冬を越え、春を越え、静かに目を覚ました青葉が茂る、新緑の季節。
爽やかな朝の空には、澄みきった淡い水色がどこまでも広がっている。
肌を撫でる心地いい風が、最近ではほんのりと初夏の匂いを運んでくれるようになった。
静かで、穏やかな朝。
木陰で二度寝──いや、三度寝でもしたいような気分になる。
「ミシシッピニオイガメって知ってる?」
どうにかいつも通りの時刻に家を出ることに成功し、気の抜けきった欠伸をしながら歩く栗坂愛斗の隣で、喜逸がふいに口を開いた。
なんの脈絡もない問いかけに首を傾げた愛斗は、「知らない」と言って首を左右に振る。
「成体でも最大で10cm程度にしかならない、世界でいちばん小さなカメだよ」
「ふぅん。それがどうかした?」
「お前に少し似てるから」
「なにそれどういう意味──ん? ねぇちょっと? それってもしかして、ボクのことチビだって言ってる?」
ムッとしながら睨みつける愛斗に、喜逸はただ静かに笑うだけだったが、それはもはや肯定しているのと同じようなものである。
「ひっど! なんでそんな意地悪言うかな!?」
「可愛いよ、手の平サイズで。身を守るために変なニオイを放つらしいけど」
「ボクはそんなにチビじゃないし、変なニオイなんか出さないし!」
これでも中2くらいから伸び始めて、高校一年生の現在は170センチに届いたところだ。きっとまだまだ伸びる、はず。けれどすでに180を超える喜逸にしてみれば、愛斗が小さく見えてしまうのは仕方がないのかもしれない。
しかしいくらなんでも、手の平サイズは言いすぎである。
だいたい、なぜわざわざカメに例える必要があったのだろう。小さくて可愛い生き物なら、もっと他にもいるだろうに。
すると喜逸は愛斗の心を読んだかのように、その答えを口にした。
「ノロノロ歩きで、カメみたいだと思ったからさ。そんなんじゃ遅刻するぜ」
なるほど、とつい納得しかけたが、だったら最初からそう言えばいいのにと、愛斗はまたムッとした。けれどあまり強くは言い返せない。
愛斗が遅ければ遅いほど、毎朝その世話を焼いている喜逸も遅刻する。それでも彼は一人でさっさと行くことをしない。愛斗はそれをいいことに、すっかり甘えているのだから。
「いつまでたっても、愛斗は小さい頃のまんまだな」
子供の頃からずっとこんな調子なのだから、言われたって仕方がない。
そのくせ子供扱いされるのは面白くなかった。リスのように頬を膨らませた愛斗に、喜逸はやれやれというふうに苦笑をその顔にのぼらせる。
「そんなことで、もしオレがいなくなったらどうするの?」
その問いに、愛斗は肩を跳ねさせて顔色を変えた。
「えっ? 喜逸、どっか行っちゃうの!?」
考えてもみれば、この春やっと高校生になったばかりの愛斗とは違い、喜逸はもう三年生だ。もし彼が家を出て、どこか遠くの学校に進学──あるいは就職──するつもりでいるのなら、来年の今頃は離れ離れということになる。
急に迷子になったような不安が押し寄せ、寂しさと心細さに胸が塞がった。
喜逸は下唇を噛みしめる愛斗に目を細めると、「いなくならないよ」と柔らかな声音で言った。
「ほんと?」
「だって結婚するんだろ? オレたち」
「!」
愛斗はパチパチと瞬きを繰り返し、それから眉を吊り上げた。
「それって子供の頃の話じゃん!」
「そうだよ。子供の頃にした、約束の話」
歌うように言った喜逸の涼しげな横顔を睨みつけ、愛斗は頬に赤色をのぼらせた。
彼は事あるごとに、こうして『子供の頃の約束』を口にする。喜逸にとってこの話題は、愛斗をからかうためのお約束なのだ。鉄板のネタと言ってもいい。
それは幼い頃に交わした、無知で無邪気な約束だった。
どこへ行くにも喜逸の後をついて回る子供だった愛斗は、あるとき彼に言ったのだ。喜逸のお嫁さんになりたい、と。そうすれば、大人になってからもずっと一緒にいられると思っていたから。
喜逸は驚いていたが、最後には嬉しそうな笑顔を浮かべて「いいよ」と言った。
あの頃の愛斗はまだ5歳かそこらで、結婚というものを全く理解していなかった。
ただ仲のいい友達同士が、ずっと一緒にいるために必要なこと、くらいにしか認識していなかったのだ。
だけど今では、さすがに分かっている。男同士じゃ結婚なんかできないし、子供が授かるなんてこともありえない。自分は喜逸の『お嫁さん』にはなれないのだと。
なにも『結婚』という形式だけがすべてではないことは分かってる。ちゃんと好き合っているのなら、男同士で一緒になったって別に構わないだろう。
けれど自分たちはただの幼馴染だし、歳の近い兄弟のような存在でしかない。
だから彼がイタズラに『約束』を口にするたび、愛斗はやけにモヤモヤとした嫌な気持ちになってしまう。
