バトンタッチ

 言われた通りシンは哉明と肩を組み、ゆっくりと客室に向かう。
「カナ、何を見せるって…?」
「言葉で説明するよりも、見てもらった方が早いからな」
 扉を開けて室内に戻り、縺れるように居間に敷かれた布団の上へと転がる。二人は暫し横並びで寝転がったまま、無言で天井を見上げた。先に上体を起こし、ジャージズボンの左足側にあるファスナーを開いて裾を捲りあげた哉明は、深呼吸して意を決し「こっちを見てくれ」とシンに告げた。
「…なに?」
「中学の頃に俺が陸上を辞めた理由…教えただろ」
「うん。鬼コーチのせいでお前が怪我して退部することになって、部員みんなバラバラになったんだよな?」
「それだけじゃない。…俺は、アイツが原因で片足を失くしたんだ」
「なっ…」
 シンが上体を起こし、哉明の足先を注視する。哉明の震える指先が靴下を脱がせた瞬間、そこには見るからにシリコンや樹脂、関節ジョイントなどを元につくられた無機質な足のかたちがあるだけだった。
 あの事故があった日、警察と救急車がやってきて哉明は救急搬送された。コーチは現行犯逮捕、校長も監督不行き届きで懲戒処分となる。
 しかし哉明の左足は再起不能なまでに叩きのめされており、元より過剰なトレーニングで負荷が蓄積されていてダメージが大きかった足へのトドメとなってしまった。皮膚が裂け血まみれになった足首の骨は折れており、靭帯と筋肉、神経まで著しく損傷していた。そして、元のように走れる身体ではなくなってしまったのだ。大人たちは責任を負うだけとなったが、哉明は一生その足と生きていかねばならなくなった。
 三度の手術を繰り返した結果、哉明の左足は完治することができず、無事なまま残った大腿を生かすため苦渋の決断をするしかなかった。結果、膝下のふくらはぎから下が欠損している。中学校が全面的に非を認め、哉明の入院・手術、以降掛かる医療費などを全額補償することで示談としたが、哉明の両親は「片脚と陸上に賭けてきた人生を失った息子の一生を背負えるのですか」ときつく問い掛けた。その問いに、応えられるものは誰一人としていなかった。
 哉明は障がい者の認可を受け、車椅子での生活を余儀なくされた。しかし再び自分の足で歩きたいと、義足を製作・購入して痛みと戦いながらリハビリを受け、辛うじて歩けるようになった。一度それを外してしまうと松葉杖なしでは一人で歩けなくなってしまうが、残った自分の足を最大限生かし、生きると決めたのだ。故に体育の授業は無理のない範囲で参加してはいるが、大半が見学となっていた。プールや大浴場を頑なに拒むのも、義足であることを伏せてシンやクラスメイト、陸上部員たちに心配かけさせまいと判断してのことだった。
 哉明が今まで隠し通していた『秘密』を目の当たりにし、シンはただ茫然と目の前の光景を夢でも見ているかのように見つめていた。
「…どういう事だ…」
「義足なんだよ、左足だけ。シンにもクラスのみんなにも心配かけさせたくなくて、今までずっと誤魔化してきた。このことを知ってるのは学校と担任、ほんの少しの陸上部員だけだ。でも…もう隠すのはやめにするよ」
 哉明は深く深呼吸し、シンの反応を伺う。シンは小さく息を吐き出し、納得したように頷いた。
「そっか。なんとなく、そんな気はしてたんだ。おまえ、プールに絶対入らないし暑くても短パン履かなかったじゃん。歩き方もなんとなくぎこちないしさ…。なんでもっと早く言わなかったんだ?他人のことばっかり考えるなよ。オレがそのことを知ったからって、何か変わる訳でもねぇだろ?」
「…っ……」
 もっと早く知っていれば、とシンはそれまで抱いていた違和感を確かめずにいたことを後悔した。踏み込んでいい過去ではないかも知れないが、哉明の心にずっとのしかかっていたものを少しでも分けて欲しかったのだ。哉明はかけがえのないバディであり、唯一無二の相棒だと思っていたシンは彼の思いやりが仇になってしまったことに思わず苦笑いを浮かべた。
「隠し事される方の身にもなってくれよ。いつか言ってくれるだろうって、信じて待つしかないんだぞ。思い過ごしならいいなって自分に言い聞かせてきたけど…そんな状況だなんて思わなかったから」
「…ごめん。これは俺の問題なんだから、部員やシンに心配も迷惑も掛けたくなくて…ずっと言い出せずにいたんだ。何時からかなぁ、おまえにバレるのがすごく怖くなったのは…」
「怖がることなんてないだろ。迷うくらいなら、今度から何かあったらちゃんと言ってくれ。一人で抱えて無理するくらいなら、オレでも誰でもいいからぶちまけろ。オレはおまえの暗い顔は見たくないし、真実を知ったことでそれまでの関係をやめようとも思わない。それと…このこと、話してくれてありがとな。ずっと、しんどかっただろ」
 哉明の頭をわしゃわしゃと撫で回し、シンが笑いかける。今まで秘密にしていたことを明るみにできて少しだけ心が軽くなった哉明は、シンの肩に腕を回して自分の方へと引き寄せた。
「…シン、ありがと……ごめんな」
「ばぁか、ありがとうだけでいいって。それにしても…これ、やっぱり冷たいんだな…。今は足、痛くないのか?」
 シンは哉明と肩を組んだまま、空いた手で義足にそっと触れてじっと見つめた。ひんやりとした冷たさは哉明の左足に血が通ってないことを実感させられ、膝に固定された金具が皮膚に食い込んでおり、痛々しく見える。哉明本人は慣れた手つきで金具を外し、義足を取ると手術痕の残る素肌を撫でた。
「今は大丈夫だよ。成長するに連れてサイズが合わなくなるけど、その度に作り替えてるから…膝関節は何とか無事だったから、屈伸運動ができることは不幸中の幸いだって医者にも言われたんだ」
「へぇ、そっか。でも、陸上はもう……あ!」
 何かを思いついたかのようにシンが声を上げ、にやりと笑う。一度哉明から離れ、取り外された哉明の義足を丁寧に持ち上げた。部屋に転がるペンケースから油性マジックを取り出し、チラリと哉明を見る。
「おい、何する気だ?」
「これ、油性マジック使えるよな」
「まぁ、強化プラスチックだから大丈夫だけど…って!」
 シンは返答を聞くとすぐに油性マジックのキャップを外し、義足の脹脛(ふくらはぎ)部分に癖のある書き文字で何かを書き記した後、義足の主にそれを渡した。くっきりと書かれたその一文を見て唖然とした哉明は、少し震えていた自分の手のひらを強く握る。
「ははっ…まったく、おまえって奴は…」
 マジックでくっきりと書かれた『ふたりでゴール!インターハイ優勝!』の文字が次第に滲んで見え、哉明は湿ってきた目元をシンのシャツに押し付けた。その背中を軽く撫でながら、シンが快活に笑う。
「ほら、願い事は書いたら叶うって言うじゃん!おまえがオレを支えてくれたから、オレはカナの分も走れるんだよ。だからオレのゴールは、おまえのゴールと一緒なんだ」
「そっか…そうだな。俺の夢はバトンと一緒にシンに預けた!テープ切って返してくれよな」
「当たり前だろ!そうと決まれば風呂入って寝ようぜ、クタクタだ」
 シンが立ち上がり、大きく伸びをして腰を捻ると哉明も義足を装着して立ち上がる。
「時間取ってごめんな、ゆっくり温泉浸かってこいよ」
「…あ、あのさ」
「ん?」
「インターハイ優勝したら…個室風呂がある温泉旅館行かないか?そっ…卒業旅行の下見がてら!」
「ははっ!なんだそれ、そこはフジキューじゃないのかよ?でも…いいな、楽しそうだし」
 シンの提案に喜んでいるが、素直に嬉しいと言うには照れくさいのか哉明は「考えとくよ」とだけ言葉を返した。
「おまえだって温泉入って疲れを癒したいって言ってたじゃん」
「まぁ…そうだけど、高校生で温泉旅行ってハードル高くね?スーパー銭湯ならともかく…」
「ハードルは飛び越えてこそ、だろ」
 風呂道具を手にしてにやりと笑いかけるシンを見て、思わず哉明も笑みが零れる。
 それまで温泉は取っておく、と部屋備え付けのユニットバスに向かったシンの背中を見送り、哉明はいい相棒に恵まれたなと心から改めて思った。

