ボニー・バタフライ・エフェクト

 とある穏やかな休日の午後──。

 学生街の一角にあるアパートの扉を、合鍵を使ってそっと開いた。
 喜逸が一人暮らしを始めてからというもの、愛斗はこうして週末になるたびに、彼の部屋へ遊びに来るようになっていた。

「よし、喜逸はまだ帰ってないな」

 しめしめ……と思いながら、入ってすぐのキッチンの床に、大きなビニール袋をドサッと置いた。よく整頓された無人の室内を見渡し、にんまりとほくそ笑む。

 今日の愛斗は、とある重大なミッションのためにここへやって来たのである。

 それは喜逸がバイトで家を空けている間に、美味しい食事を準備して、帰ってきた彼を驚かせてやろう──というものだった。

 メニューはハンバーグだ。見たことがないほど、巨大なやつを作りたいと思っている。
 レシピは母直伝のものを教えてもらい、スマホにしっかりメモってきた。材料もこの通りスーパーで買い込んできたし、準備は万端だ。

 喜逸は自分のこととなると割と適当なところがあるので、普段はコンビニ弁当や菓子パンばかり食べている。高校の頃だって、昼食といえば売店のパンばかりだった。

 だからこそ美味しい家庭料理を味わってほしい、と意気込んでいるというわけだ。

「よーし、やるぞー!」

 愛斗は母から借りてきたエプロンを装備して、アパートの狭いキッチンに立った。
 手を洗い、買ってきた食材を作業台に並べた。ふんふーん、と鼻歌を歌いながら、腕まくりをしてまな板と包丁を手に取った。

(喜逸、ビックリするかなぁ。喜んでくれるといいんだけど)

 どんな反応をするかと想像するだけで、ウフフと自然に笑みがこぼれてしまう。
 愛斗は鼻歌まじりに、意気揚々と調理を開始した。

──そう、この時までは、すべてが順調だったのだ。


 *


 バイトを終えて帰宅する道すがら、喜逸はふと周囲の匂いに鼻をひくつかせた。
 そこらじゅうから、美味しそうな夕飯の匂いが漂っている。

 住宅街の夕暮れ時というのは、どこかしらから美味しそうな匂いが漂ってきて、胃袋を刺激してくる。カレーだとか、醤油の焦げる香りだとか、出汁の利いたいい匂いだとか。

 子供の頃は、ご飯を作って待っていてくれる母親が羨ましくて仕方なかった。公園で友達と遊んだ帰り道、他所の家の食卓を思い浮かべては寂しい気持ちになったものだ。

 ほのかに込み上げる感傷に浸っていると、自宅アパートが見えてくる。
 すぐ側まで来たところで、喜逸はふと異変に気づいて足を止めた。
 くんっと鼻を鳴らす。

(なんか、焦げ臭い……?)

 どこからともなく、明らかに何かが焦げた匂いがしてくる。だいぶ盛大にやらかしている感じがした。

 料理って難しいもんなぁ、と喜逸は思う。愛斗みたいな、ちょっと抜けているところのあるお母さんだったりしたら、こういうこともあるかもしれない。

 ついつい微笑ましい気持ちになりながら、アパートの階段を上がった。
 今朝、愛斗から「今日も行くからね!」とメッセージが来ていたので、部屋では彼が待っていてくれるはずだ。口元に自然と小さな笑みが浮かぶ。

