ボニー・バタフライ・エフェクト

 春らしく、穏やかで気持ちのいい土曜日の朝だった。

 桜がちょうど見頃を迎えていた。
 薄紅色の花びらがヒラヒラと舞い落ちて、道のあちこちに積もっている。風が吹くたび吹雪のように舞い上がり、あたたかな陽気に彩りを添えていた。

 あの恐ろしい出来事から、一年が経っていた。

 メガネくんの姿は、あれから一度も見ていない。
 学校を辞めたらしいという話はチラリと耳にしたが、今ごろ彼がどうしているのか、愛斗には知るよしもなかった。

 今でもふと、最後に聞いたあの悲痛な泣き声を思いだしては、感傷が胸をよぎることがある。
 
 けれど未だにくっきりと残っている喜逸の左腕の傷痕を見るたびに、やっぱりどうしたって彼を許す気にはなれそうもない。

 なんにしろ、きっともう関わることはないだろう。できれば二度と顔も見たくないというのが本音だ。
 それは愛斗の心にもまた、今もなおトラウマを残している何よりの証拠だった。

 けれどあの出来事が、確実に喜逸との関係を前進させ、より深めたことも事実だ。

 そんな愛斗はこの春、高校二年生になった。
 そして喜逸は晴れて卒業を迎えた。

 卒業後は離れ離れになってしまうのだと覚悟していたが、そうはならなかった。
 喜逸が選んだ進路は、地元の大学への進学だったからだ。
 彼の頭なら、誰もが知るような都会の一流大学にだって、余裕で手が届いただろうに。

 本人いわく、

「遠距離なんて考えたくもない。愛斗と会えない生活なんて、死んだほうがマシだよ」

 ──だ、そうだ。

 少し前の愛斗だったら、自分のせいで喜逸の可能性を潰したのかと、深く思い悩んでいたかもしれない。だけど今は、喜逸らしいなぁと感心するだけだった。

 なにしろ彼は、愛斗がいなければ生きていけないくらい、とっても重たい男なので。

(案外ボクよりずっと、喜逸ってダメダメなのかもしれないなぁ)

 最近よく、そんなことを思うようになった。
 なんでもできちゃう、優秀なダメ人間。それが喜逸なのである。

「ねぇ、本当に荷物それだけでいいの? なんか忘れ物ない?」

 歩道を並んで歩きながら愛斗が問うと、喜逸は苦笑しながら「大丈夫だよ」と答えた。

「ホントかなぁ」
「愛斗ってそんな心配性だったっけ。最近お母さんに似てきたんじゃない?」
「え? そう?」
「うん」

 大好きな母に似てきたと言われるのは、なかなかに悪い気がしない。
 同時に、喜逸が自分の子供だったら……などと想像して、ちょっと笑ってしまった。

 彼は今日から祖父母の家を出て、一人暮らしを始める。
 だから愛斗は、引っ越しを手伝う気満々で朝から喜逸の家を訪れたのだ。

 しかし大きな荷物はあらかじめ送ってあるらしく、持っていくものは少なかった。
 喜逸はスポーツバッグを肩にかけているだけだし、愛斗は小さな紙袋を一つ持たせてもらうだけで済んでいた。なんだか拍子抜けである。

