ボニー・バタフライ・エフェクト

 愛斗はその後も必死でコーヒーを飲み、苦い顔をしながらもどうにか缶を空にした。
 それからようやく隣に置いていた弁当の包みに手を伸ばし、膝に乗せるとチラリと喜逸を見やる。

「……あのさ、喜逸」
「ん、なに?」

 喜逸がゆったりと愛斗に視線を向け、小首を傾げた。
 シャープな頬にかかる濡れ羽色の髪が、初夏の風になびいてサラサラと揺れている。綺麗だな、と思うのと同時に、また胸がドキドキした。

「結婚、のことだけど」
「うん」
「男同士では、できないんだよ」
「知ってるよ。だからなに?」
「だからなにって……」

 あまりにも喜逸があっけらかんとしているので、戸惑ってしまう。
 けれど愛斗は眉間にぎゅうとシワを寄せ、「とにかく」と先を続けた。

「もういい加減、からかうのはやめてほしいんだ。昔はよく分かってなかっただけで、ボクはもう子供じゃないんだから」
「じゃあ愛斗は、誰となら結婚するの?」
「……へ?」

 喜逸の顔から、波が引くように笑顔が消えた。
 そこにはなんの感情も読み取れない、真っ黒いガラス玉のような瞳がある。

「き、喜逸?」

 白い、けれど節くれ立って男性らしい大きな手の片方が、愛斗の頬に這わされる。
 顎に添えられた親指によって上向かされると、ぐっと身を寄せてきた喜逸の顔が目の前にあった。

「誰と、結婚するの?」

 今にも唇同士が触れ合いそうな距離だった。

 その瞳も、声も、凍りついたように平坦で冷えきっている。
 こんな喜逸は見たことがなかった。見ず知らずの他人とすり替わったのかとすら思うほど、そこには愛斗の知らない別の顔がある。

 辺りに満ちる初夏の空気が、一瞬で真冬まで逆戻りしたようだった。
 愛斗の背中に、ゾクリとしたものが這い上がる。

「そ、そんなの、知らない、よ」

 口の中が乾いて、カラカラになっていた。喉に何かが詰まっているような気がして、かろうじてそれだけ言うのがやっとだった。

 喜逸は愛斗の瞳を覗き込んだまま、「そう」と言った。

「なら、今はまだオレってことにしておいて」

 指先でゆるりと頬を撫でながら、冷たい手が引いていく。

 愛斗はそのときになって初めて、自分の肩がひどく強張っていたことに気がついた。彼が身を引くのと同時に、ホッと力が抜けていく。

 喜逸はいつもの柔らかな表情を取り戻していた。
 けれどその横顔はどこか寂しそうにも見えて、愛斗はなにも言えなくなる。

(もしかして、傷つけた?)

 まさかそんな。

 だって、喜逸は愛斗をからかっているだけのはずだ。子供の頃の無邪気な約束をネタに、その反応を見て楽しんでいるだけ。

 心臓に妙な圧迫感を覚えて、息が苦しい。あの能面のような顔をした男は、本当に喜逸だったのだろうか。まるで悪い夢でも見ていたようだ。

 明らかに顔色が悪くなっている愛斗に、喜逸がフルーツオレを差し出してくる。

「ほら。半分飲んじゃったけど、残りは飲みな。口の中が苦いだろ」
「あ、うん。ありがと」
「どういたしまして」
「……ねぇ、喜逸?」

 上目遣いでおずおずと見上げながら名を呼ぶと、喜逸は菓子パンの包装を解きながら「なに?」と、何事もなかったかのように返事をする。

 なにを言うつもりで声をかけたのか、愛斗には分かっていなかった。
 ただ、いつも通りの喜逸の声をもっと聞きたかった。優しくて面倒見のいい、ちょっぴり意地悪だけどあたたかな、愛斗がよく知る喜逸を。

 そうしなければ、どうしても安心できなかった。

「もしボクが女の子だったら、今ごろ刺されて死んでるんだってさ」
「なんだよそれ。誰が言ったの」
「早苗だよ。多分、ボクが君を独り占めしてるから……なのかな?」
「独り占め、か。なるほど」

 とっさにひねり出した話題だったが、喜逸は嬉しそうだった。
 彼は肩を揺らして笑ったあと、細めた瞳で愛斗を見つめる。

「大丈夫。お前のことは、何があってもオレが絶対に守るから」

 その優しい笑顔に心底安堵しながら、胸をキュンと締めつけられるような感覚も同時に覚えて、愛斗は頬が赤くなるのを抑えることができなかった。

 それがやけに恥ずかしくて、耐えられなくて、わざとふくれっ面をして見せる。

「別に守ってくれなくたっていい。だってボクは女の子じゃないんだし。刺される心配なんかないもんな」
「それは分からないさ」
「えっ」
「女とか男とか、そんなことは関係ない」

 喜逸が急に真剣な顔つきになるので、愛斗はまた違った意味でドキリとする。

「な、なんでそんなこと言うわけ? おどかしたってぜんぜん怖くないからね」
「おどかしてるわけじゃない。オレは真面目に言ってるんだよ」
「……じゃあ、やっぱりボク、刺されるの?」

 てっきりまたからかわれる流れだと思っていたのに、喜逸は強張った面持ちを崩さない。

 おかげですっかり怖くなってしまった愛斗は、顔を青くすると喉を鳴らした。唇を引き結び、怯えた目をして喜逸を見上げる。

 すると喜逸はそんな愛斗の鼻を指先できゅっと摘むと、

「変な顔」

 と言って、ふふっと笑った。

「ほぇ……?」
「ごめん。真に受けるとは思ってなくて……単純だよなぁ、愛斗は」

 やっぱりからかわれていた。
 愛斗は目に涙を浮かべながら奥歯を噛み締め、悔しさから肩を震わせる。

「~~ッ、喜逸のバカ!!」

 大きな大きな愛斗の声は、校庭で友達と弁当を食べていた早苗の耳にまで、バッチリ届いていたらしい。