「愛斗、帰ったよ……ん?」

 そう声をかけながら扉を開けた瞬間、 喜逸は我が目を疑った。


 *


 失敗した。それはもう、盛大に。
 レシピ通りにやったつもりが、最後の最後でドジッたのだ。

 部屋中に焦げ臭い煙が充満する中、玄関を入ってすぐのキッチンで、愛斗は床に崩れ落ちて大泣きしていた。

「うわぁあん! 喜逸~! ごめん~っ!!」
「え、ちょ、ど、どうした!?」

 喜逸は慌てて靴を脱ぎ捨てて駆け寄ると、愛斗のそばに膝をついた。彼はわけも分からず困惑しながら、とりあえずといった様子で愛斗の肩を抱く。

「な、なにがあったの? ケガは?」
「ケガは……ないけどぉ……ッ」

 目を真っ赤にしてボロボロ泣いている愛斗を尻目に、喜逸の視線がキッチンをさまよう。
 そこらじゅうに散乱するゴミや野菜クズ。シンクには山盛りの洗い物。フライパンの上では真っ黒焦げになった巨大な塊が、ブスブスと白い煙を上げている。

「これは、一体……?」
「ハンバーグ! 喜逸にハンバーグを作って、ビックリさせようと思ったんだ……! なのに、ちょっと目を離した隙にコゲコゲになっちゃって……ッ!!」

 なにもかも、途中までは順調だったのだ。

 指も切らなかったし、すべてレシピ通りに作り上げることができた。
 大きな俵のようなハンバーグを火にかけたフライパンに寝かせ、あとは焼け上がるのを待つばかりだった。

 が、しかし──。

 焼け上がるのを待つ間、ついスマホで最近ハマっているパズルゲームに熱中してしまった。最高難易度のステージをクリアできた瞬間、「やったぁ!」と声をあげたときには、もう何もかもが手遅れになっていた。

「喜逸に作りたてのご飯、食べさせてあげたかったのに……喜ぶ顔が見たかったのに……やっぱりボクって、何をやってもダメなんだ……」

 情けなくて、またしても涙があふれる。
 すると次の瞬間、喜逸にギュウッと強く抱きしめられた。

「っ、き、喜逸?」
「……頼むから」

 彼の声は、なぜかとても切迫していた。

「そんな可愛いことしないでくれ。頭がおかしくなるから」
「か、可愛い……!? これのどこが!?」

 愛斗はびっくりして顔をあげた。

「勝手にキッチン荒らして、ハンバーグ焦がしてボロ泣きしてるのが可愛い!? 喜逸って、元からちょっとおかしいとこあるよね!?」
「こんなの、おかしくもなるだろ……エプロン似合ってるし……」

 喜逸はそう言いながら、眉を下げたような笑顔を浮かべた。

「それに、オレのためを思ってしてくれたんだろ? それだけで、最高のサプライズだよ」
「喜逸……」

 その言葉からは、彼が心から喜んでくれていることが伝わる。
 けれど愛斗は涙を浮かべたまま、「でも……」と言って黒焦げバーグの方をちらりと見やった。

「あんなんじゃ食べられないよ……本当にごめんね喜逸。ボク、やっぱり君のお母さんにはなれそうもないや」

 するとなぜか、喜逸の動きがピタリと止まった。

「……なんて?」

 喜逸が困惑した声で聞き返す。

「引っ越しの日に言ってくれたじゃん。最近お母さんに似てきたって。あのときの喜逸、なんか嬉しそうだったから……」

 そこまで言ったところで、愛斗はなんとなく嫌な予感がした。
 喜逸の表情から、すうっと感情が消えていく。そこにあるのはガラス玉のような、あの空恐ろしい瞳だった。

(あ、これはまずい)

 室内の温度が、ぐんと下がった気がした。
 喜逸の手が、ぐいと少し強めの力で愛斗の顎を掴む。

「オレたちって、恋人じゃなかったっけ?」

 ゾッとするほど低い声だった。

「愛斗は母親と、キスなんかするのか?」
「ちょ、喜逸っ?」
「オレは愛斗に、母親になってほしいわけじゃない」
「わ、わかったから、その怖い顔やめろってば!」

 愛斗は強引にキスをしようとしてくる喜逸の顔を、とっさにグイっと両手で押し返した。

「ヤンデレ描写は本編だけでもうお腹いっぱいだよ!!」

 喜逸は不満そうなジト目で愛斗を見つめてくる。
 この人、病むとすぐ様子がおかしくなるんだよなぁ、と愛斗は改めて思った。この壊滅的な情緒は、きっと死ぬまで治らないだろう。

