ボニー・バタフライ・エフェクト

 いつもの場所──そこは旧校舎の屋上だ。

 屋上へ続く扉に鍵がかかっていないことは、喜逸と愛斗だけが知っている。
 愛斗が高校に入ってすぐ、「とっておきの場所だよ」と言って、喜逸が教えてくれた。
 以来、二人は毎日のようにここで昼食を共にしているのだった。

 愛斗は昼休みになると、先にここへ来て喜逸が来るのを待っている。
 彼は昼のお誘いをかけてくる女子をかわしたり、なにかと忙しい身なので、少しばかり到着するのに時間がかかってしまうのだ。

 喜逸を待つあいだ、愛斗は屋上に張り出した塔屋の壁面に背中を預け、膝を抱えてぼんやりと空を見上げていた。
 初夏の空は深く、蒼く、爽快だ。

 けれど愛斗の心は、朝から感じているモヤが晴れないままだった。

(ボクってそんなにダメ人間に見えるのかな……)

 いつも近くに喜逸がいて、助けてもらうのが当たり前だったから。自分一人だけになったときのことなんか、まともに考えたことがなかった。

 だけど実際、そうなのかもしれない。朝の支度すら、喜逸に手伝ってもらってやっとなのだ。いつも申し訳無さそうにしている母の顔を思いだし、急に情けなくなってくる。

(今のままじゃ絶対ダメだ。一人でなんでもできるようにならないと!)

 だっていつかは、喜逸と離れる日が来るのだから。

 子供の頃は彼のお嫁さんになるのだと、そうすればいつまでも一緒にいられるのだと、そう信じて疑わなかった。
 けれどそれが叶わないことを、今の愛斗は知っている。また少し、気持ちが沈んだ。

「ごめん、お待たせ」

 塔屋のドアが開き、売店の袋を手にぶら下げた喜逸が顔を覗かせた。
 その優しい笑顔に、ついホッとしてしまう。だけど今日の愛斗はいささか複雑で、自分の気持ちを持て余していた。

 だからなんとなく、いつものように屈託のない笑顔を浮かべることができなかった。

「女の子たちはいいの?」

 隣に腰をおろした喜逸に、今まで一度もしたことのない質問を投げる。
 聞こうと思ったことすらない問いかけだ。だって喜逸が女の子より愛斗を優先するのは、ずっと当たり前のことだったから。

 喜逸は意外そうに目を瞬かせ、それから笑った。

「なんで笑うの」
「どうしてそんなことを聞くのかと思ったからさ」
「……知らないよ。そんなの」
「妬いたんだ、お前」
「えっ?」

 ギクリとして目を見開いた愛斗に、喜逸はなぜかとても嬉しそうに微笑んだ。

「俺は愛斗にしか興味ないよ」

 喜逸の口から飛び出した言葉に、唇を尖らせながら目を泳がせる。

「なんだよそれ」
「オレは将来結婚する相手にしか、興味ないってこと」
「ま、またそれ? もうやめろってば!」

 喜逸は笑みを崩さないまま、ビニール袋の中からパンと缶コーヒーを取りだした。彼はいつも売店で買った弁当だとか、菓子パンばかり食べている。

 喜逸には両親がいなかった。生まれたときにはすでに父はなく、母親は彼が7歳の頃に事故で他界している。今は母方の祖父母の元で世話になっているらしい。

 祖父母はもうだいぶ高齢だから、あまり手をかけさせたくないのだと、前に喜逸が話してくれたことがある。

「ほら、いつもの」

 喜逸は袋の中からフルーツオレの紙パックを出して、愛斗に差し出してきた。
 けれど口をへの字に曲げて、赤い頬で眉を吊り上げる愛斗は、ジュースを睨みつけたまま動けない。

「いらないの?」
「……いるけど」

 喜逸はブラックコーヒーで、愛斗はフルーツオレ。いつものことだ。それなのに、今日はやけに気になった。

 彼が愛斗に買うのは、昔から決まってフルーツオレだった。愛斗もこれが大好きだったし、今まで気にしたことはなかったけれど。

「ボク、今日はコーヒーがいい」
「これブラックだけどいいの? 甘くないよ」
「平気だって。甘くないのがいい」
「ふぅん。じゃあいいよ、ほら」
「ありがと」

 愛斗はようやく笑顔を浮かべ、嬉々として缶を受け取った。
 これで今日は喜逸がフルーツオレ。愛斗はブラックコーヒーだ。なんだか少し、大人になったような気がして誇らしい。

 さっそく缶を開け、口をつけた。
 舌の上に広がる独特の苦味に、思い切り顔をしかめる。それを見て喜逸が苦笑した。

「ほら見ろ。無理するから」
「うえぇ~……なんこれ、にっがぁ~。なんでこんなの平気で飲めんの?」
「どうする? やっぱりフルーツオレにしとく?」
「……いい。全部飲む」
「なんか変だね、今日の愛斗は」

 楽しげに言いながら、喜逸はフルーツオレを飲んでいる。
 後悔はしているけれど、ここで諦めたらまた子供に逆戻りするみたいで嫌だった。こうなったら、なにがなんでも飲みきってやる。

 泥水としか思えない液体を、愛斗はぐいっと喉に流し込んだ。