最近では、いっそ苛立ちすら覚えてしまうほどだった。
爽やかな朝の空には、澄みきった淡い水色がどこまでも広がっている。
肌を撫でる心地いい風が、最近ではほんのりと初夏の匂いを運んでくれるようになった。
静かで、穏やかな朝。
木陰で二度寝──いや、三度寝でもしたいような気分になる。
「ミシシッピニオイガメって知ってる?」
どうにかいつも通りの時刻に家を出ることに成功し、気の抜けきった欠伸をしながら歩く栗坂愛斗の隣で、喜逸がふいに口を開いた。
なんの脈絡もない問いかけに首を傾げた愛斗は、「知らない」と言って首を左右に振る。
「成体でも最大で10cm程度にしかならない、世界でいちばん小さなカメだよ」
「ふぅん。それがどうかした?」
「お前に少し似てるから」
「なにそれどういう意味──ん? ねぇちょっと? それってもしかして、ボクのことチビだって言ってる?」
ムッとしながら睨みつける愛斗に、喜逸はただ静かに笑うだけだったが、それはもはや肯定しているのと同じようなものである。
「ひっど! なんでそんな意地悪言うかな!?」
「可愛いよ、手の平サイズで。身を守るために変なニオイを放つらしいけど」
「ボクはそんなにチビじゃないし、変なニオイなんか出さないし!」
これでも中2くらいから伸び始めて、高校一年生の現在は170センチに届いたところだ。きっとまだまだ伸びる、はず。けれどすでに180を超える喜逸にしてみれば、愛斗が小さく見えてしまうのは仕方がないのかもしれない。
しかしいくらなんでも、手の平サイズは言いすぎである。
だいたい、なぜわざわざカメに例える必要があったのだろう。小さくて可愛い生き物なら、もっと他にもいるだろうに。
すると喜逸は愛斗の心を読んだかのように、その答えを口にした。
「ノロノロ歩きで、カメみたいだと思ったからさ。そんなんじゃ遅刻するぜ」
なるほど、とつい納得しかけたが、だったら最初からそう言えばいいのにと、愛斗はまたムッとした。けれどあまり強くは言い返せない。
愛斗が遅ければ遅いほど、毎朝その世話を焼いている喜逸も遅刻する。それでも彼は一人でさっさと行くことをしない。愛斗はそれをいいことに、すっかり甘えているのだから。
「いつまでたっても、愛斗は小さい頃のまんまだな」
子供の頃からずっとこんな調子なのだから、言われたって仕方がない。
そのくせ子供扱いされるのは面白くなかった。リスのように頬を膨らませた愛斗に、喜逸はやれやれというふうに苦笑をその顔にのぼらせる。
「そんなことで、もしオレがいなくなったらどうするの?」
その問いに、愛斗は肩を跳ねさせて顔色を変えた。
「えっ? 喜逸、どっか行っちゃうの!?」
考えてもみれば、この春やっと高校生になったばかりの愛斗とは違い、喜逸はもう三年生だ。もし彼が家を出て、どこか遠くの学校に進学──あるいは就職──するつもりでいるのなら、来年の今頃は離れ離れということになる。
急に迷子になったような不安が押し寄せ、寂しさと心細さに胸が塞がった。
喜逸は下唇を噛みしめる愛斗に目を細めると、「いなくならないよ」と柔らかな声音で言った。
「ほんと?」
「だって結婚するんだろ? オレたち」
「!」
愛斗はパチパチと瞬きを繰り返し、それから眉を吊り上げた。
「それって子供の頃の話じゃん!」
「そうだよ。子供の頃にした、約束の話」
歌うように言った喜逸の涼しげな横顔を睨みつけ、愛斗は頬に赤色をのぼらせた。
彼は事あるごとに、こうして『子供の頃の約束』を口にする。喜逸にとってこの話題は、愛斗をからかうためのお約束なのだ。鉄板のネタと言ってもいい。
それは幼い頃に交わした、無知で無邪気な約束だった。
どこへ行くにも喜逸の後をついて回る子供だった愛斗は、あるとき彼に言ったのだ。喜逸のお嫁さんになりたい、と。そうすれば、大人になってからもずっと一緒にいられると思っていたから。
喜逸は驚いていたが、最後には嬉しそうな笑顔を浮かべて「いいよ」と言った。
あの頃の愛斗はまだ5歳かそこらで、結婚というものを全く理解していなかった。
ただ仲のいい友達同士が、ずっと一緒にいるために必要なこと、くらいにしか認識していなかったのだ。
だけど今では、さすがに分かっている。男同士じゃ結婚なんかできないし、子供が授かるなんてこともありえない。自分は喜逸の『お嫁さん』にはなれないのだと。
なにも『結婚』という形式だけがすべてではないことは分かってる。ちゃんと好き合っているのなら、男同士で一緒になったって別に構わないだろう。
けれど自分たちはただの幼馴染だし、歳の近い兄弟のような存在でしかない。
だから彼がイタズラに『約束』を口にするたび、愛斗はやけにモヤモヤとした嫌な気持ちになってしまう。
最近では、いっそ苛立ちすら覚えてしまうほどだった。