 これ以上面倒なことになる前にと、咳払いをして先を続ける。

「ボクってさ、ずっと喜逸に甘えてばかりじゃん。だから今度はボクが、喜逸に甘えてもらえるような……頼ってもらえる人になりたいと思って。だから、まずは手始めに料理から……って、そう思って。失敗だったわけだけど」

 おとなしく話に耳を傾けていた喜逸は、「そういうことか」と溜息まじりに呟いた。

「言っただろ。オレは愛斗がいないと生きていけないって」
「……うん」
「そういう意味では、もうとっくに愛斗に頼り切ってるし、甘えてるんだよ」

 そういえばそうだった。喜逸の生殺与奪は、愛斗が握っているのだった。
 今更ながらめちゃくちゃ重たいな、と思いつつも、満更でもない自分がいる。

「そっかぁ」

 とはいえ、ご飯が台無しになったことは事実だ。
 愛斗はガッカリした面持ちでフライパンの方に目をやった。もはや煙は上がっていないが、焦げ臭さは健在だった。

「お腹すいたでしょ。ボク、なんか食べられるもの買ってくるよ」

 喜逸の腕から抜け出し、立ち上がった愛斗の手が掴まれる。
 その顔を見やれば、彼は「平気だよ」と言って微笑んだ。

「生焼けよりよっぽどマシさ。焦げの部分は剥がして、中身を食べればいいんだから」

 喜逸はキッチンに立ち、黒焦げバーグを覗き込みながら言った。
 確かに、愛斗はアホみたいに巨大なハンバーグを作ろうとしていたから、外側だけ剥がせば可食部位はあるかもしれない。

「……ホントに?」
「ホントに」

 まだイマイチ納得がいかなかった。けれど喜逸はどこか嬉しそうに、積んであった皿にハンバーグを盛り付けている。
 その横顔を見ていたら、まぁいいか、という気持ちになってきた。

 愛斗はようやく少しだけ笑みを浮かべると、そんな喜逸の隣に寄り添った。
 すると喜逸が愛斗を見やり、頬にそっと触れてくる。

 数秒のあいだ見つめ合ってから、互いの唇がごく自然に重なった。愛斗は少しだけ踵を浮かせ、喜逸はそっと身を屈めて。

「ん……」

 キスの甘ったるさに、心がほどけていく感覚があった。
 今までだって何度か口付けを交わしてきたはずなのに、そのたびに胸が締めつけられてドキドキしてしまう。

 唇が離れたあとも、離れがたくて互いに向き合い、おでことおでこをくっつけた。

「ありがとう、愛斗」

 なんだか照れくさくて、愛斗は口をモゴモゴさせながらうなずいた。
 すると喜逸が、「次は一緒に作ろう」と言った。
 楽しそうだなと、愛斗は思う。

 狭いキッチンで身を寄せ合って、たまにちょっと言い合いをしたり、摘み食いをしたり。
 少なくとも、喜逸と一緒ならハンバーグを焦がすこともなさそうだ。想像を膨らませ、胸を踊らせる。

「オレがいないところで、刃物や火は使わないでほしいから」

 付け加えられた喜逸の過保護な本音に、愛斗はぶぅっと唇を尖らせる。

「んもー! 結局そうやって甘やかすじゃん!」
「あはは、ごめんって」

 悪びれもせず、喜逸が笑う。

(いつか絶対、一人で完璧に作り上げてやる! 喜逸をあっと言わせてやるんだ!)

 愛斗は胸の中でそう誓いながら、結局は釣られて笑いだしてしまう。
 夕暮れの学生アパートに、二人分の柔らかな笑い声がいつまでも響いていた。

 終わり