりも速い自信はあった。風を切り、颯爽と走るシンの顔を横並びで眺めてみたいとふと思い、両足の屈伸と右足のアキレス腱伸ばしを軽くしてから、左義足の関節部分を動かしてみる。一応小走りできるような耐久性はあるだろうが、今まで挑戦してみたことはなく、再び走りたいとも思わなかった。恐らく思い切り走ってしまっては、義足も身体も言う事を聞かなくなるだろう。
(でも…それで後悔したんじゃないか?俺は…)
 かつて哉明は走るのが何よりも好きだった。走り出すまでに時間を要するが、いつも部内で先陣を切って走り込みをしていた頃を思い出す。早歩きの速度は次第に上がっていき、ぎこちない走りは瞬く間にシンと横並びになった。 
 哉明はあの頃を思い出し、はしゃぎながらシンに声を掛けた。
「シン!やっぱり、俺も走りたい…!久しぶりに走ってみたけど楽しいな!」
「んなっ、大丈夫なのか⁉バランス崩して転ぶなよ!」
「分かってるって。ある程度なら、走れるんだって今気づいたんだ」
 不格好でも、一歩一歩前に出る度に、哉明の表情は明るくなった。
「はは…ほんとに俺…走ってるんだ…」
「カナ!無理するんじゃないぞ!」
「ほらほら、そんな事言っていいのか?」
「……っ…!」
 シンが油断した隙にとうとう追い越した哉明は、両手を広げてゴールテープ目掛けるランナーのように空を仰いだ。シンは速度を緩めてその姿を後ろから眩しそうに見つめ、同じ目的地を目指す。
「道路を渡って神社の参道の階段を昇るんだ。もうすぐ着くと思うけど、……って」
 言いかけたシンの言葉を聞き終える前に、哉明は車通りのない車道を渡る。社へ向かう階段を駆け上がろうとしたが、途中で失速してシンに追い返された。
「あっ……!…くそ…!」
「鍛え方がおまえとは違うからな~?」
 未だに余裕のある表情で、シンは階段を駆け上がる。人影おろか猫の子一匹おらず、哉明は遠くなるシンの背中を見上げてとうとう歩き出した。階段の長さはそこまで長くはないだろうと思っていたのだが、永遠に続いているように思えてしまう。
 手摺に縋るようにしがみつき、荒く息を吸っては吐いて頂上を目指した。シンはとうに到着し、階段の上から片手を差し出す。
「…もう少しだから、頑張れよ」
「くそっ…速いな。やっぱりシン、カッコいいよ」
「……はっ!?何言って…」
 差し出された手に哉明が指先を伸ばすと、シンはその指を超えて彼の手首をしっかりと握った。引っ張られるように階段を上りきり、震える足を引き摺りながら牛歩の歩みで呼吸を整える。
「はぁっ…久しぶりに走ると…結構くるしいな…」
「哉明、こっちを見てみてみろよ」
「えぇ?今度は何が…」
 呼ばれて振り返った哉明の眼下には、一面に広がる大海原が広がっていた。細い道路に真っ白な砂浜、そして豆粒のように小さく見える旅館。少し離れた場所には、あの陸上競技場の屋根が見えた。今まで見たことのない風景に、哉明は口をぽかんと開けて目を丸くする。
「凄い…こんな高い場所まで来てたんだな!」
「そうなんだよ。ランニング中にたまたま見つけてさ」
「なんか意外だ。シンが初めて来る場所でこんなとこ見つけるなんて」
「そうか?」
「早起きなのも驚いたのにさ。ほんと、おまえには勝てないよ」
「ははっ!オレだって見つけたのは今さっきだ。でも誰かに教えるなら、真っ先に哉明だなって思って」
 そうかと頷いて、ふと自分は何故ここに居るのだろうと哉明は思った。そして先程まで間違いなく走っていたことを思い出し、自分の心臓が早鐘を打つ感覚に懐かしさまで感じる。散歩のつもりが軽いランニングになったのは、あの場所でシンと鉢合わせしたからだ。
「…もしかして、俺をここに連れてくるために一度戻って来たのか?」
 どういう事なのかとシンの顔を見ると、頬が僅かに赤く染まっていた。あ、と声を掛けると来た道を戻り、哉明に顔を背けるように足を一歩踏み出した。
「…別に、深い意味なんて…ない」
「シン?」
「はー、腹減った!もう、帰ろうぜ」
「あっ…おい…!」
 下りの階段を二段飛ばしで駆け下り、来た時よりも早い速度でシンは走り出した。

×   ×   ×

 旅館に着いた頃には、既に部員の大半が目を覚まし食堂に出ていた。
 二人は一度部屋に戻り、シンは軽く汗を流したいとユニットバスに向かう。哉明も汗を拭いて着替えを済ませ、荷造りを始めた。二人揃って部屋を出て食堂に向かうと、途中の廊下から竹下が二人に「おはよう」と声を掛けてくる。
「哉明、なんか顔色良くなったな」
「そうか?」
「うん。何て言うか…肩の荷が下りた顔してる。シンもスッキリしたって顔してんな」
「はは、シャワー浴びたからかな。気のせいだろ。それにしても腹減った…」
 シンと哉明は一度顔を見合わせ、僅かに笑う。それに気が付いていない振りをして、竹下が大きな欠伸を漏らした。
 既に食堂には人数分の朝食がテーブルの上に並べられていた。メニューはシンプルな和定食だ。ひとりひとり膳の上に並んだメニューを見て、物足りなさを感じる者もいれば既に食べようとしている者もいる。
「今日の朝飯は白米と豆腐の葱の味噌汁、鮭の味醂(みりん)漬けにほうれん草のお浸しか…うまそう…」
「旅館の朝ごはん、って感じするな…温泉卵もついてるじゃん」
 各々「いただきます!」と手を合わせて箸を取り、温かい椀や皿に手を伸ばした。夕飯と同じく、どのおかずも美味いと箸が止まらなくなる。
 大満足の朝食を摂った後、競技場に向かうため大広間に集合する。あらかじめ荷造りを済ませ、バスに詰めてから出発となった。