  ×

 入浴と身支度を済ませ、横並びの布団に入る。シンは柔らかい羽毛布団に包まれた途端、全身の力が抜けて筋肉が弛緩するような脱力感に包まれた。
「ふぁぁ…ねむ……おやすみ」
「…ん」
 既に微睡んでいたのか、哉明は力の抜けた声だけを返した。哉明はシンに背中を向けて横になっているようで、仰向けになって天井をぼんやりと見ていたシンはチラリと哉明の布団を一瞥する。
「明日は最高の結果で返してやるからな…ゴールで見てろ」
 何を、とまでは言わずに目を瞑り、決勝に備えて意識を手放す。
 一方哉明はシンに背を向けて目を瞑っていたが、眠るどころか目が冴えてしまい、やがてすぐ横から聞こえるシンの寝息に耳を澄ませていた。
「……シン、ほんとにありがとな…」
 これ以上言える言葉が見つからず、深く息を吸って吐き出す。一年前にシンと出会うまでは、再びトラックを眺める日が訪れるとは思っていなかった。マネージャーという形ではあるが、一緒の夢を追いかけてきた相棒と夢の舞台に来れただけで奇跡のように思えて、それまでの出来事が次から次へと脳裏を過ぎる。ふと中学時代のチームメイトたちの顔が浮かんだが、すぐに儚く消えていった。
 自分がシンや新たな陸上部の仲間たちと共に優勝を勝ち取ったら、彼らはどんな顔をするのだろう。哉明はあのファミレスで悪態ばかりついていた三人と再び会うことがあれば、今度こそ向き合って謝りたいと思っていた。中学の陸上部が廃部になり、彼らの絶望を受け止める前に哉明は逃げるように三人の前から消えた。憎まれても恨まれても仕方がなく、当然だと思っていたが、あの頃のようにまたくだらない会話で笑いあえたらと思ってしまう。
(椿、土谷、葵…みんなが足を止めたのは、紛れもなく俺の所為だ。…ごめんな)
 決勝である二日目は、報道関係のカメラも入る。どうか明日の試合の中継が、彼らの目に届きますようにと密かに願った。