 これなら喜逸一人でも、難なくこなせてしまっただろう。それでも愛斗が手伝うと言ったら、彼はとても嬉しそうにしていたし、来てよかったと思う。

 今は二人で並んで、喜逸の新居である学生アパートへと続く道を歩いている。
 気持ちのいい春風が、薄紅の花びらと共に二人の間を通り過ぎていった。

「ねぇ喜逸」
「ん?」

 愛斗は後手に紙袋を持ち、うららかな空を見上げながら言った。

「ボクさ、思い出したんだ」
「なにを?」

 喜逸がこちらに顔を向ける。愛斗は前を向いたまま、ゆっくりと続けた。

「初めて会ったとき、ボクが喜逸に言った言葉」

 一年前、保健室で問われたことの答え。あのときは、すっかり忘れていたけれど。

 すると喜逸が「へぇ」と言った。どこか思うところがあるような、含みのある声だった。
 愛斗は構わず続けた。

「ボク、君に嫌いって言ったんだよね」
「……うん。そうだね」
「本当は、そんなことちっとも思ってなかったのに。嘘ついちゃった」

 のんびりと歩きながら、愛斗はあの日のことをゆっくりと辿っていく。

「あのころ、君はみんなの優しいお兄さんだった。転んだ子を笑顔にしたり、小さい子の面倒を見たり……ボク、みんなのことが羨ましかった」
「羨ましい?」

 うん、と愛斗は笑ってうなずいた。

「ただのヤキモチだよ。だって喜逸、誰にでも優しいんだもん。きっとボクだけのお兄ちゃんには、なってくれないんだろうなって……だから面白くなかったんだと思う」

 言葉にしてみると、我ながら子供だったと思う。けれど事実だから仕方ない。

「だからさ、話しかけてもらって、本当はすごく嬉しかったのに……意地張って、つい嫌いなんて言っちゃったんだよね」

 照れくさくて、うつむきながら言った。
 あの頃は分からなかったけど。大きくなった今なら、自分の気持ちがちゃんと分かる。

「本当は最初から、ボクは喜逸のことが大好きだったんだよ」

 言い終わってから、途端に顔が熱くなった。

 隣を見ると、喜逸が珍しくポカンとしていた。その表情は、夕暮れの帰り道で『結婚』の約束をした、あのときのものと同じだった。

「……オレは結構、ショックだったんだけどな」

 やがて彼は、頬を染めながらそう言った。
 普段は飄々としているくせに、こういうときだけ正直に照れるのだから、ズルいと思う。

「ごめんって」

 愛斗は困り眉で笑いながら謝った。
 喜逸も釣られて笑いだす。二人分の笑い声が、春の風に溶けていく。

 のんびりと歩き続けていると、やがて道は学生街に差しかかった。
 愛斗はちらりと周りを確認し、人通りが少ないのをいいことに喜逸の手をそっと握った。

「ボクも、喜逸と同じ大学に行くから」

 愛斗は喜逸を見上げた。

「ちゃんと合格するからさ。待っててね」
「……うん」

 喜逸は嬉しそうに目を細め、愛斗の手を握り返してきた。
 大きくて温かい手。子供の頃から、ずっとこれが大好きだった。独り占めしたくて、ヤキモチを焼いてしまうくらい。

 そしてきっと、これからも。

 幼い日に思いを馳せながら、しばらくは無言で歩いた。
 繋いだ手の温もりが、静かに二人の胸に降り積もる。そこからあたたかな鼓動を感じた。

「でさ」と愛斗は言った。

「卒業したら……」
「結婚、だろ?」

 間髪入れずに言われた。

 喜逸はいつものあの顔で、からかうように口角を上げながら笑っている。
 小さな頃から何も変わっていない、ずっと昔から知っている、ちょっと憎らしいくらいの綺麗な笑顔で。

「……うん!」

 愛斗もまた、幼い頃と変わらぬ笑顔で元気よくうなずいた。

 自分たちは正式に結婚できるわけじゃないし、愛斗はやっぱり喜逸のお嫁さんにはなれない。どんなに仲良くしてたって、赤ちゃんに恵まれることもない。

 それでも、神様の前で誓いたかった。

 甘ったれで、何もできない自分だけど。喜逸のことを、世界で一番、幸せにすると。
 幼い頃の、あの無邪気な指切りよりも。もっとずっと、確かな約束を交わしたい。

「これからもずっと一緒。約束だよ、喜逸」

 瞳を細めた喜逸の笑顔が、春の光の中で柔らかく輝いていた。空はどこまでも高く、澄み渡っている。
 学生アパートまでは、あと少し。

 二人の重なった足音が、未来に向かって明るく爽やかに、響き渡っていた。


 *


 ねぇ喜逸。

 本当はもうひとつ、思いだしたことがあるんだ。
 あの廃神社の、夕暮れの日のこと。

 君は真っ黒い翳りを背負いながら、格子の向こうで泣いていたんだよね。
 あの場所にボクを閉じ込めたのは君だったんでしょ?
 だからあんなに泣いて、何度も何度も謝っていたんだね。

 5歳のボクには、難しいことは分からなかった。
 だけどあのとき思ったんだよ。

 喜逸を守れるのは、ボクしかいないんだって。喜逸にはボクが必要だって。

 だってあのとき、君は今にも消えていなくなってしまいそうだった。
 誰かが手を差し伸べてあげなかったら、どこか遠くへ行ってしまいそうで。

 だからボクが、ずっと傍にいて、抱きしめてあげなくちゃいけないんだって。

 いつの日か、君の身体中にある傷痕の話も聞かせてほしい。
 そのときもし、また君が泣いてしまうなら。
 あのときと同じくらいの力で、あるいはもっとずっと強く、君を抱きしめたいと思う。

 大丈夫だよって。ボクがいるから大丈夫だよって。
 何度も何度も、言い聞かせてあげるから。

 だからずっと一緒にいよう。
 君もボクを離さないでね。ずっと二人で、生きていこう。

 世界で一番、君が好きだよ。


 ボニー・バタフライ・エフェクト / 了