死にたくないから    今日も物語を描き続ける


絶筆を拒む男


 死にたくないから物語を描いていた。
 幸せとかどうとか、どうでも良かったんだ。
 使い慣れた万年筆を握る指先が、冷え切って感覚を失いかけている。
 時代遅れなのはわかっている。時代はもう、ペンなんか必要としていない。
 指先ひとつで言葉を紡ぎ、世界中に一瞬で放流できる魔法のような道具を誰もが持っている。それでも俺は、わざとらしく万年筆をを使った。
 インクが紙に染み込み、物理的な重みを持ってそこに存在すること。原稿用紙の升目を黒いインクで汚し続けていた。それだけが、俺がこの世界に繋ぎ止められてい唯一の証拠だったからだ。
「死にたくない」
 ただそれだけの理由だった。
 吐き出した言葉は、カサカサに乾いた部屋の空気に吸い込まれて消えた。
 俺は、自分が大嫌いだった。他人ともまともに目が合わせることもできない。社会の歯車にすらなれず、ただ部屋の隅で呼吸を繰り返すだけの、取るに足らない不器用な男。このまま誰にも知らず、歴史の塵となって消えていく。その「無意味さ」が、何よりも死ぬこと以上に恐ろしかった。 
 俺には、他人を惹きつけるような華やかな才能も、誰かを救えるような高潔な志もない。運動や勉強も人並み以下で、鏡を見るたびに自分が醜くて吐き気がした。言葉を交わせば誤解を招き、黙ってれば存在を忘れられる。そんな俺が、このまま誰にも知らず、何一つ残さずに消えてしまう。ことが、ただただ恐ろしかった。 
 だから、俺は物語を描き始めた。
 原稿用紙の上だけは、俺は「俺」でなくて良かった。
 作中の主人公は、俺とは似つも似つかないほど勇敢で、あるいは救いようがないほどに美しく絶望していた。彼らが笑い、泣き、怒り狂い喰らうたびに、俺の心臓はかろうじて鼓動を刻む事が出来た。感情を持つのは彼らだけでいい。俺自身は空っぽの器で構わない。彼らが生きている限り、それを生み出した俺の証明は、この世に刻まれ続けるのだ。
 そして、俺が書く一行一文字が、彼らの心臓を動かす鼓動になる。彼らが笑えば俺の指が震え、彼らが泣けば俺の胸が疼く。架空の物語を気取っている間だけ、俺は「人間らしさ」を擬似体験する事ができた。
 春が過ぎ、夏が燃え、秋が枯れ、冬が凍りつく。季節が巡るたびに、俺の物語は膨れ上がっていった。書き終える事が怖かった。最後の一文字を打ち込んでしまったら、その瞬間に俺の役割が終わってしまうような気がしたからだ。
 窓の外では、朝日が昇り始めている。
 俺は、また新しい原稿用紙を取り出した。
 「書ききったなんて、まだ言えない。こんなところで終わってやるもんか。」
 呪文のように呟きながら、俺は再びにペンを走った。
 死にたくないから、俺は今日も物語を描き続ける。
 俺は人間でありたかった。いや、人間であることを諦めないために、俺は物語を気取っているのだ。いつかのインクが乾き、俺の体が灰になったとしても、誰かの死先がこの紙に触れるとき、俺は確かにそこに蘇る。
 この物語が、いつか誰かの指先に触れ、俺という人間がここにいたことを証明してくれるその日まで。
 だから、まだ死ねない。
 この物語の最後の一文字を描き終えるまで。いや、描き終えた瞬間に次の物語を書き始めるまで、俺はペンを置くつもりはなかった。