 バスに乗り込んでいる間も入念に準備を行い、シンは深呼吸して集中力を高める。狙うは表彰台、それも一番高いところだ。ここまで来れた今までの出来事すべてに感謝して、手のひらに滲む汗を拭う。
 隣の席に座る哉明は車窓の外を眺め、物思いに耽っている。
「…哉明、走ってみてどうだった?」
「…え?なんだよ、わかってるくせに」
「そりゃあ、オレはおまえの相棒だからな!…この大会終わったら、コーチに相談してみよう。オレも一緒に行くからさ」
 今朝、初めて走った時の感触を忘れられなかった哉明は、とあることをシンに相談していた。そしてシンも賛成してくれたことに、感謝しきれず何と言っていいのか分からなかった。不安そうな哉明に、まず一歩踏み出してみよう、とシンが後押ししてくれたことが何より嬉しかった。
「…ありがとな」
「おまえだけで決めたことじゃないだろ…?2人で考えた答えだ。その為にも、今日の勝ちはいただきだぜ!」
「ああ!」
 バスは競技会場の駐車場に入り、駐車すると直ぐに陸上部の面々が降りる。
 会場まで歩いている途中で今日のスケジュールと選手の招集アナウンスが流れ、二日目の競技が開始となった。
「よーし、まずは男子リレーだ!みんな、がんばれよ!」
 コーチの喝に、出場する面々は元気な声で応える。
 それぞれの持ち場に向かうため、シンも哉明と共に競技場所に向かう。
 間もなくスタートする前に、ふたりは目を見合せ無言でハイタッチした。

 ×   ×   ×

 いよいよ男子リレー決勝が近づき、泣いても笑っても今年のリレーはこれが最後となった。シンは深く息を吸い、肩の力を抜く。過去と今の哉明と自分、三人分の夢とバトンをゴールで待つ、相棒に届けるために。
「位置について、用意──」
 ピストルの音と共に、スタートダッシュの飯垣が走り出す。それぞれの学校が声援を送る中、森海高校陸上部も負けじと声を張り上げた。
「いいぞ!その走りだ!」
「そのスピードで次に繋げろ!」
 1年生というだけあり疲れ知らずなのか、予選以上の速度であっという間に第一区間を走り抜けて行く。他校を圧倒的に抑え、次の走者へとバトンを渡した。2番手、3番手は3年生の樫木と立花だ。ベテランの貫禄がある走りと、息が合ったバトンパスで他校を追い越し一歩また一歩とリードする。ふたりはこのインターハイが最後の晴れ舞台となる為、優勝することだけを目標にここまで走ってきた。見事首位を独走し、アンカーのシンへと繋ぐことができそうだ。
「シンっ!思い切り行ってこい!」
「俺たちの後は頼んだぞ!」
「よっしゃぁぁ!」
 流れるようにバトンを受け取り、シンは全ての力を出し切るつもりで走った。個人種目よりも、このリレーにすべてを賭けたと言ってもいい。昨年まで鳴かず飛ばずだった自分を支えてくれた部員たちと、ツーマンセルでここまで来た相棒の哉明に優勝トロフィーで応えたい。
 昨晩哉明と同じ部屋に泊まり、彼の左足は膝から下が義足であることを知った。そして今の自分に何ができるのか考えた挙句、ただ前を向いて走りきることが全てなのだと言うことも。
 隣に並んだ選手よりも一歩でも前へ。我武者羅に先を目指し、交互に先へと出す足で地面を蹴り上げる。
 シンの脳裏には予選と違い、様々なことが浮かんでは消えていった。今はとにかく前へと走る。それと同時に視界も変わっていく。トラック最後のカーブを曲がり、ゴールへの一直線をひた走る。
「いけーっ!シン!」
「頼んだぞ!」
「柊先輩!頼みます!」
「任されたぁぁぁぁ!」
 ライバル達が迫る背中にプレッシャーを感じながらも、シンは振り返ることなく100メートルを走りきる。パン、と勢いよくピストルが鳴った。

『男子400メートルリレーを征したアンカーは柊シン!予選に続き森海高校が一着!念願の団体リレー初優勝です!』

 中継のナレーションに力が入り、一際歓声が大きくなった。真っ先にゴールテープを切ったシンは、バトンを握った拳を振り上げ勝利の雄叫びを上げる。
 すぐ傍で見守っていた相棒も吼え、ぎこちない走りではあるがシンに駆け寄る。哉明がシンを抱きしめながら、確かめるように問い掛けた。
「シン!おまえ!本当にやってくれたな!」
「へへ、当たり前だろ?」
 目尻に涙を浮かべる哉明と肩を組み、勝利に涙ぐむチームメイトを迎える。コーチも交互にわしゃわしゃと頭を撫で、樫木と立花に胴上げされてもみくちゃになりながらもシンは哉明に問い掛けた。
「ははっ!!オレとカナの夢、まだまだこここからだよなぁ…?」
「ああ!このまま世界まで行っちまおうぜ!」
「その時はおまえもな…!」
 二人の元へ次から次へと部員たちが駆けてくる。観客の歓声が木霊する。シンと僅差で二着、三着にゴールした他校の生徒たちは悔しそうに、それでも祝福の拍手を贈っていた。
 哉明に託されたバトンを、優勝と供に再び彼へ届けることができたシンは、心の底から声を上げて笑った。